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いやぁ、面白い!圧倒的にエンターテイメント。全く飽きることのない、畳み掛け続ける恐怖と興奮と好奇心がとても高揚感を与えてくれる、そんな映画だった。絶対に劇場で見た方がいいとオススメできる超弩級の映像体験。そう、まさに「映像」体験なのだ。この映画の本質が、そこに置かれているように。
この映画は徹底的に「目」あるいは「見ること」の映画であって、その延長線上にある、現代においてはその代替として確固たる地位を占めている「映像」の映画なのである。それを段階的に、あるいは動物的な進化論とともに語り尽くす、紛うことなき傑作なのだ。
我々が「見る」とはどういうことだろう。おそらく原初においてそれは、単純に「対象を見る」という一方的な出来事であったはずだ。それが、チンパンジーに代表される大型類人猿に至り、もちろん我々ももつ、「鏡像認知」の能力へと拡張する。それは、鏡に映った虚像を自分の姿だと認識できる能力に他ならず、ここにおいて我々は「見る」という行為が「認識する」という知覚へと結びつく。そこに自己と他者の境界が生まれ、「見る」という行為の輪郭は異次元へと拡張していく。すなわち、私たちが日々感じる「他人に見られている」という違和感や、「誰かに見守られている」という安心感がそれである。この「見る」という行為こそ、人間関係の、あるいは社会的存在として生きるホモ・サピエンスの根幹の一部として持っているといえる。そこへ疑問と恐怖を投げかけたのが、そして、それを打ち破ろうとしたのが、本作ではなかろうか。
その証拠はいくつも挙げられる。一つは、馬のラッキーが鏡に強く反応を示したことだ。あるいは、謎の飛行生命体もミラーリングマスクを被った男性を「見る」対象として排除する。そこに映った「見る」主体とは誰か。それは当然、彼ら(馬あるいは飛行生命体)に他ならず、そこには鏡像認知は介在していない。だからこそ、野生動物が「目に入ったもの」を襲うように、彼らは「目があったもの」を襲うのだ。
もう一つ、「ゴーディ事件」として引用されるキャラクターは、まさしく今問題にすべき鏡像認知の境界線に立つチンパンジーであり、彼が、ドラマの登場人物の上半身(あるいは顔)を執拗に襲う描写が印象に残る。彼は何を攻撃したのか?そして、なぜ、子役であるジュープを攻撃しなかったのか。後者を考えるとわかりやすく、ゴーディとジュープの間には、半透明な「視線を遮る」布が確かに演出されていた。彼らは“目を合わせていない”のだ。だからこそ、「目」を合わせる代わりに「拳」を合わせる。それは、動物的な距離感を正しく演出したヒントなのではないか。
さて、この作品は上述のような「目を合わせる」という動物的な感覚から、さらに一歩先へと踏み込んでいる。それが、「映像」という現代の「目」に他ならない。
1878年、マイブリッジは「動く馬」において、人間の視覚を瞬間的なコマの世界へと、そして同時に連続的な映像の世界へと導いた。それ以降、映像はリュミエールによって「映画」としてかたどられ、彼らの「工場の出口」や「汽車の到着」といった現実的な瞬間の記録から、メリエスの「月世界旅行」、あるいはエイゼンシュタインのモンタージュという創成期を経て、ドラマトゥルギーへ、そしてCGや3Dなどの技術的な大躍進へとその運命を辿る。そうした映像的、あるいは映画的な道すがら、「映像」という物的な視野は別の副産物をも生み出した。それは「見る」=「映像に残す」ということの客観性ではないか。
本作で、主人公兄妹は、未確認飛行物体をひたすらに「映像に残す」ことに拘り続ける。彼/彼女たちが「見る」ことだけでは現代的な意味での「見る」ことには繋がらないのだ。「見る」ということの証拠として、我々は「映像」を必要とし、そのことが、皮肉にも我々の「見る」ことを定義する。すなわち、「現実に見えるものが見える」のではなく、「映像に残ったものこそが見えている現実である」という奇妙な倒錯なのではないか。この大いなる矛盾は、言わずもがな、現代のSNSやYOUTUBEの渦中に生きる我々であれば、否が応でも痛感したことがあるはずだ。「事実」や「真実」といった言葉はもはや失われ、「映像」こそが「現実」という現代なのだ。
そういった現実、「見る」という行為について倒錯した現実を前に、本作は最大限の抵抗を見せる。終盤、兄弟が、「見ているぞ」とアイコンタクトを交わすシーンは、まさに「見る」という行為そのものの社会性を帯びて、「生きる」ということに文字通り直結して心を打った。この兄妹は「見る」という人間的な行為を持って、社会的に生き、社会的に死のうとしていたのではないか。それは、「見る」という行為を持って、自己と他者を認識し、その境界に「愛」というものを見出す極めて人間的な所作ではないか。我々は「見る」ことによって、人を愛し。「見る」ことによって、人を守るのだ。瞳に映る彼/彼女は自分と違うから。それこそが鏡像認知を持って進化した、我々ホモ・サピエンスだから。
極め付け。妹はラストシーンにおいて、必死に撮影したその「最悪の奇跡」を捉えた一枚を捨てていく。この行動こそが、「映像」あるいは「無限大に拡張した見るという行為」へのレジスタンスではなかろうか。
あまりに長くなってしまったが、それほどまでに、本作は論じるべき傑作であった。「見る」ということ、「映像」という物理、そういう映画の本質に可能な限り迫ろうとした、恐ろしい作品である。