正欲のレビュー・感想・評価
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性欲ではないのか?Gの方を差別しないが、僕は髭面が嫌い
千葉学園都市って駅があったか?なかったか?覚えていないが。
懸垂型モノレールに乗っていたので共感するが、その他はどうかなぁ?
兎に角、この映画は絶滅危惧種大和民族が絶滅する理由の様なお話。
大昔からの邦画の手法を継承した伝統的な映画。
『PLA◯75』と全く同じ流れを組む
次期、カン◯国際映画祭に入選しそうな演出家の映画。
但し、この映画よりも現実の方が過酷だと思う。大和民族がいよいよ絶滅したら、昔を偲んで見てみるのも良いと思う。
注意
絶滅危惧種の絶滅の意は文化的な絶滅って事です。
注意2
ペド◯◯◯◯とLGBTは分けて考えよう。妄想を抱く事は良くても、実行はすべきでは無い。(この類の話で凄い作家は町田ひら◯先生かなぁ?)
欲望にもタブーはあるし、全員が同じ価値観がある訳では無い。
注意3
地球温暖化を考えると、水を無駄に使用する行為は、乾燥地帯に住む人達に対する感情を無視している様に感じる。
正しさに押しつぶされそうな人たちへのメッセージ。タイトルが秀逸。
原作は未読だけど、タイトルの「正欲(せいよく。正しい欲望)」ってこれ以上ない秀逸なタイトルだなと観終わってみるとわかる。
メインとなる登場人物たちが世間的に「正しい欲望」とされているものを持てずに苦しんでいる部分が肝となるのが本作だ。
本作は群像劇的に色んな人物の視点やパートにわかれて話が進んでいく。
佐々木くんや夏月さんのパートはずっとヒリヒリする内容だった…。そして田舎町に対する解像度(同級生のつながり、両親の家父長制的価値観、イオンの存在感)がエグい…。あと夏月さんの同僚の妊婦の女性の態度は普通に殺意が湧くレベル。本人が望んでない不要すぎるおせっかいはもはや暴力なんだよ。
世の中には色んな性的嗜好を持つ人がいる。
そしてその嗜好がマジョリティの人々に理解されないとわかっているからこそそれを秘めて暮らしている人もたくさんいるんだろう。
でも、そのことで誰かを傷つけたり犯罪を犯したりするわけではないのなら、そういった欲望や性的嗜好に対し「へえ、そうなんだ。そういう人といるんだ」という感想で終われる人でありたいと思うし、理解はできなかったとしても否定はしたくないと思う。
否定によって追い詰められる人がいるということを忘れちゃいけない。ここはお互いさまだ。
口にだすなら配慮は必要になるけど「こう思っちゃいけない」ことなんてないんだよな。
人と違うからといって誰とも繋がらない、繋がれない、一人で絶望する人がいなければ良いと本作を見て私も改めて思った。
明確なメッセージを持つ作品だ。
しかしこんなにキラキラ成分を削ぎ落としたガッキーは久しぶり。
そして磯村くんは良い役者さんだなと改めて思った。
何か普通か、何が偏っているのか。
検事の自分は正しいと思い込み、それを分かろうとしないのは異常なのだという見方を通して偏った見方、ダイバーシティとは何か、それを突き詰められたような感覚になる。
自殺願望のある夫婦。まっとうに生きようとしているように見せかけている。
検事の子。不登校だがyoutubeで生きる証を見つけようとするものの、世間一般の小学生とは違うことを受け入れない。
ダンサーの大学生。水フェチなのと、外見だけで判断されることを激しく嫌う。
ここまでは犯罪のラインは超えていないものの、溶け込めずいる悶々とした感じが伝わってくる。ガッキ―のあんな陰のある演技は新鮮だった。
私の中にも皆一人一人の中にもある、唯一無二の“正欲”
タイトルの“正欲”とは、“性欲”を捩った造語。
人の“3大欲”である“食欲”“睡眠欲”“性欲”。“性欲”だけ恥じらいの印象あるが、これだって人の正しき大事な欲求。
そもそも“正しい欲”とは何なのか…?
そこに正しいとか正しくないとか線引きがあるのか…?
