コラム:芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 第5回
2014年9月11日更新
ああ面白かった、だけでもかまわないが、話の筋やスターの華やかさだけで映画を見た気になってしまうのは寂しい。よほど出来の悪い作り手は別にして、映画作家は、先人が残した豊かな遺産やさまざまなたくらみを、作品のなかにしっかり練り込もうとしている。
それを見逃すのは、本当にもったいない。よくできた娯楽映画は、知恵と工夫がぎっしり詰まった鉱脈だ。その鉱脈は、地表に露出している部分だけでなく、深い場所に眠る地底の王国ともつながっている。さあ、その王国を探しにいこうではないか。映画はもっともっと楽しめるはずだ。
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第5回:「フランシス・ハ」とふらふら人生の幸福
「軽蔑」(63)で使われていた曲が聞こえる。「私のように美しい娘」(72)の音楽も聞こえる。「まぼろしの市街戦」(67)に出てきた曲も聞こえる。
「フランシス・ハ」を見ていると、聞き覚えのある曲がつぎつぎと出てくる。いま挙げた3曲は、どれもジョルジュ・ドルリューの映画音楽だ。ドルリューは、映画音楽をいくつも書いた。ケン・ラッセルやベルナルド・ベルトルッチの映画にまで曲をつけていたが、なんといっても有名なのは、フランソワ・トリュフォーとの協働だ。「突然炎のごとく」(61)や「柔らかい肌」(64)といった初期の傑作はもちろんのこと、「終電車」(80)や「隣の女」(81)など晩年の佳作にも、ドルリューの名はかならず書き添えられていた。いわば、トリュフォー映画には欠かせない存在。
そんなドルリューの曲が、「フランシス・ハ」ではふんだんに使われている。当然、観客はトリュフォー映画の気配を思い出す。だが、だからといって、監督のノア・バームバックは、トリュフォー映画のレプリカを作ろうとしているわけではない。むしろ彼は、ここで一種のフェイントをかけている。この映画にトリュフォーの影を見つけて喜んでいるだけの観客は、視野狭窄に気をつけたほうがよい。影はほかにも多いし、なによりもこの映画は、バームバックと「彼のミューズ」グレタ・ガーウィグの親密なコラボレーションなのだ。
バームバックはガーウィグと出会って変わった。ガーウィグも、バームバックと組むようになって翼を得た。近ごろでは珍しいほど相性がよく、たがいを生かし合う組み合わせだ。ジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナ、ミケランジェロ・アントニオーニとモニカ・ビッティの間柄を連想させるといっても過言ではない。
映画は、公園で喧嘩ごっこをしているふたりの若い女を映す場面からはじまる。フランシス(グレタ・ガーウィグ)とソフィー(ミッキー・サムナー。あのスティングの娘)はルームメイトだ。27歳のフランシスは老け顔で背が高く、肩幅が広くて寸胴だ。つまり小悪魔とか妖精とかいったタイプの正反対だが、表情が豊かで、愛嬌もある。
ふたりはバッサー大学で同級だった。いまはブルックリンのアパートをシェアしている。フランシスはダンスカンパニーの研究生で、ソフィーは出版社の社員だ。仲がよくて、しょっちゅう2匹の犬っころのように戯れている。「わたしたち、年を取って、もうセックスしなくなったレズビアンのカップルみたいだよね」などという台詞も聞こえてくる。
映画がはじまって間もなく、フランシスは男友達と別れる。猫を飼って同棲しようと持ちかけられて、首を横に振るのだ。その直後、ソフィーがルームシェアを解消しようと言い出す。トライベッカにいい部屋が見つかったから別の女友達とシェアするというのだ。高い家賃を負担できないフランシスは取り残される。梯子を外されて宙ぶらりんになった気分を覚える。