正欲のレビュー・感想・評価
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ガッキー=可愛いと消費してきた我々に突きつけてくる
前半説教くさいな〜とか既視感ある雰囲気映画で終わってしまわないかな〜思ったけど、冒頭のモノローグを相槌込みで繰り返すシーン(ここから第二幕と言って良いでしょう)から物語が急加速していき、胸にこびりつくシーンの数々にやられた。誰かと話をすることで世界が広がっていく映画はやっぱり素晴らしいよね。 大変申し訳無いけど、最近「ミッドナイトスワン」を観て激情してこともこの映画をより良く見れた要因の一つだと思う。いわゆるマイノリティーとされてる側の消費の仕方とか、「マイノリティーの人たちかわいそう…こうはしちゃダメだよな…」で片付けない(そういう意味では車の突っ込みまではいらなかったかも)。 多様性って枠組みじゃなくて自然に元々あるべきものだよなという再確認。LGBTQとフェミニズムに触れておけば、多様性を“勉強して”いると思ってしまう世間の浅はかさへのカウンター。やっぱり異性愛前提で会話してしまってるなと自分を省みる。 性的嗜好は、欲望はどこまで許されるのかを突きつけてくる。水フェチに関しては、誰にも迷惑かけてないし、映画的に綺麗に撮れていて受け入れやすい反面、小児性愛は… 綺麗に撮れているからこそ実際水フェチを受け入れられたとしても、多くの場合稲垣吾郎演じる役のように「あり得ない」と無意識に断罪してしまう可能性もある。 今年公開された映画でも「渇水」「波紋」「アンダーカレント」など印象的なものが多いけど、一番水を美しく撮れている。新垣結衣演じる役が寿司屋に行くのも、カニクリームコロッケも水と繋がってきてる?? キャンパスのシーン、「好きだから」じゃなくて「大事だから」で入るの本当に素晴らしい。マイノリティーが分かってもらう側前提でいるのはおかしいというのは、アップデートされてるなとも思う。 マイノリティーの気持ちを「地球に留学しているよう」と良い、分かり合える同志を見つけると「地球の中心にいれる」と表現する美しさ。 稲垣吾郎が急にキレると本当に怖い。 確かに正常位って何が正常なんだ??と思いたくなる擬似性交体験があまりにも滑稽で笑えた。 仕事柄、不登校ユーチューバーに夢見て不登校ユーチューバーになる流れは心苦しく見た。自分も絶対許せないタイプだろうなあ。「普通」に縛られる稲垣吾郎演じる役柄の、分かり合おうどころか分かろうとしないところが他のカップリングとの対比として美しい。 ラストシーンが本当に本当に最高。『普通』に縛られる稲垣吾郎から『世間から“普通”とされない』新垣結衣から『普通のこと』と語られる分かり合えた者同士の強み。 ”水“を性的嗜好として死んだ目で自慰(自らを慰めるって凄い言葉だ)行為を嗜むパブリックイメージからはかけ離れた役柄。「ガッキー=かわいい」と消費してきた我々にも突きつけてくる。女優:新垣結衣の代表作の一本に刻まれる。 正しいなんてない何でも良いじゃんと思うと小児性愛者を野放しにしてしまう。法?理屈?結局分からないけど、自らで何もかも枠組みを作って理解できないものを切り捨てるのはせめてやめれる人間になりたいと思った。そして、理解できなくても理解しようとはしていたいし、傷つけたくないと改めて思った。
新垣結衣さんの演技が素晴らしい傑作!