各々異なる問題や悩み。関わる人々。
多様性が叫ばれる今の世に、疑問を投げ掛け、考えと在り方を問う。
検事の寺井。真面目で正義感強い…であるが故に、
不登校の小4の息子。同じく不登校の友人とYouTubeを始めたい息子の方針を巡って、妻と意見がぶつかる。
子供なんだから学校に行き、学び、友達と遊ぶ。大多数が寺井と同じ意見だろう。それが普通。
学校に行かなくても学ぶ事は出来るし、遊ぶ事も出来る。学校が全てじゃない。やりたくない事を強制するより、やりたい事をやらせて自立や個性を伸ばす。
子供の教育。大多数的に見れば学校に行くのが正しいのだろうが、今はそれだけじゃない自由もある。
寺井は釘を差しながらも、妻と息子はYouTuberとして始まり、チャンネル登録者数も増やしていくが…。
大学3年の八重子。学祭実行委員。ダイバーシティフェスを計画。同大学のダンスサークルに企画を依頼。
サークルでも実力者でコンテスト準ミスターにも選ばれた大也が気になる…。
八重子は極度の男性恐怖症。男性に触れられる事は勿論、男性が女性を性的に見るだけでも…。
そんな中、唯一触れられても大丈夫だったのが、大也。
しかし大也は八重子が自分に興味を抱くのは、皆と同じ準ミスターに選ばれた容姿だけと怪訝。
そんな大也も他者と分かり合えない秘密を持っていた…。
ショッピングモールで寝具販売員として働く夏月。
毎日の生活も性格も全く生気を感じられないが、他者と分かり合えない秘密を彼女も持っていた。
ある日同級生の結婚で、中学時代仲の良かった佐々木が地元に帰っている事を知る。
中学時代、他者と分かり合えない秘密を唯一、分かり合えた人物。
記憶に思い出す。水飲み場の水を勢いよく噴出し、水をいっぱい浴びてびしょ濡れになって、恍惚の表情…。
水フェチ。水に性的興奮を感じる。特異な性的嗜好。
以来、誰とも分かり合える人と会った事などない。
久しくの再会。その時二人は、自殺を図ろうとしていた。
唯一の分かり合える人。やがて二人は結婚。
そこにあるのは愛とかじゃなく、夜の営みなどもない。分かり合える事が出来る居心地の良さ。
付加として、佐々木から夏月へのプロポーズの言葉が秀逸だった。
家庭問題、恐怖症や容姿、性的嗜好…。
皆が持つ、人とは違う“何か”。
私にだってある。皆さんにだってあるだろう。
時にそれは少数嗜好かもしれない。つまり、世間大多数一般から見れば、“ヘン”。
少数派は肩身の狭い思いをする。自分を隠し、悩み苦しみ…。
それを声を上げて言う事が出来ない“普通”の社会。社会や大多数の考えや価値観が“正しい”とでも言うように、言えない風潮になっている。
大勢の意見がそうだから、正しいのか…? 普通なのか…?
少数派の意見は“異常”なのか…?
極端な例え。戦時中、大多数が戦争肯定。一部の者が否定派で、逆賊。当時はそれが正しかったが、今は…言うまでもない。
犯罪的な少数嗜好は理解出来ないが(と言うか大多数の意見でさえ正しいとは限らない)、人は何に魅せられるか、誰を好きになるか、人それぞれ。
“十人十色”。こういういい言葉もある。もっと言うなら、世の中、百人百色、千人千色、万人万色、億人億色なのだ。
全く同じなんて、それこそあり得ない。
少数であっても自分の趣味嗜好、選択の自由…。
そういう社会や世界でありたいと願うが…。
ある事件がまた彼らの境遇を苦しめる…。
チャットを通じて同じ水フェチの人と会う事になった佐々木。
一人は大也。大也も水に性的嗜好を感じていた。
もう一人は会社員の谷田部。
3人共、かつて公園の蛇口を盗んで水を出しっ放しにして、逮捕された際に「水がいっぱいなのが嬉しかった」と供述した人物の同調者。
3人で子供と水遊びをする動画を撮る。他にもいた分かり合える人たち。が…
谷田部にはもう一つ性的嗜好が。小児性愛者。
その場の映像も押さえられ、逮捕。
佐々木と大也も小児性愛の関与を疑われる。
それを取り調べるのは、寺井。
谷田部の罪を厳しく言及。
が、他の二人は…。
水が好き。
何を言っているんだ…?
