コラム:芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 第7回
2015年2月23日更新
ああ面白かった、だけでもかまわないが、話の筋やスターの華やかさだけで映画を見た気になってしまうのは寂しい。よほど出来の悪い作り手は別にして、映画作家は、先人が残した豊かな遺産やさまざまなたくらみを、作品のなかにしっかり練り込もうとしている。
それを見逃すのは、本当にもったいない。よくできた娯楽映画は、知恵と工夫がぎっしり詰まった鉱脈だ。その鉱脈は、地表に露出している部分だけでなく、深い場所に眠る地底の王国ともつながっている。さあ、その王国を探しにいこうではないか。映画はもっともっと楽しめるはずだ。
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第7回:「アメリカン・スナイパー」と場内の沈黙
クリント・イーストウッドの心臓や肺は、並外れて機能が高い。苦境や逆境に強く、追い風を受けてもはしゃぐことがない。つまり、ぼんくらなら舞い上がるところで平然としている。ぼんくらなら沈み込むところでも泰然としている。言い方を変えると、のぼせることがない。全能感などといった醜悪な気分にもけっして染まらない。
器が大きいことはもちろんだが、復元力や治癒力が非常に発達しているのだろう。1958年のTVシリーズ「ローハイド」から彼を見つづけてきた私としては、これほど長い距離を走破しても乱れない心肺機能に賛嘆するほかない。
もしかすると、彼の身体にはよほどよく効く薬が仕込まれているのだろうか。それとも……彼の存在自体が薬の機能を秘めているのだろうか。
薬といっても、ドラッグではなくメディスンだ。毒薬や劇薬ではなく、即効性のある頓服薬でもない。ある種の漢方薬に近いのかもしれないが、ゆっくりと身体に働きかけ、時間をかけて体質を改善する薬。
「アメリカン・スナイパー」を見たあとずっと、こんな妄想が頭にこびりついて離れない。
最初に見たときは「底力」という言葉が反射的に浮かんだ。この感想は、いまも変わらない。が、再見すると、それだけですませるのは不十分だという気がしてきた。「ハート・ロッカー」(08)や「ゼロ・ダーク・サーティ」(12)、あるいは「リダクテッド」(07)といった最近の戦争映画と比較して差異をあげつらうのも、やや退屈な態度ではないか。
兵士の無意識に接近する
「アメリカン・スナイパー」の主人公クリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)は実在の人物だ。テキサスのロデオ・ライダーで、1998年にケニアのアメリカ大使館爆破事件をテレビで見て入隊を志願し、海軍特殊部隊(シールズ)の一員となる。その後、2001年の9.11事件に衝撃を受け、イラク戦争の前線に赴く。最後の派遣が2009年。射撃を教えていた帰還兵に射殺されたのが13年2月のことだから、映画で主に描かれていたのは約10年間のできごとということになる(子供時代のクリスもフラッシュバックの形で描かれる)。
クリスは、03年から09年の間に4度もイラクへ派遣された。延べ滞在日数は1000日を超え、射殺者の数は160人にものぼる。ゲームのスコアなどではないから、殺せば殺すほど跳ね返りも大きい。つまり、クリスは苦しむ。苦しみと痛みで壊れかかり、「仲間の命を守る」という一点だけを支えに、かろうじて正気を保っている。
イーストウッドは、そんな兵士の無意識に接近する。戦争というよりも戦場を描き、そこで瞬時も気を抜けない狙撃手の肉体と無意識を凝視する。シニカルな視線は入らない。願望やメッセージは託さない。超現実的な描写も交えない。つまり、「フルメタル・ジャケット」(87)や「プライベート・ライアン」(98)や「地獄の黙示録」(79)といった作品とは明らかに一線を画している。
むしろイーストウッドは、クリスの、というよりアメリカ社会が背負っているオブセッションやトラウマを前提に考える。
ひとつは、スナイパーという存在に対するオブセッションだ。60年代のアメリカは、ジョン・F・ケネディの暗殺事件(63年)やテキサスタワー乱射事件(66年)を体験した。前者の実行犯と目されたリー・オズワルドは、海兵隊で射撃の訓練を受けている。後者の犯人チャールズ・ホイットマンは脳腫瘍が原因でひどい頭痛に苦しめられていた。
