伊丹十三
映画監督、グラフィックデザイナー、俳優、エッセイスト、TVディレクター、翻訳家など。松山市出身の映画監督・伊丹万作の長男として京都に生まれる。本名は池内義弘。1944年、京都師範男子部附属国民学校(現・京都教育大学附属京都小学校)の特別科学教育学級に編入。ここは国防における優秀な人材の養成を目的としたエリート機関だったため、早期から英語や科学、芸術などの英才教育を受ける。父の死後、松山に転居。
54年、高校卒業を機に上京し編集者として新東宝に入社。60年、俳優として大映に入社し、芸名を「伊丹一三」とする。同年、のちのフランス映画社副社長、川喜多和子氏と結婚(65年離婚)。61年より国内だけでなく「北京の55日」など海外の映画にも出演。この体験をもとにした初エッセイ「ヨーロッパ退屈日記」を65年に出版し、以降も子育てや料理などをテーマに多くの著作を出版。
「十三」に改名後、69年に女優の宮本信子と再婚し、二男をもうける(長男は俳優の池内万作)。70年代に入りTV界にも進出、多くのドキュメンタリー番組を手掛け、ワイドショーの事件レポーターもつとめた。83年には「家族ゲーム」「細雪」で、キネマ旬報賞、報知映画賞を受賞。
84年、義父の葬儀を題材に1週間で脚本を書き上げた「お葬式」で監督デビュー。映画はヒットを記録、日本アカデミー賞など国内の主要映画賞を軒並み受賞。その後「タンポポ」(85)、「マルサの女」(87)、「あげまん」(90)など話題作を発表、生涯で10本を監督した。俳優にアドリブを許さず、納得いくまでテイクを重ねるが、決して声を荒げたり不機嫌にはならなかった。
92年には「ミンボーの女」の公開を巡り暴力団の襲撃を受け顔面を負傷、93年「大病人」では公開劇場のスクリーンが切り裂かれるなど、反社会勢力からのトラブルも度々受けていた。97年、港区のマンション敷地内で遺体が発見された。享年64歳。