お前らも子供に性的欲求を感じるんだろう?
僕たちは水が好きなんです…。
全く理解出来ない。ヘン。異常。
寺井にとって“普通”から逸脱し、理解出来ないものは理解しようともしない。
自分が正しい。
寺井は悪い人間ではないが、大多数のものの見方、考え、価値観のまさにそれ。
決め付け、押し付ける。
寺井と佐々木らの対峙は社会の縮図のようだ。
原作は『桐島、部活やめるってよ。』で知られる朝井リョウの小説。
その小説を読み、衝撃を受け、マイノリティーへの理解の浅はかさを痛感したという岸善幸。
『あゝ、荒野』の脚本家・港岳彦と再び組み、誇張する事なく、社会のマイノリティーの苦しみ悩み、分かり合える喜びや尊さを、彼らの視点に立って寄り添うかのように。
『あゝ、荒野』『前科者』など力作続くこの監督に、また一本。
稲垣吾郎が威圧すら感じさせる。
いつものスマイルを封印したガッキー。
磯村勇斗の巧みさ。
躍動感あるダンスも披露する佐藤寛太。
映画初出演ながら印象残す東野絢香。
皆が魅せる名アンサンブル熱演。
水がモチーフにもなっており、効果的に用いられている。
開幕、コップに溢れる水。夏月が横たわるベッドに溢れる水。川のせせらぎ、蛇口から噴出する水…。
美しい流れや幻想的な流れ、象徴的な流れ。
佐々木の面会に訪れた夏月。
寺井と夏月はこれが初対面ではない。
夏月が暴走自転車と接触した際、助けたのが寺井。
その時「奥さん」と呼んだ寺井。夏月があまりにも自然体だったから。分かり合える佐々木と出会い、人並みの幸せ。
その頃寺井は…
YouTubeの事で問題が発生し、妻や息子がやってる事に未だ一切理解を示さない寺井。
家族関係が修復し難くなり、妻と息子は家を出…。
世間大多数派だった寺井が人並みの幸せを無くし、少数派だった夏月と佐々木が人並みの幸せを手に入れ…。印象的な対比。
佐々木の小児性愛関与について、夏月に厳しく言及する寺井。
夏月の口から出たのは、小児性愛嗜好などない。水が好きなだけ。
そんな彼女に対し寺井が言い放ったのは、世の中の大多数の偏見者を表すような言葉。
あり得ない。
佐々木への伝言として、最後に夏月が言った言葉はアンチテーゼとも読み取れる。
いなくならないから。
待ってるとか信じてるとかじゃない。いなくならないから。
世の大多数に疎外されても、あなたと同じ人は必ずいる。
決して一人じゃない。
私たちはいなくならないから。
綺麗事を掲げて他者を理解してるつもりになっているだけかも…と。
周りには打ち明けられない、性や欲に関する秘密を抱えた人たち4人が登場する。(最後の方の小児性愛者を含めると5人。)この映画は果たして、多様性に関する問題提起をしているのか、はたまた別の何かを伝えたいのか、考えてしまった。
吾郎ちゃん演じる検事の寺井や、諸橋が所属するダンスサークルの仲間高見は一見「普通の人」として描かれているのかと思いきや、そうでもない。多様性を認めたり発信しようとするものの、その正しさはどこか独りよがりでバイアスがかかっているものだった。
私たちもそうではないだろうか?
ダイバーシティを快く受け入れているつもりが、この4人のようにいざ自分とは異なる考え・感じ方の人が目の前に現れたらどう接するだろうか。あるいは関わらないように遠ざかるだろうか。人は誰しもが何かしらのマイノリティで、何かしらの変なところは持っていると思うのになぁ。自分なりの正しさフィルターを外すことは結構難しい。
個人的に八重子の特徴に共感するところはあって。「性欲とか恋愛とか結婚とか、全部関わらずに生きていけるならそうしたい」って、そう思う時、ある。でも人との関わりは求めてしまうんだよなぁ。
正欲を見終わった後、そばかすという映画を見たのだが、そこでも同じ感情を抱いた。でも、そういう考えって変なのかな?