一番印象に残ったのは新垣結衣さんの演技
いつもは可愛らしく柔らかい印象ですが、本作ではかなり特殊な嗜好を持つ役回りです
初登場シーンから回転寿司での目が据わったアップで登場し、お節介に話しかけてくる客にキレたり、嫉妬のあまり人の家に植木鉢をぶつける、それ以外にもこれまで絶対にNGとしてきたであろう”シーン”までも熱演していて、とても良かったです
アップも多く、あらためて可愛いい人だなあとしみじみ思い観てました
キャスティング面でいくと磯村勇斗さんも良かったです、最近 特に重いキャラクターの作品に出ることが増えて来ましたね、将来有望な若手実力派俳優の一人である事は間違いないでしょう
先日、「月」を見たばかりなので、普通にしていても、どことなく不気味さを感じたのは私だけでしょうか(苦笑)
人は一人一人 生き方も嗜好も違って当たり前だし、それを他人がああだこうだ言う権利は無く、”人に迷惑をかけていなければ”全く問題ない
さらに自分と全く同じ嗜好・価値観の人とずっと一緒にいられることほど幸せなことはない
主人公の新垣結衣さん演じる桐生夏月と磯村勇斗さん演じる佐々木佳道も他人には理解してもらえないであろう”水フェチ”として生きづらい人生を送っていて、そんな同じ嗜好を持つ者同士でずっと一緒にいようと決め、支え合い生きていくことを決めるが、”人に迷惑をかける嗜好の持主”達のためにささやかな幸せが奪われていく悲劇が描かれていき、とても切ない気分になりました
特にラスト、夏月が稲垣吾郎さん演じる検察官・寺井にトラブルに巻き込まれて拘留中で会えない佐々木へ頼んだ伝言、”私はいなくならないから”というくだりがとても辛く悲しい気分になりました
一方で伝言を頼まれた寺井はというと、自分はいつも礼節をわきまえ、常に正しい言動と行いでマジョリティと思っているはずなのに、妻と息子に愛想をつかされ別居状態になり孤独な状態に陥っている男、水フェチのカップルをなじっておいて、自分の方が彼らより不幸な人生を送っているという皮肉な展開も印象的でした
と、いろんな意味で考えさせられ、見ごたえのある、観て良かったと思える良い作品でした
ガッキーは大画面で
よかったです。 元々新垣さん好きなのでバイアスかかってるかもしれませんが。大画面で観るべき映画だと私は思いました。 原作は読んでました。ストーリーは朧げに記憶。 他者とは基本わかり合えない。わかり合える人を見つけたらラッキー。結婚して子どもを産んで心から幸せを感じ生きている人は超ラッキーだと思います。「はじめてのおつかい」を両親と見たくないのとても共感しました笑 新垣さん以外にも、佐藤さん、東野さん、新垣さんの子ども時代役の方など、素敵な演技されてたと思います。
濡れる=水浸しなのかと思いきや
水フェチという(100%ないとは言い切れないけど)架空のフェティシズムを性的マイノリティの比喩として提示しながらダイバーシティをモチーフに描いた話で、見応えがあっただけでなく、鑑賞後もいろいろ考えをめぐらせたくなる作品だった。 「普通」というぼんやりした枠の外側にある多様性を想像しつつも「多様性」という枠組みを作った時点で、そこからもはみ出す外側があるわけで、そこにいる夏月や佳道や諸橋らの孤独感は想像するだにしんどいし、だからこそ同じフェチを有する人間を見つけたとき心の高揚は計り知れないのだろうと思った。終盤の展開は、怪物だーれだのマイノリティの悲劇的ファンタジーな結末とそれへの批判を想起させるが、今作では「普通」を強調する寺井検事の家庭状況と対比させながら、夏月の「いなくならない」というラストの一言が救いをもたせていた。 …と、しかし。そもそもこれはマイノリティとマジョリティ、多様性と画一性、アブノーマルとノーマルとかの話なのだろうか。たとえ相互の理解は望めなくとも、大切なのは相手の気持ちに向き合うという、実は人と人とのコミュニケーションの話なのではないだろうか。 寺井が家庭不和に陥ったのは、妻や息子に普通を押し付けたからではなく、不登校の息子やそれを案ずる妻の話に耳を傾けなかったからなのであり、その意味でラストの、質問はするけど夏月の問いには答えないという一方通行の質疑応答は象徴的だ。