コラム:編集長コラム 映画って何だ? - 第21回
2019年10月30日更新
「キューブリックの新作」はない。しかし「キューブリックに関する新作」がある
私たちは、スタンリー・キューブリックの新作映画を見ることはできません。彼は1999年に、70歳で亡くなっています。しかし私たちは今年、キューブリックに関する新作映画を見ることができます。没後20年に合わせて、「キューブリックに愛された男」「キューブリックに魅せられた男」という2本のドキュメンタリーが日本で公開されるのです。
しかしまあ、仕えたスタッフをフィーチャーするだけで1本の映画ができてしまうというのは並大抵じゃない。それが2本も。死してなお、キューブリックが巨匠であり、伝説であり続けるわけですね。
そしてこれらは、「アイズ・ワイド・シャット」を最後に、私たちが感じていた喪失感をちょっとだけ解消してくれる映画です。少し紹介してみましょう。
まず「愛された男」の方からいきます。この映画の主人公は、エミリオ・ダレッサンドロというイタリア人で、キューブリックの運転手兼執事みたいな役割を担っていた男です。
このエミリオこそが、「キューブリックに愛された男」なわけですが、別の表現をすれば「F1レーサーになる夢を、キューブリックに潰された男」でもあるんですね。
「時計じかけのオレンジ」で使う小道具(ペニスの形をした大きなオブジェ)を、自動車で運搬する仕事をたまたま引き受け、それを完璧にやりとげたことで、エミリオの人生には大きな変化が訪れます。キューブリックから、自分の運転手として雇いたいとオファーされたのです。エミリオはレーサーを目指していましたが、家族を養うために定職が必要で、この仕事に飛びつきました。以後、キューブリックの送り迎えに加えて、ペットの世話や餌の調達やら、次回作のロケハンなどなど、山のような車雑用がエミリオに降りかかってきます。
キューブリックは典型的なワーカホリックで、さらに始末の悪いことに「マイクロマネジメント上司」です。電話やらメモ書きやらで、とにかく細かく指示を出す。
エミリオは、レースの練習なんて全くできなくなっちゃった。それどころか、妻や子どもの誕生日にもキューブリックは雑用をぶっ込んで来るので、家庭崩壊の危機が何度も訪れる。
でも、自らのオーダーをきっちり完遂してくれるエミリオに対し、キューブリックが感謝の気持ちをしっかり伝える様子も繰り返し描かれています。ブラックな上司だけど、気遣いを忘れない。
この映画で、私たちはキューブリックの偏執狂的な仕事の細かさやこだわりを再確認するわけですが、同時に「バリー・リンドン」がろうそくの光で撮影されていた事実や、ロンドンのEMIスタジオに「シャイニング」の舞台となるコロラドのホテルが忠実に再現されたことなど、キューブリックのフィルムメイキングの特殊で異常なさまを垣間見ることができます。
また、キューブリックが所有するメルセデスの特殊車両ウニモグのこととか、運転中の自動車電話で事故りそうになったこととか、これまであまり語られてこなかった、キューブリックの車愛に関するエピソードもたくさん出てきます。
この映画は、キューブリックのファンにとって、大変貴重です。
しかし、もう1本の「キューブリックに魅せられた男」は、さらに貴重です。先のエミリオは、特に映画ファンではないし、映画制作そのものにはあまり関わっていません。基本的には運転手。その点、「魅せられた男」の主人公レオン・ヴィターリはもともと映画俳優で、「バリー・リンドン」のオーディションに合格し、出演したことによってキューブリックに心酔してしまい、「キューブリックの下で映画を作りたい」と志願して舎弟になった男なのです。
「愛された男」には、キューブリック作品のフッテージはほとんど登場しませんが、「魅せられた男」には、「バリー・リンドン」から「アイズ・ワイド・シャット」まで、キューブリック作品のフッテージがふんだんに使われています。だから、時間などの都合でどちらか1本しか見られない方は「魅せられた男」の方を見てください。
ヴィターリによれば、「バリー・リンドン」の現場では、台詞を覚えられない役者はすぐクビになりました。国王ジョージ3世役の俳優も2人がクビになったそうです。リンドン役のライアン・オニールが、ちょっと悲しそうな表情でインタビューに答え、ヴィターリを殴るシーンを30テイク撮ったエピソードを語る姿が印象的です。