夏月は言った。「私は地球に留学している気分。私にとっての辛いことが、他の人にとっては楽しいことなんだ」って。他の人が楽しめることを、何で自分は楽しめないんだろうって、そう思うことたくさんあるよね。それが恋愛とか結婚の話になると、どうしてちょっとおかしいって思われる?(自分でも思っちゃうし。)多様性を認めてほしいわけじゃなくて、色んな考えがあってそれを発すること(というかその感情そのもの)が許される世の中になってほしいと思った。あっちゃいけない感情なんてないからね。
夏月と佳道が見に行った水の放水シーン。落ちてゆく水と反比例するように高揚していく心が描かれていて見事だったなぁ。
あと、新垣さんのお芝居が素晴らしかった。お寿司を食べるシーン、食べ物の噛み方ひとつでその人の内面が滲み出てるなぁと思って感心しました。
プロポーズの言葉が良かった!!
現代日本の生きづらさを詰め込んでいて、他の映画にはない空気感がありました。実際の、不登校小学生YouTuber「ゆたぽん」は、ヤンキーの父親がやらせていたので、あまり持ち上げるのは良くないと思いました。「手を組みませんか」という、プロポーズの言葉が良かったです。稲垣吾郎は、ほんの少し前の父親像を演じて適役に感じましたし、二組のカップルの明暗が分かるラストが印象的でした。
正欲=イナクナラナイデ
大昔からいたと思う。
こういった、作中「普通」と称される、学校を楽しみ社会人を楽しみ恋愛結婚出産育児して種を残す地球人とは、嗜好の異なる人間が。大量に。
それは集団嫌いかもしれないし対象が同性だったり子供だったり水だったり、多岐に渡る。
その、少数の人達の、同種を見つけにくい生きづらさを、「社会のバグ」「ありえない」と一蹴して、孤独に追いやりたいとは思わない。
一方で、異性愛でフラれる確率以上に、対象と両想いが存在する確率が低い嗜好の時、孤独と共に、一方的加害が存在しやすいのもまた事実だと思う。
この作品は、
・どんな嗜好や思考であれ抱く寂しさや孤独
・1人でない、仲間がいると思える安心
・それが一方的な場合に被害者が生まれる
という複数の視点で、マイノリティに対する意識を問いかけてくる。
長い長い目で、人類を生物学的な種族としてみた時に、成人異性愛でない嗜好は、種を残す可能性が低く、人類という目線では淘汰される運命にあるのかもしれない。
でも、「俺たち、藤原悟チルドレンだったんだ!」と作中で水が好きな偽装夫婦が話すように、マイノリティな人達も繋がりを求め、時代を超えて存在している事実もまたある。
仲間が見つかって、良かったなと思える。
反面で。
今度は、
この水好きの対象が子供だったら、つまり小児性愛だったらどう思いますか?と投げかけられる。
作中、「普通のど真ん中」の思考で法に基づき人に刑求する検事を演じる稲垣吾郎の普通の生活は、学校に行きたがらない息子をめぐって簡単に揺らぐ。
そして、普通ど真ん中な男の息子は、YouTubeに顔を出し、すぐそこに小児性愛の狩りの目があるところに生きている。
嗜好などで分けずとも、多数派にも少数派にも、自分勝手で害のある人はいて、そのような人達とは、お互いに自由の名の下に、共存も隔離も難しいが、どのようにすれば良いのか。
答えが簡単に見つからないからこそ、できた作品なのだと思う。
普通ど真ん中役の検事が、小児売春男児を見て、「されたことを理解するより前」と話すのが印象的だった。稲垣吾郎が言うからこそ、そうだよねそのような事態にいたと後から理解したとしても深い傷を負うのだから、そのような環境に子供を置いてはならないと心底からの警鐘になっていたと思う。
昔の被害のトラウマを抱える大学生女子の、やっと言葉にできた悲痛な叫び。それを、狡いと捉える人。どう受け取っても、言葉も表現も感情も嗜好も自由だけれど、それだけの深い傷がある人と話して、自分も人を傷つけていないか気をつけようと思う心だけは、共通であって欲しいなと思う。
「いなくならないよ」のガッキーのセリフに、どんな人でも最後はそこだよねと思った。