また、夏月や佳道は特殊な性的嗜好もあって人との交わりを忌避していて、それゆえさらに自らの孤独感を増幅させていた。他方、取り付く島がなく拒絶を続ける諸橋へ、男性不信の八重子がそれでも素直に思いを伝えることで、孤独に閉ざしていた諸橋の心はわずかに開き、ありがとうという言葉が引き出される…。そのように見ていくと、他人との濃厚なコミュニケーションであるセックスを起動する性欲を話の中心に据えているのはなるほどと思えた。 映画としても、ベッドルームが水で満たされていくシーンなど邦画にはないレベルの演出はよかったし、いずれの俳優も役にぴったりとハマっていたと思う。元J案件の吾郎ちゃんが児童買春事件を担当するのはたまたまだろうけど、東野絢香のおどおどキョドった演技は特に見事だった。人々を結びつけるのがYouTubeというのも今時だし、中学生のガッキー役(つーより小松菜奈風味)の滝口芽里衣も目をひいた。 そんなわけでオレもガッキーと模擬性交をして一緒に回転寿司が食いたいと思える(そこか?)見どころの多い作品だった。
マイナーな欲をもつ人々と常識人であろうとする父親の葛藤
水が噴き出ていることに喜びを感じるマイナー欲のガッキーが中学で同じ欲で分かり合えるも転校してしまった男性と再び出会い、社会に溶け込んでいこうとする。一方違うところでは、検事で父親であるイナガッキーは堅実な思想をもっており、息子の不登校かつ動画配信者になる学校拒否に断固として反対、奥さんも部屋ごもりにならないならと息子の背中を押しており、理解できず頭を抱えていた。ガッキーは欲が一緒であった男性と同性のため都市部に移動し、男性は同じ欲で苦しんでいる人と繋がりたく動画内のコメント欄にて、似た思想を持っていそうな人と直接会い噴水で遊ぶことに。そんな矢先、会った人の中に幼児趣味の教員がおり、取り調べの中噴水で会った時の子どもとじゃれる写真から共犯と思われガッキーの夫や男子大学が巻き込まれることに。その聴取に検事のイナガッキー担当となる。
そのまで重いテーマとは感じませんでしたが、昔よりも情報発展した現代の日本ならではの問題点であったり、孤独感、非共有感からの脱出など、何事もないように人生を終える葛藤は描かれていた。
ありえないでは済まされない
通常スクリーンで鑑賞。
原作は既読。
多様性とは、マジョリティーが自分たちの想像し得る範囲での「違い」で全てを理解した気になっているだけではないか?
多様性の範疇から弾かれている人たちの生き辛さや苦悩を理解しようなんて、軽々しく思うのは傲慢なのかもしれません。
孤独って誰しも抱えているのではないかなと思いました。私も少なからず周囲に合わせて自分を偽っている部分があるし、誰にも共感して貰えないと感じることもしばしばです。
だからこそ、それを分かり合える存在に出会えた時の喜びは何物にも代え難い。夏月と佳道が共闘によって孤独じゃなくなり、ふたりで生きている姿を愛しく感じました。
ですが実際、こんなにも深く分かり合える存在と出会える確率なんて低いです。しかし、誰かとの繋がりを求めずにはいられない。どんな性的嗜好だろうと、人間である限りは。
私も知らない世界に想像が及ばない人間のひとりなのだとハッとさせられましたし、ありえないで片づけてはいけない価値観があると云う気づきは自分の中で大きいです。
原作を読んだ衝撃を未だに引き摺っていますが、改めて突きつけられた感じ。普通とは。正しさとは。価値観は変わったとしても、繋がりの大切さは揺るがないと信じたい。
※修正(2024/06/28)
正癖
人にはそれぞれ性癖がある、その性癖が他人を傷つけないと満たされない癖の場合、理性で抑えて、別の方法で満たすしかない。 LGBTQや多様性がうたわれる昨今、性癖も多種多様だ 、言葉では説明できない、何が正しくて何が間違っているのか、人が他人を裁くのにも、限界を感じる。
まだ認められていない「個性」をどう社会で受け止めるのか?