ヴィターリは「キューブリックとの仕事の半分は、メモを取ることだ」と語ります。「とにかく細かくメモを取って、あとで読み返すこと」とキューブリックは命じていたと。「メモの魔力」だね。
キューブリックは飛行機に乗らないので、ロンドンからコロラドに飛んで「シャイニング」の子役のオーディションを担当したのはヴィターリです。ダニー少年や、例の双子の少女を発見するあたりの語りはかなり楽しい。もしもヴィターリがいなかったら、子役のキャスティングも違うものになって、「シャイニング」は全然違う映画になっていたかも知れません。
「シャイニング」の他にも、「フルメタル・ジャケット」や「アイズ・ワイド・シャット」のキャスティングに関するエピソードが出てきます。はっきり言って、面白すぎる。キューブリック映画を全部見直したくなるレベル。
「魅せられた男」には、ワーナー・ブラザースの元重役だった人物も何人か登場してインタビューに答えていますが、その中で非常に印象的だった言葉がありました。曰く、「彼の映画は、とても製作費が安い。理由は、彼は何でも自分でやるからだ」と。
2019年の10月、東京では「時計じかけのオレンジ」が「午前十時の映画祭」でリバイバルされました。私も何年ぶりかでスクリーンで鑑賞しましたが、改めて見ると、確かにローバジェット映画だということが分かります。特撮もないし、大がかりなセットもほとんどない。
「映画監督 スタンリー・キューブリック」(晶文社・刊)によれば、MGMが配給した「2001年宇宙の旅」の製作費は1050万ドルで、そのうち特殊効果で650万ドル費やしたそうですが、ワーナーで作った「時計じかけのオレンジ」は、「2001年」のなんと5分の1、200万ドルだったそうです。ちなみに、この本にはキューブリック映画における経済収支がかなり詳細に書いてあります。彼が目指したのは「ミドルリスクハイリターン」でしょう。スタジオが賞賛するわけです。
さて、ヴィターリは、キューブリックの新作映画の撮影を切り盛りしながら、世界中でリバイバルされたり、ビデオリリースされるキューブリック作品たちの、予告編を作り、本編をプリントし、チェックするという作業も併行して行っていました。「2001年」の70ミリでのリバイバル用プリントがあまりにお粗末で、キューブリックが怒り狂ったため、ヴィターリが全コマチェックしたというエピソードが本人から語られますが、その語りっぷりはちょっと嬉しそうでもあります。
そして、キューブリックに「魅せられた」あげく、「人生のすべてを捧げた」男が映画のエンディングで語る言葉には、涙せずにはいられません。
この2本のドキュメンタリーは、どちらも「キューブリックロス」に関する話です。かつてキューブリックに仕えた男たちが、辛かったけれど充実していた日々を、誇りに思いながら饒舌に語る。その人生に後悔なんて全然ない。あるわけない。しかし、その日々は決して戻ってきません。
これらは、私たちキューブリック・ファンにとって、当時の創作の様子がヴィヴィッドに伝わってくる宝物のような映画です。「キューブリックBOXセット」に、その監督作とともに収録してほしいと心から思います。
P.S.
そういえば私の会社は、「アイズ・ワイド・シャット」が劇場公開を終えて、DVDでリリースされるタイミングで、この作品の公式ホームページを制作するという仕事を受けたことがありました。2000年頃のことです。某広告代理店からの発注案件でしたが、私たちが制作を終え、あとはリリースするだけになっていたこのホームページが、日の目を見ることはありませんでした。「魅せられた男」を見て思い出したんです。キューブリックの映画に関わるというのは、どんな役割であれ、簡単じゃないんだなって思ったことを。
筆者紹介
駒井尚文(こまいなおふみ)。1962年青森県生まれ。東京外国語大学ロシヤ語学科中退。映画宣伝マンを経て、97年にガイエ(旧デジタルプラス)を設立。以後映画関連のWebサイトを製作したり、映画情報を発信したりが生業となる。98年に映画.comを立ち上げ、後に法人化。現在まで編集長を務める。
Twitter:@komainaofumi