理解されて、そばに居たいと思ってもらえる。
これはなにもマイノリティやLGBTQに限った話ではなくて、作中の「普通」の人でも、案外難しいことだと思う。
子供達が不登校をしながら始めるYouTubeチャンネルにNPOとして支援を入れてくる右近さんが実は小児性愛者だったらどうしようと、途中まで怖かった。
検事の危機意識を持つ夫と、子供が楽しそう、子供を理解していたいという気持ちで顔出しYouTubeチャンネルを楽しむ妻では、合わなくて当然ではないか?夫のコミュニケーション不足もかなりあるとは思うけど、ちゃんと話しても、取り調べみたいとか怖いとか言う妻には、伝わらないよね多分。。と、なーんで結婚したのこの2人?と思った時に、「いなくならないで」の感情だったんだろうなぁと思った。
孤独の心細さは、結婚すらさせる力がある。
結婚しているだけで、あらまこんなに独特な方でも、理解者がいて家族を築けているのねという、見方をされる。実際理解者がいる安心感だけで、まとう雰囲気が変わったりする。
それだけ大きなことだから、誰だって、家族を欲しがるよね。打ち明けられる家族なら。
それは種の存続に繋がる、人間としての本能でもあると思う。
そしてできるだけ多くの種を存続させようとしたら、傷つけ合わない平和のために、「社会」が必要になる。
社会の基準として、「法律」ができあがる。
法律を侵してなくても、法律にそぐう生き方をしようと思ったら、大多数の「普通」ができあがる。
そうするとこの文の振り出しに戻る。
とても難しい。
でも、どーーーーんな生物でも、
イナクナラナイデという欲があって、それは独房にでも入れられない限り許される、正しい欲。普通。
そこは嗜好が異なるどんな人にも共通なんだなと啓蒙する作品。
自分の内側にある欲求
世間の常識とは異なった欲望があるということがテーマだったと感じた。
何を思うか、何を感じるかは自由である一方で、それを受け入れるかどうかは他人の尺度に任せられる。そこが生きづらさを感じるポイントなのかと感じた。
受け入れる側である寺井は、子どもの不登校とYouTube活動に歩み寄りを見せなかったことで家族との仲が破綻したように、相手を自分の価値観に当てはめずに理解する姿勢が重要だといえるのではないか。
多様な性…
水フェチ、確かに初めて聞いたし、発想自体ないが当然犯罪ではない。異性同性に限らず、人には無関心だが、水に性的なものを感じる異常性に生きることの苦しさを感じている人々を描き、ラストは児童への性犯罪と間違えられてしまい、中途半端に終わる。全体的に暗い。
不思議な感情
自分の知らない世界がここにありました。
題名の感じからLGBTQに関してのお話だと勝手に思い込んで見ていたので、水に性欲をいだいているお話だということに驚きましたが、この映画を見て、人には理解してもらえない人、自分だけが疎外感を感じて生きている人は、この世に沢山いるんだろうなと考えさせられました。
生きづらい世界の中でも光を見つけて、理解し合える人と生きている2人は素敵な関係でした。
あの学生の男の子は、男性が好きなのかと予想してみていましたが、水フェチだったんですね。
学生の女の子も、兄からのトラウマ(?)で男の人が嫌いだけど、それでも男性を好きになってしまう。
唯一藤原くんと話せたのは彼が女性に対して性的な感情が無いことを、彼女なりの本能から気づく感覚的な安心感があったのでしょう。
わりと冒頭で、新垣さんが寝ていてベッドに水が溢れ出てくるシーン、性的興奮を表現する絵の撮り方なのはなぜかなぁ?と思ってみてましたが、あとになって理解できました。
最初はよくわからず、水でうなされてるのか?けどなぜか性的シーンに見えるけど、どういう表し方なのだろうって見てました。
思い返せば食事から帰ってきてすぐに滝の動画を見ていたり、コップから水が溢れ出ているのにその水を止めないシーンがあったり。