稲垣吾郎さんが小児性愛の犯罪者を断罪するシーンだけで、本作を見た価値はありますし、もっと話題になっていいのでは?
新垣結衣さんのオーラを殺した演技すごかったですし、磯村勇斗さんの作品選びを信用して、彼が出ていただけで見ようと思って正解でした。
ただし、「正しさ」から外れるものの多様性を扱った作品で、最終的に物語としてフォーカスされるのは、「水フェチ」という部分が少しピンときません。何かを言い換えてることは察しはしますが、劇中の流れですぐに思い浮かべるものとも違いそうです。
作品そのもののメッセージはやや整理し切ってない印象も強く、私自身もキチンもテーマを受け止めているかはやや怪しいです。
とはいえ、いずれにせよ「多様性」という言葉が使われるときの、一見受け入れやすそうなものだけを許容される状況のなか、まだまだ社会では許容されない「個性」があることを照らした作品なのだと思います。
まだまだ理解した気になっているだけだった。
物語が進むにつれて、俺は一体どこの視点からこれを見ているんだよって感情がぐにゃぐにゃになりました。
割と序盤、ダンス部の部長が
女性的なダンスとか男らしい振り付けとか、女性が男性的な激しいダンスをするとか言っていて、
いやいやそれは多様性では無い。
どの性別の人が何をするかは関係なく、その人がしたいことをして、それを理解する(ある意味ではそれに関心を持たない)ことが多様性何じゃないかと私は理解していました。
しかし、それだけでは自分の範疇にのみの理解に収まっているだけだなと思わされました。
途中で、セックスの体位を真似てみるシーンがあるのですが、正直シュールで笑ってしまいました。え?分からないことある?!って
でも、そりゃそうなんですよね。私は中高生の時に異性に興味を持って、調べたりしましたけど、彼らはその時、"水"を調べていた訳ですから。
だから、そんなことある?!って思ってしまった自分に失望しました。、
例えば、ライオンやカエルが何に興奮してどうセックスするのか私は全く知りませんし、調べたこともありません。
彼らを人ではないと言っている訳ではありません。自分と違う感性を持つ生き物たちのことを知らないのは不思議なことでは無いということです。
歓喜でも恐怖でも悲哀でもない感情でぐちゃぐちゃになりました。
小説は読まずに映画から観ました。
思った以上にヘビーだった…
テーマが重かった。
フェチを持った人の生きづらさとか息苦しさが絶妙に表現されていた。
あと、人と分かり合えないことで感じる孤独とか諦めがところどころ伝わってきた。
キャストはこの上なくよかったと思う。
演技下手な人が居ない。
それぞれに見入るポイントがあった。
まず新垣結衣。
いつもみたいな笑顔でキラキラしているガッキーはどこにもおらず、目が死んで、人生に諦めてるガッキーしかいなかった…
こんなの初めて。
言葉は少ないけど、喋り方とか態度に「あぁ、この人世の中生きづらい人だ」感が現れてて、改めて演技上手いんだなぁ…って思った。
そして1番気になってた欲情するシーン。
ガッキーに乱れて欲しくない!って願望もありながら見たけど、絶妙に演出と相まって上手い具合に表現されていた!
開始10分くらいでそのシーンはやってきます
是非見て。
あと、ハマり役はゴロちゃん。
堅物でわからず屋で冷たい印象だけど、決して悪い人じゃない感じがピッタリだった。
これが西島秀俊だったら少し優しすぎる。
いいかんじに冷たい印象を出せるのはゴロちゃんしかいなかったと思う。
そして、奥さん役の俳優さん。
よく見るけど名前わかんないあの人!
