【「アウシュヴィッツの生還者」評論】バリー・レヴィンソンが問いかける、戦争の生還者が払う代償とは。
2023年8月20日 11:00
日本の夏は戦争の記憶を呼び覚ます季節だ。今年も終戦記念日に合わせて戦争をテーマにした映画が公開される。そのひとつが「アウシュビッツの生還者」だ。「レインマン」(1988)でオスカーを受賞したバリー・レヴィンソン監督が、ホロコーストを生き延びた人間が払う代償の重さを問いかける。
1942 年、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に囚われた痩せ細った男が、恋人の亡骸を目にして茫然自失となった友に銃を突きつけた監視員を叩きのめす。彼の名はハリー・ハフト。仲間を守るために命を顧みない男の格闘、その様をナチス親衛隊(SS)の中尉が興味深げに見つめていた。
この時からSSの子飼いとなったハリーは、死の行進が始まる44年まで実に76回も賭けボクシングのリングに上がり続けた。試合のルールは簡単だ。グローブとは呼べない薄皮の手袋をつけて相手を叩きのめす。最後に立っていた方が勝ち、敗北は死を意味する。つまり76人もの囚人が屠られたことになる。
47年、米軍が設置したミュンヘン避難民キャンプで行われたアマチュア・ユダヤ人ヘビー級選手権で優勝、49年に渡米、ポーランドが誇る“アウシュビッツの生還者”と称してプロボクサーに転身した。戦績は13勝8敗、対戦相手には世界でただ一人49戦無敗を貫いたチャンプ、ロッキー・マルシアノの名もあった。
ハリーのアウシュビッツ時代と渡米後の激烈な生き様を体現するために、ベン・フォスターは28キロもの減量と増量に挑んだ。眼球だけがギラつく痩身で現場に臨み、五ヶ月後に再び元の体型に戻して撮影を続けた。陰影の深い人物造型は、悲運のボクサー、ジェイク・ラモッタを演じるために体重を27キロも増やしたロバート・デ・ニーロが二度目のアカデミー賞《主演男優賞》に輝いたマーティン・スコセッシ監督作「レイジング・ブル」(1980)を彷彿とさせる。また、セコンドのジョン・レグイザモ、敵陣からエールを贈るダニー・デヴィートの抑えた演技が効く。
女優にも注目だ。ハリーの生きる原動力となる恋人レア(ダル・ズーゾフスキー)とアメリカの移民サービスで働く質実な女性ミリアム。恋人との記憶を幻想的なイメージで描いた監督は、一方でハリーに寄り添おうとする女性の献身的な姿を通して、今を生きることの意味を投げかける。
ミリアムには、「ファントム・スレッド」(2017)で完璧主義のデザイナーを翻弄するヒロインを演じ、最新主演作「エリザベート1878」(2022)の日本公開も控えるヴィッキー・クリープス。寡黙でありながらも意志の強い女性の存在がヒューマンドラマに奥行きをもたらす。
恋人と引き離されたハリーは、いかにしてアウシュビッツ収容所を生き延びたのか…。なぜ、当時最強と呼ばれたロッキー・マルシアノとの試合にこだわったのか…。渡米後のハリーをカラーでとらえた監督は、現在進行形の日常に白と黒のフラッシュバックを重ね合わせる。突然わき上がる身体に染みついた心の瑕、穏やかな眠りを許さない悪夢、モノクロの生々しい映像が「生還者が払い続ける代償」とは何かを問いかける。
ボクサーを引退したハリーは生涯の伴侶となるミリアムと青果店を開業、一男一女に恵まれた。2007年11月3日に癌で逝去、享年82。原作は父が語ったアウシュビッツ時代の告白とその後の人生を綴った長男アランの著作による。
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