全て分かった上でもう一度見返すと、より一層ところどころで色々な感情を汲んで見ることのできる作品だなと思いました。
学生の女の子の役者さんの演技力が群を抜いて素晴らしくて驚きました。初めて見てお名前を存じ上げませんでしたが、すばらしかったです。
ここにいていいって言われてる気がすると新垣さんが映画中何度も言っていました、SEXの擬似体験をしてみたいや、いとおしいとおもう気持ちや、(ふつう)なことを経験してみたいということも、なんだか胸に刺さりました。
覆い被されたあと、新垣さんが感じた気持ちの中には、愛おしさもあったんじゃ無いかって思えました。
けどそれは私がそう思うだけで、本当に水フェチの人はあの状況でも、理解し合える人を失いたくないや、ここにいていいって言ってもらえてる気持ちのみだったのかもしれません。
正しい欲って、なんでしょうね。
普通ってなんですかね。
あなたの普通はその人にとって普通じゃないし、
理解できなくても、理解しようとする気持ち自体の大切さや、歩み寄る心が欠落していた稲垣さんがこの世界の世間の目を表しているように思えました。
私は滝を見るのがすごく好きです。
ですが性的に興奮したことがなく、例えば同じ動画を好きで見ている人同士でも、着眼点や視点が違ったり、全く同じ見え方をしていなくて、もしかしたら真反対なことを見ていることもあるのかもしれないなと思いました。
色んな人がいるってより思う作品だったとともに
自分を、自分の感性や気持ちを、すごく大切にして生きていきたいって思いました。
明日を生きるためのものしかない、
そうじゃないひとのものがないとか、
なんだか、色々考えさせられる作品でした、見てよかったです。
ゴローちゃんの目が一番普通じゃないところが良かった😀
まず映画とは何かを考えさせられました(テーマとはもう一段深いというか、関係ないところですが!)。一つ一つの映画が一人一人の人間、もしくは人間たちの物語に例えられるとして、それら映画の面白さや面白く無さは映画自体の存在になんら影響を与えないのではないかと。
と、、回りくどくなってしまったがこの映画解像度が低い?のか高すぎるのか?単に私の波長に合わなかったのかのめり込めなかった。
正常と異常というテーマの難しさ、いやシンプルだからこそ、深みのある議論がむつかしいのかな。いやこのテーマで深みのある映画は多々あるではないか(以下省略)。
ところでこの映画、日本の田舎の風景描写がなかなか良かった。主人公の男の住んでる道路沿いの山の麓の一軒家とかとても良かった。
また、やはり吾郎さん、ガッキー、磯村さんの華、もしくは俳優力(人間力?)で最後まで見てしまった。でもこの淡々とした脚本は故意か?いやそれは当たり前か、でもこのお三方の芸風?(=演技指導?)にとても合ってた。それはテーマの"水"のようにということかもだが、ぼーっとこの映画を見てたらそれはそれで心地良かった。
原作を読んだ後に見るとガッカリする映画
原作では啓喜や夏月、佳道は各々自身が感じる他者との違いに違和感や違いを感じ悩むキャラクターとして生き、精一杯もがきながらも決して他人に直接攻撃的な言動、行動を起こす事が無い。映画では啓喜は嫌な父親かつ高圧的な検事となり、夏月は佳道への嫉妬?裏切りと感じた事により佳道宅の窓ガラスを割る行動をするなどの奇怪な行動を起こす。
恐らく原作では田吉が引き受けていた人間の嫌なところを思う存分発揮するキャラクターの要素を映画では引き受ける役所が無く(田吉は出てこない)各々に振り分けたからだと思う。
啓喜は自分の価値観では特殊性癖者を受け入れれないが、他者を思いやる検事だし、もう少し妻や息子への愛情を持ったキャラクターだと思う。夏月は自分の特殊性癖に対しての葛藤が映画での夏月のように自分勝手なキャラクターでは無いと思う。
正直、修は死なないと佳道と夏月の関係性を深めれないと思うのでシナリオ変更のミスだと思う。
しかし、他の方の印象はいい映画だと見受けられるので原作を読む前に観たかったと感じた。