あの人、いい味出してるんだよなぁ。
その他磯村勇斗も実力派だし、男性恐怖症のあの子も初めて見る女優さんだけど、すごい迫力ある演技だった。
マッチョ大学生も、目線がまっすぐで多くを語らず…とてもよかった。
ストーリーはというと、最初はそれぞれの人物の日常が代わる代わる描かれていて、正直頭?のままで進む。
そしてある出来事で全員が結びつくんだけど、想像できる最悪のケースで結びついた…。
ほんと考えうる1番最悪なケースで…。
まぁ、ゴロちゃんが検事な時点でお察しなんだけど、フェチを感じることがいけない事ではないのに、性犯罪(窃盗なども犯罪もしかり)と陸続きであることが多い部分も否めず、まずここで葛藤。
磯村勇斗が連れていかれて置いてけぼりのガッキーの演技、すごいよかった。
言葉は何もないけど、胸にくるものがあった。
絶望もあると思うけど、いつか来る未来でもあったような…という風に私は感じた。
物語は最後、ガッキーとイナガッキー(上手いこと言った)のやり取りで終わるが、
ほぼこの2人の会話のみなのに、すごい迫力があった。
そして恐らくこの物語のテーマである"繋がり"を短いやり取りで表現してたと思う。
私が思うに、この映画は「いろんなフェチの人がいます」「フェチを持った人(マイノリティ)はこう感じています」ではなくて、その人たちが感じる寂しさや孤独、生きづらさを経ても繋がり合えるってことじゃないかと思いました。
そして、その事をマイノリティでも繋がりあえる人がいるガッキーと、普通を望み家族と繋がりあえなかったゴロちゃんの対比で表現されていたなぁと思った。
最後のガッキーの発言1つ1つが、ゴロちゃんへのボディブローのよう。
それと同時に、観てる私たちにも普通って?正しいって?と問いかけられているようだった。
正欲は文字通り「正しく(普通で)いたい欲」でもあったのかな…と。
なんかもう最後は何が正しいのか?
何が普通なのか?わからなくなり、ENDというかんじでした。
ラストのガッキーのセリフもとてもよかった。
映画館で初めて、歓喜でも恐怖でも悲哀でもない感情でぐちゃぐちゃになりました。
この映画で唯一の笑えるポイントは
途中大学の学園祭の踊るシーンくらいでしょうか。
(作った人には申し訳ないけど)マイノリティに向けた歌詞とか曲調がダサくて、わざとかな?と思ってしまいました。
普通の人が普通に楽しい学園祭や結婚式が、ああいう切り取られ方をするととても滑稽に見えました。
それも演出なのかな?と。
原作を読んでいないので、やはり原作とは違う点、違う切り取り方、違う解釈はあるのだと思いましたが、映画としてはすごく見応えがあったので、私の中では★5です。
言葉足らず…なんかじゃなかった。
傑作だった。見てよかった。観るべきものだった。 物事は自分基準のモノサシでしか考えられない。なぜならそれ以外の考え方を構成するためのパーツが足りないから。 新しい考え方を受け入れるのにも時間がかかる。練習しないとそれを習得出来ないように。 世界は、明日も生きる人のための物で溢れてるなんて、どんな生き方をしたらその視点が当たり前になったのか、私が知らない、それか見えてるけど見ようとしなかった世界線なのか。 この映画を見てから考えが溢れて止まらない、つまりたくさんのパーツが落ちていた映画だと私は受け取った。 序盤は言葉足らずではないか?と汲み取れていなかったのだが、物語が進むにつれ、その少ない中で発せられた言葉だからこそ一言一言に価値があったのだと気付かされた。 エンドロールではVaundyの「呼吸のように」久しぶりに映画の余韻に浸ることができた主題歌だった。
朝井リョウのファンとして