テキサスタワー乱射事件をモデルにした映画は、ピーター・ボグダノビッチが監督した「殺人者はライフルを持っている」(68)だ。主人公の名はボビー・トンプソンと変えられているが、銃弾を300発も買い込み、「これからブタを撃ちにいく」とつぶやく場面は背筋が寒くなる。映画のなかの犯行現場は、石油タンクとドライブイン・シアター。彼は高い場所に上り、ライフルスコープを覗き込んで無差別殺人を繰り返す。
観客に恐怖を与えたのは、ロングショットで撮られた無差別殺人だった。なにしろ撃たれる側は、いきなり雷の一撃を受けて倒れるようなものだ。さらにもうひとつ、満車状態のドライブイン・シアターでは、逃げようとしても車を動かせない。犯人は、射的の人形を撃ち落とすように、犠牲者の数を増やしていく。恐ろしいだけでなく、根源的な不快感を呼び起こす映像だった。
正気を保ちつづける覚悟
イーストウッドは、スナイパーに付随するこのおぞましさや不快感を、前もって承知している。彼はクリスを賛美しない。それどころか、彼の自責と苦痛を一貫して描く。仲間の兵士に「レジェンド」と呼びかけられて、恥ずかしげに眼を逸らすクリス。しばらくぶりにアメリカへ帰還して病院で健康診断を受けると、血圧が170にまで跳ね上がっているクリス。黒々とした髭や、どっしりした身体つきも、実は感情のなまなましい揺れを押し隠す装置に思えてならない。
そう、クリスの動揺は震源が深い。冷静沈着で、観察力や注意力にすぐれていることはたしかだが、だからといって心も安定しているとは限らない。同じイーストウッドが10年近く前に撮った「父親たちの星条旗」(06)には《戦争を知らない奴に限ってわかったようなことをいう。ましてや、戦場を知らない者ほどいいかげんなことをいう》という台詞が出てきたが、クリスは寡黙だ。語れば語るほど自身の行為から遠ざかることも事実だろうが、彼の場合は自己嫌悪とか道義的苦痛とかいった範疇に収まらないほど、存在の根っこが揺さぶられている。魂が損なわれているといいかえるべきだろうか。
イーストウッドは、その状態を見つめる。人は人を殺すことをやめないのか、という苦い諦念。それならば、人間のやることなすことのすべてを撮ってしまおうという姿勢。さらには、なにがあっても狂信や感傷に足もとをさらわれず、宿命を直視しながら正気を保ちつづけようという覚悟。この前提があればこそ、「アメリカン・スナイパー」は、残酷な場面を描いても、ひきつったりこわばったりしない。シリア人のスナイパー(「カイザー・ソゼのように神出鬼没だ」という台詞も出てくる)が、ましらのように屋根から屋根へと飛び移る描写。アル・カーイダの幹部ブッチャーが電動ドリルを使って子供の脚に穴をあける描写。
人によっては、塩の利きすぎた味つけと解釈するかもしれないが、これは敵対する立場にいる人間の姿をはっきりと描き、話をしっかりと伝えるために不可欠な描写だ。クリスは彼らを狙い、彼らに狙われる。狙撃者が見えない恐怖は、クリス自身も実感している。
こうした場面を見て戦意を高揚させたり、必要以上に政治的なメッセージを受け取ったりするのは、まっとうな映画の見方とは思えない。あえて分類するなら、「アメリカン・スナイパー」は愛国映画でも反戦映画でもなく、厭戦映画に属していると思う。
いや、そんなことで顔をこわばらせるくらいなら、イーストウッドがドン・シーゲルやセルジオ・レオーネの衣鉢を継ぐ職人監督だったことを思い出すほうが、よほど健康な態度だと思う。彼は、娯楽映画の基礎にある語りの力を信頼している。映像と言語と音響効果によって、現実に拮抗しうる虚構を築き上げることが可能だと考えている(この映画では、轟音と無音の対照が素晴らしい)。
そのためにはもちろん、大胆な決断と繊細な感性が求められる。とくに戦場を凝視する映画は、デリカシーを欠くと説得力が得られない。イーストウッドは、ここでも常人離れした粘りと復元力を見せる。キャメラのうしろに立ったときの彼は、おそらく平常時以上に感性が研ぎ澄まされ、微妙なニュアンスを触知することができるのだろう。
その特性は、映画のいたるところで感じられる。カリフォルニアの友人が教えてくれたことだが、アメリカの映画館では、クロージング・クレジット後半の無音とシンクロするかのように客席が静まり返り、場内が明るくなるまでだれひとり席を立とうとしなかったそうだ。
【これも一緒に見よう】
■「殺人者はライフルを持っている!」
1968年/アメリカ映画
監督:ピーター・ボグダノビッチ
■「父親たちの星条旗」
2006年/アメリカ映画
監督:クリント・イーストウッド
■「フルメタル・ジャケット」
1987年/アメリカ映画
監督:スタンリー・キューブリック