八重子役の東野絢香さんの演技は凄く良かったと思うので彼女の他の出演作は是非見ようと思う。
シビアなレビューですが、原作通りに作るだけでは映画の良さも出ないと思うので、原作読まれる前に是非観てほしい作品だと感じました。
もう戻れない
夏月が佐々木に「もう戻れない」と言うシーンが良かった。
普通でない人の多くは、他人に理解されることを諦めているだろうから、夏月のように「もう戻れない」という心境に至ることは多くないのではと思う。
夏月はこの後、普通に生きられるのだろうか。。と考えながら映画館を出た。
他に印象に残ったセリフ
・生き延びるために手を組みませんか
・居なくならないから
・普通のこと
映画自体は想像できる範囲の展開でつまらない
映画は特殊性癖を持つ人にも理由があるしと主人公が正義で一般社会の被害者みたいな描き方(途中まで特に)
でも一方でサブキャラの登場人物の男性恐怖症の学生について同列な異質な人間を描く手段として登場させたのみの雑な印象を受けた
当事者にとって対人恐怖症も異性恐怖症も日常生活を普通に送る上では困難なハンディキャップでしかないしそれに第一快楽を求める特殊性癖ではない
恐怖症なのだ
快楽や悦楽と同視しないでほしい
所詮、インディーズや自主制作なら兎も角、大手に勤務する映像制作スタッフの中で異性恐怖症がスムーズに働けるとは決して思えず…
映画制作者の中に結果的に当事者はいないのだから
取材での創造物でしかない訳だし
昨今は役者の演技上の性的表現だけはインティマシーコーディネーターなど過敏になっているが他の表現方法については昔のままなんだなと思った
何を根拠にしてこの作品の登場人物として恐怖症のキャラクターを登場させたかったのだろうかと最後まで否、見終わって今ですら疑問は残るのだった
映画自体は想像できる範囲の展開でつまらない
欲望のあり方
性の欲望は人それぞれ違うことは分かる。
それぞれの性(欲望)のあり方について、ここ数年での変化は映画化までの時間より早かった様に思える。
そのため水という流動的なものから得られる欲望があるとしてもよいだろうし、欲望が一つだけとは限らない点も理解できる。その欲望を満たすことは何処にあるのだろうか?
それは自慰行為も含むことだけど。
登場人物たちそれぞれのそれも含め描いて欲しかった。
描いたキャラもいるのだけど。
そして導入部がとても長く感じ、点と点が結ばれ線になってから結末に至るまでの展開が坂を下る様に早く感じられ、もう少し起伏を付けても良かったんじゃないかと思えた。
拘束されるまでの心理描写とか。
あと警察署内であそこまで冷静に居られるのだろうか?何か他人事の様に描かれてる様にも感じられた。
何をいいたかったのか…
結局何を言いたいのかわからなかった。自分らしさを持っていきたい佐々木や人に心を開く習慣がなかったダンス部の男が小児性犯罪者に巻き込まれた事に関して、自己実現をしたというよりバッドエンドに感じてしまった。結局、自分らしく生きることは悪だといいたいのか、監督や筆者の意図が汲み取れなかった。それともよく知らない人と会うことが~という話なのか。正欲といっても小児ポルノは犯罪。水フェチは犯罪じゃない。というか水フェチは主人公二人に関しては思い出に紐付けられたフェチシズムな気がするので純粋に思い出を想起するものでフェチでないと思う。この2つを関連付けた犯罪者が事態をおかしくしてる
あと、時系列に一度混乱した。子供の父が持っている藤原の記事はその当時最近のものなのか、佐々木と桐井が中高生のときに起こった事件なのかわからなかったからタイムスリップ要素あるの?と思った。
佐々木
彼が生きる希望を持てない理由が明確に描写されていなかったため、共感できなかった。桐井との対話では、親がなくなったがよかったと思った、おれは冷酷だと言っていたが彼は心が弱いタイプな気がする。やや感情に流されやすい気がした。ネットの関わりで事件に巻き込まれているのが彼にとって幸せかというとそう思えない。彼は元々こういうタイプなの?