朝井リョウさんのファンとしてみにいった 学生時代はとことん受け入れのキャパのあった社会とずれている自分という感覚も 社会人になると生きづらさの塊である 直視できないほどの自分の殻に閉じこもった感覚は 何度も体験したが深くはまってもいいことはない もはや朝井リョウさんの書く暗い青い色のような感情を受け入れるだけのキャパがなくなったのかもしれない 明日生きていたくないという気持ちは持っていてもいいが 表に出すべきでない 一人で抱えるべきものだと思ったりする でも自殺せずに済むなら出してよかったよな 登場人物たちに言いたい 自分だけじゃないこの感覚、別に特別じゃない ただ周りが迎合できないのは直視したら生きづらくなるのを何となく知ってるから その人たちの事を明日も生きたいと思ってる人たち、と一括りにしてはいけない 何故なら自分は少なからず 明日死んでも後悔したくないからこそ 殻にこもっていたくないなと思うから 学生時代朝井リョウさんに大共感だった自分は 昔とちょっと変わっていたな 苦しいくらい気持ちは分かるけどそれじゃだめなんだよな ただ登場人物たちの気持ちを理解できないと否定する人たちに言いたい 否定はするなただそれだけでいい
Beyond The Diversity
群像劇&章立ての構成でストーリーテリングが始まる
原作は未読だが、作者朝井リョウが自身のエポックメイキングと位置づけている物語だそうだ
確かにかなり突飛な設定を配している事は疑いようもない 実際にそういうフェティシズムの同好がいるのかは不明だが、無機物自体に性的好奇心が宿るのかは、自分もその辺りは理解が届かない 比較的周知されている事例とすれば"ブルセラ"、"ブーツ&ハイヒール"、そして今作でも薄くニアミスかもしれない"Wet&Messy"が思い出される wikiから引用すると「行為が社会規範に従わない場合がある。そうする事によって、自由と開放の心地よい感情を表現する。それは、そんな事はすべきでないし、そんな事をするには年を取りすぎていると自分で分かっている事をやって、それを楽しんでいるというポジティブな後退感をもたらす」という理由付けがあるようである
水に濡れている人間に対しての性的興奮ならば心情は分らずとも、異性や同性の艶めかしい肢体がセットとなればその行く末は性技に直結することが想像可能である 但し、今作のように、滝や壊れた水道管、はたまた給水器から溢れる水(今作には無いが、昔のNYの壊れた消火栓等も同類であろう)そのものに性欲が掻立てられ、あまつさえ自慰行為に迄昇華できるその想像力の逞しさなのか、そもそも迂回せずともダイレクトに性的欲求がホルモンであるオキシトシン、テストステロンの分泌を促す特殊な回路が形成されているのか、それは解らない
なので、そこに今作のテーマを沿えてしまうとどうしても賛否の溝がひろがってしまう 単純に今作はそれをメタファーとした『理解不能な人達が現実にこの地球に共存しているという事実』を再確認することがキモなのではないだろうか 例えば宗教観でもよいし、もっと言えば苛める側と苛められる側、性格的に相容れない者同士、相手を理解、もっと突っ込めば"赦す"事が人間は可能なのだろうか?その叡智は将来に人間は獲得できる可能性を秘めているのか、それをヴェールとして描いてみせつつ、しかしあくまでサスペンスドラマとして、敢えて全ての元凶であるペドフィリアを抱く男にまんまと利用されてしまった顛末をバッドエンドで帰結させる不条理劇ということだけなのであると思う
ヴェールを主眼に置いてしまうと今作は見誤る そのミスリードを巧く取り入れた凝った作品であるのは明白だ ガッキーが水に沈もうが、自慰の演技を頑張って演じようが、そこがベストカットなのではなく、ラストのガッキー対決に於ける、決して自分を否定しない人間同士が"矛盾"という沼に嵌る罰ゲームを回避しようと藻掻く面白さを愛でる作品なのだろうと思うのだが・・・
家族が壊れる道がみえている検事と、同じ星から地球に留学に訪れたカップル その繋がりの差がバックボーンとなり、心情の折れ線グラフを絶妙に表現した秀逸な内容なのである
"肉を切らせて骨を断つ" 『正義』など、相対性、立場でのポジション取りなだけであり、優劣など皆無なのだということを突きつけた今作、大変素晴らしい映画であった
ビジネスダイバーシティになってないか?
