ネタバレ! クリックして本文を読む
警察の特殊部隊が家に来るという予想外のシーンから物語は始まる。何故? と思わせることで惹き込むオープニング。過去と現在、2つの時間軸で、このセンセーショナルな場面に至る経緯が解き明かされてゆく。その過程にもいくつかの謎が見え隠れし、錆びついた家族関係が動き出す人間ドラマだけではなく、ミステリーのような味わいもある。
序盤、父の陽二を施設に入れるために職員と面談する卓(たかし)のちょっと面倒そうな態度で、陽二との時間的・心理的な距離が伝わってくる。
実は卓は5年前にも陽二に会いに来ていた。結婚したことさえ報告していなかったが、大河ドラマ出演決定が訪問の契機だったようだ。卓の中にわずかに残る親子の情が、実家に足を向けさせたのだろうか。だが、いざ会ってみれば相変わらずの偏屈親父ぶり。実は卓の大河出演を報じる新聞記事を切り抜いていたりするのだが、そんなことはおくびにも出さない。思い切って会いに来た卓の心もかたくなになってしまう。
この序盤の陽二の性格描写が、あの年代のインテリにありそうな高いプライド、相手の物言いへの厳しさなどの面倒臭い雰囲気を脚本と演技で非常に上手く表現していて、卓の気持ちがよくわかる。
しかしやがて、そんな陽二の自尊心を支える記憶を、病が容赦なく剥ぎ取ってゆく。
途中で現れるいくつかの謎のうち、直美の息子を名乗って現れた塩塚の言動には少しもやもやとしたものが残った。
彼は直美が入院していると言ったが、有希が病院を訪ねると直美はいなかった。塩塚に問いただすと「今入院しているとは言っていない」と不自然な言い訳をした。
また彼は車庫を見て「車がないんですね」などと言っていたが、陽二が直美と最後に別れる時に車の鍵を彼女に渡したので、車は彼女が使っているはずだ。直美の携帯が陽二宅に置き忘れられていた理由も塩塚は思いつかない様子だった。
つまり、塩塚は最近の直美の生活の様子も、別居後の直美が陽二を訪ねてきたことも知らないのだと思われる。塩塚と直美の親子関係にもどこか距離を感じる。単に遠方に住んでいるのか、それ以外の事情かはわからないが、そのへんの実情を卓には隠して、入院費用を請求しにきた。直美が倒れたことは事実と思われるので、実際入院はしたのかもしれないが、個人的には塩塚の言動に不信感を持った。
陽二が朋子に性的暴行を働いたという彼の証言も、そういう理由で鵜呑みにできなかった。過去パートで陽二は階段で朋子の腕を引いて怪我をさせたようだが、性的暴行を匂わせる描写には見えなかった。
もし本当に性的暴行にまで至っていたら、直美は陽二を再訪するだろうか(終盤の、陽二宅で直美が鈴本からの電話を受けていた場面)。
このあたりのことは作中では明確な事実の描写がないので、あくまで私の想像ではあるが。
陽二ひとりになった家の中、そこかしこに貼られたメモは彼が忘却にあらがった痕跡だ。必死の闘いに敗れた彼が訳もわからずいじった電話は、110番にかかる。そして冒頭のシーンにつながるのだが、お年寄りの通報だけでいきなり特殊部隊が来たりするかな? という気もした。人数も少ないし。警察は来たのだろうが、それが特殊部隊というのは陽二の妄想……というのは考えすぎだろうか。
病は本人にとってつらく悲しいことだが、「あちら」の世界に移った陽二は、どこかプライドの武装が解除されたような印象もある。子供の頃の暴力を卓に謝るのも、ただ自分が許されたいだけの勝手な謝罪だが、以前の彼ならそんな謝罪さえ絶対しなかっただろうから大きな変化だ。あの父親のそんな姿を見て、卓は本心ではすぐ許す気にはなれなかったとしても、気持ちが揺れたはずだ。
彼が施設を後にする時、自分のベルトを陽二の腰に巻いてやる場面は静かだが心を打った。病は陽二を苦しめたが、卓が陽二の過去を辿るきっかけにもなり、親子関係に雪解けの兆しをもたらした。
卓にとっての父親、若き日の陽二にとっての20年間の直美への思慕、病んだ彼の元を去った直美、現代パートで姿を見せない朋子の謎など、さまざまな「不在」のコラージュで描かれた物語の最後に、陽二と卓それぞれの胸に残ったのは妻への思慕と父への情だった。
禍福は糾える縄の如しというが、2人がこれらを取り戻したことは、病が思いがけずもたらした希望なのかもしれない。
磐石の俳優陣だが、とりわけ藤竜也に圧倒された。認知症という設定もあってか、映画「ファーザー」のアンソニー・ホプキンスを思い出した。それぞれに素晴らしいが、日本人俳優による演技だからこそ肌感覚で伝わってくるリアリティのようなものが確かにあった。
本作は日本公開に先立ち、各国の国際映画祭に出品され、サン・セバスティアン国際映画祭では藤竜也が最優秀俳優賞を、サンフランシスコ国際映画祭では最高賞(グローバル・ビジョンアワード)を受賞するなど、既に海外での評価を得ている。物語自体に国境を越える引力があることは確かだが、やはり母国語でニュアンスを味わいながら観られるのは一味違うはずだし、幸運なことだと思う。