子供
佐々木と同じようなタイプな気がする。父母が異なる欲を持って対立しているのであれば、家のがしんどくないか?と思ってしまった。背景描写が甘すぎる。いじめにあっているなら細かい描写が欲しかった。
桐井
彼女は中学生以降の記憶しかなく彼への執着が見え隠れしていたことが彼女の欲だと読み取れた。よってあれこれと遊んで婚活やセックスしたくない。執着心から彼の窓を割ったからこそ免罪は弁解したい正義感が働いたのか。
ダンス部の男
子供の父とは別の冷酷さを感じた。ただ生来持ってるものだろう。男性恐怖症の女の子に最後共感する気持ちが芽ばえたのはビックリした。その女の子は別の女と理解しているだろうし、藤原を名乗ってる男に騙されてるとは思わなかった。
追記
ジェンダーの話とは思わなかった。ただ人生のレールに乗るか否かという大きいくくりであって、セクマイやアセクシャルとは関係がないと受け取ってしまった。エリート検事稲垣の家庭に関しては「育て方、生き方規範」でありジェンダーだの関係ないだろう(父と母の典型例っぽいが)。水フェチはガッキーと佐々木くんの絆の間に生まれたものであり、少なからず恋愛感情はあるように受け取った。「水」はハンドルネーム藤原と佐々木とダンス部男が繋がるきっかけであって趣味のようなものだと受け取ってしまいました。
水フェチってことですよね
共感する人も近くにいて明日生きていたくないといった気持ちになる葛藤が描ききってないと思う。この映画だけを観ると水と戯れること、動画を観ることで欲求が満たされるなら、人の迷惑にもならないし、犯罪にも関わらなくて済むので生き辛い感が伝わらない。
ゴローちゃんの家庭は酷かったな。レトルトのカレーのみとたぶん冷凍物のオムライスのみを当たり前の様にサーブするあの奥さんの冷たさがとても印象的だった。
〝普通のこと〟です。
インパクトあるタイトルでひき寄せられ、放つメッセージは何だろう?と予告からわくわくした。
数えきれないほどの個性が集まるこの世だ。
生きていれば他者の思考・嗜好・志向との相違を感じる。
それは普通のことで正解や不正解もない。
誰にとってもそれは「正欲」であり、生きようとする欲=「生欲」ということなのだろう。
登場人物のエピソードを巡りながら考えさせるメッセージ達はなんだか幾度も打ち寄せる海水に似ているなと思った。
決して生ぬるくなく傷を探してはしみ込んでくる。
波打ち際で立つ足元に目をやるたび、都合よく保身してくれる砂たちを繰り返し連れ去る。
〝普通のこと〟があなたに〝どうあるか〟。
根っこの部分に、他を害したり傷つけないことを絶対のルールとして、
〝では、どうあれば〟と聞いてくる。
その問いは、彼らの縦とか横とかななめが繋ぐ接点を巧妙に繋ぎながら最後まで力強く続く。
その最後である夏月の姿はとりわけ印象的だ。
佳道についての聞き取りをする寺井の正面で一切たじろぐことのない彼女。
自分を理解されることのない異端だとあきらめ他者との距離をとり生きることに疲れていた彼女が、似た感覚を持つ佳道と過ごすうちに自他の自然な感情や感覚を肯定できるようになったのを確信できる姿がそこにあった。
それは身についた寛容性だ。
自分らしさに向き合い心地よく生きる術がなし得たことだと思った。
同時に安堵がよぎり、この肩に入っていた緊張が解け血が回り出したようにふわりと体が温まった。
さらにそんな夏月のその背中をまたひとつ、すっと寺井の前で押してみせた言葉。
それは偶然と夏月の勇気が手繰り寄せたぬくもりの重みのちからだった気がしてならないのだ。
あたたかい背中にまわした夏月の指先が触れたのは他ならぬ自分の素直な感情。
人の温もりという安らぎに似た愛おしさがこちらにも漂ってきたのを感じながら夏月の前に開かれゆく長い道も見えた。
私たちのまわりにはいつもあのメガネがそこらじゅうに転がっている。
ふとしたきっかけで手にとるのは他者かもしれないし自分かも知れない。
その使い方次第では、過去から現在、海の向こうも身近に見聞きするものも起きる過ちはこの足元から簡単にまるくつながっているのだろう。
このしょっぱい波がざわめく間は剥き出しになった自分の素足をみつめることになるだろう。
日が暮れて遠くの灯台の薄明かりしかなくなっても、ただそこで、ひとりで。
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