マイノリティが描かれる映画は数多くあるが、マイノリティな性的趣向を描く作品、しかも、その苦悩を描く作品には初めて触れた。 (何年か前にTitanという車、チタンに性的趣向を持つという映画は観たが。) とある登場人物は、水フェチということもあり、作品全体のトーンは静かに流れる渓流のようなトーンであり、登場人物の繊細な心情に寄り添った表現になっていると感じた。 多様性、ダイバーシティという言葉をよく聞くようになったが、ビジネスダイバーシティ、ファッションダイバーシティになっていないか?自分の考えを改めるきっかけになった作品だった。
普通とは?普通じゃないとは?
鑑賞してから一週間、ようやくレビュー書きます。 一言でいえば、ダイバーシティ、多様性なんでしょうけど。。。 難しいテーマでしたね~。 登場人物のもつ性的嗜好、欲望について、パラレルに描き、 それが他人に理解してもらえず、「普通」の人として生活する息苦しさ。 「地球に留学しているみたいな感覚」という言葉が物語っていた。 でも・・・ 人はそれぞれであり、それを分かり合える人と出会えることが大切さ、 偽装かもしれないけど、それでお互いを支えあう、夫婦という形。 改めて、今の世の中の難しさ、多様性について考えさせられる作品でした。 稲垣吾郎さん、映画は初めてでしたが、登場人物の中では唯一のマジョリティ、 「普通」の検事のはずなのに、家庭は崩壊、調停中。。。 ガッキー、映画やドラマはあまり観たことないけど、大ファン笑 でも、イメージと違う役で大変だったかな、と。 最後のシーン、セリフは、びしばしと検事さん、そして観ている方に 突き刺さったのでは。 磯村勇人さん、いろいろな映画で拝見していますが、 今回もなかなか難しい役どころでした。 でも、ガッキーとの絡みは、役得としか言えません。ずるいです笑 映画を観終わって、そのまま舞台挨拶の中継を観ました。 そして、家に帰り、特典でもらったしおりを見ると、 「(ab)normal desire」とタイトルにこっそり書かれていることに気づいた。 (アブ)ノーマル・・・どれが普通で、どれが普通じゃないのか。 ホントに、難しいテーマでした。
言いたいことはわかるのだけどこう何というか伝わらない…。
今年389本目(合計1,039本目/今月(2023年11月度)21本目)。 (参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで)) 11月3週は異様なまでに数が少なく、2週より前の作品の「未視聴の回収すらできる」というラインナップです。 さて、こちらの作品なのですが、「感想が書きにくいなぁ…」というのに大半つきます。 結局「特定のものへのこだわり」という論点や、LGBTQほかの論点があるのだろうということは多くの方がわかるのではと思うのですが、一歩進んで「映画の主義主張は何か」という点がいまいちはっきりしない(というか、実際には存在しない?)のがかなりつらいです。おそらく「性的マイノリティ」問題を「間接的に」描いた結果こうなったのではなかろうか、と思えるし、一応その「特定のものへのこだわり」も理解はしなくはないですが(実際、程度の差はあっても何かへの「こだわり」はあるんでしょう)、結局多くの方が触れているように「一歩進んだその先にある、映画の主義主張」がはっきりしない点などはどうしてもあげられます。 さらに輪をかける事情が、実はこの映画は「ご当地枠」であり、具体的には「広島県福山市」です(広島市ほかはほぼ出ない)。一方で福山という地名は明示的に出るし広島弁ほかもでる一方で、広島文化もほぼ出てこず(お好み焼きすら出てこないという状況)、「ご当地枠」で見るのもつらく(いわゆる「映画に出てくる場所の巡礼巡り」すらできない)、その観点でもかなりきついです。 ※ しかもその割に、なぜか協力地に久留米市が出てきたりと無茶苦茶がすごく(広島弁は明確にわかるので広島の成分があることはわかっても、なぜか久留米やら栃木やらなにやら無関係な場所がエンディングロールで次々出てくる)、どう見たらよいかがかなり謎な作品です。 ただ、「多くの方に伝わるように描くと3時間コースになってしまう」のも確かで(この映画自体も2.5時間コース)、時間調整などもした結果こうなったのでは…とも思え、積極的に無茶苦茶というシーンまでもはないといったところです。 採点は以下のようにしています。 ----------------------------------------------- (減点0.2/ラストの警察が出てくるところの逮捕状の読み上げ) ・ この「罪名」は慣用的に使われているのみで正式名称でも何でもないのでややまずいです(読み上げ時には正式名称が必要)。もちろん各都道府県、市町村ほかの条例で「その名称」になっていることはありますが、「法違反」と「条例違反」はそもそも違います。 ※ 条例違反に対しても懲役刑を課することはできますが、2年以下という縛りがあります(地方自治法)。 (減点0.2/結局何を述べたいのかがいまいちはっきりとしない) 多くの方が書かれている通りなので省略します。おそらくマイノリティを扱った結果こうなったのではなかろうか、と思えます。 -----------------------------------------------
マイノリティと薄氷
正欲
youtuberが好きも嫌いも、どちらにしても良くある思想で、マジョリティ同士が愚かだと罵り合っている。
対比して本当のマイノリティは、違う次元で生きていて、必ずしも正しさを求めず、一度運命と再開したならば、繋がりが絶たれることは二度と無い。
結婚式のビデオレター、同じ言語を用い、同じ料理を食べていても、また運転の仕方も同様だが、どこかぎこちなく見える。
人に愛情を抱けない中で、人間同士の繋がりを何故求めているのか。
これまでの経験から他者との共感は期待できない。だから住んでいた町、昔唯一分かり合えた人のことを、ただ思い出しては眺めている。
インターネット画面を無為に見て、家に帰れば家族が存在する。辛うじて世間一般からは外れない(ように見える)が、変化はいつまでもやってこない
運命の日の後、飛び出した世界で善良に生きようと、悪いコミュニティに繋がり、同罪にされる。
世間と迎合する代わりに、二人で力を合わせようとするのは、それでも不自然な感覚だろう。
マジョリティである稲垣検事の方にも不幸があるのが、現代の問題だと思った。
価値観がどんどん多様化するということは、物事の善悪の判断もどんどん変化するということか。 子供が学校に行かずに、ユーチューバーを目指す。ユーチューブを始めた子供はイキイキとして、それを母親も応援する。 検事の父親は、子供の将来への不安、不特定多数の大人と関わる危険から、それに反対する。 そのせいで家族の中が悪くなり、離婚裁判まで行ってしまう。 稲垣検事は正しい事、当たり前の事をしているはずなのに、作品中の誰とも意見が合わずに孤立して、疑問を抱えたまま映画は終わってしまう。 水が好きな人達は捕まった者もいるが、息苦しい世の中に希望を見つけた形で終わった。 どっちが正しいのだろう?どっちが幸せなのだろう?と疑問を投げかける作品だと思う。 どうでもいいけど、今年広島を舞台にした映画が多いのはG7のせいなのかな。 自分が広島県人ですが、夜景の中途半端な街並みがちょっと恥ずかしいですね。
全378件中、221~240件目を表示