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愛した男が、亡くなったあとに偽名であったことが判明する不気味さと、「こやつは一体誰なのか?」というミステリーでありながら、人間の内面の重要性を説く作品で、非常に興味深くおもしろかったです。
キーワードは「名前」と「色眼鏡」。
テーマは「差別」と「個体(個人)」だと感じます。
自分はどんな人間であるか?他人に、自分という人間を知って貰えているか?名前ではなくて「こういう人間性のヒトだ」と、他人の記憶に残ることが「生きる」ということ、と説いている作品のように感じました。
「韓国ドラマばっかり観て」というシーンにドキリとしました。他愛のない家族間の雑談シーンで、「韓国ドラマ」という表現はジャンル分けした際の、ジャンルの1つだと思うし、深く考えずに何気なく使っていました。しかし「韓国ドラマ」という単語を分解して言い換えると、「韓国人が作ったドラマ」「韓国らしい作風」「韓国で人気がある」などなど、土地を限定する言い方は、差別にあたるかもと思いました。土地だけではなく、なにかを限定するような言い方は、差別になる可能性があるかもとも。
印象に残ったセリフは「私は誰の人生と生きたのか」です。旦那が不慮の事故で亡くなったあと、偽名だと分かったときのセリフです。のちに、「(偽名を使った理由)真実がわかったあとだから言えるのだけど、名前ではなくそのヒトと一緒に生きたことは事実だから、名前は知らなくても良かったのかも」と清々しい顔をされてました。
でもね、
この人は誰なんだ?という名前を知りたいと思う欲求や衝動は、自然だし当然だと思います。名前は、その人を表す記号だとは思うけど、その人そのもの。名前がわからないと、現実ではおろか、自分の頭の中ですらその人を呼ぶことができない。呼べないというのは、寂しい。だから名前は大事。大事だけど、ほんとに単純な「記号」として。本当に大事で重要なのは、中身で本質。ちなみにこの作品の言いたいことは、息子のユウトくんが全部言ってくれてます。
●「(苗字がかわることについて)僕は誰になればいいの?」
→誰かになろうとしなくていいし、型にハマる必要はないし、型にハマると自分を見失う。
●「(谷口という姓が知らない姓だと知った時)僕の名前はなんなの?」
→個人を表す名称の重要性。
●「お父さんが死んだことが悲しいのはなくて、もうお父さんに会えないことが寂しい」
→人に必要とされること、人の記憶に残ることの価値。
●「妹のはなちゃんには、僕から、どんなお父さんだったかおしえてあげる」
→一所懸命生きた証明をすることと、自分が誇れる人間になりなさい。
そして名前の重要性については、原誠さんが「りょうくん、りょうくん」と名前を呼ぶシーンがあります。
もうその人と接することが出来ない以上、その人の人間性を知る術がない。名前を呼ぶことが、その人の存在を認めたよ…と言っているように見えました。原さんは「思いやりがある人間性を持っている」と垣間見れるシーンでもあります。
劇中では、人物の後ろ姿の描写がとても印象的。度々、後ろ姿で映ります。「ちゃんと目の前の人を見てますか?見えていますか?向き合えていますか?」とメッセージを感じました。たぶん、故意に真正面のシーンは1つだけ。城戸先生が刑務所を2度目に訪ねる場面です。Xさんの本名が判明した事で自信満々の城戸先生。しかし、詐欺師・小見浦が言うように、城戸先生は「何もわかってはいない」。
城戸先生は、真相を知りたくて、知りたいがあまりに、答えだけを求めて、目の前のその人を見ようとしない。その人を形成した過去や環境、今現在の生活など。見ようとしていない自覚もない。分かったつもりでいるが、偏見による考えであることに気付いていない。
気付かないまま城戸先生は、言葉は少なく「分かっている顔」をよくします。偏見による「分かった気でいる」時もあるし、相手に共感を示している場合もある。だけど、共感を示すときは「共感すること」と「自己の感想をもつこと」がゴチャゴチャにならないように気をつけたいところ。城戸先生はそこも曖昧。共感を示す場合は「他者を理解する、までに留める」ようにしたい。意識しないで人の気持ちに共感をしていると、いつのまにかそれが自分の感想であるかのような錯覚を起こして、自分を見失いかねない気がします。
城戸先生は、自身が人種差別を受けてきて、その痛みを知っていて「色眼鏡で見られる」という事にウンザリしていて、人種じゃなくて型にハマった形じゃなくて、1人の人間を見て欲しい願望を持っています。しかし、自分とはなんなのか?漠然とした疑問があるだけだった。
「自分を自分だと証明とするもの」を探そう考えよう、とはしなかった…自己肯定感が低く自身と向き合えていなかった。人捜しは解決してスッキリしたかのような城戸先生だったが、人の、他人の人生は俯瞰しやすい。城戸先生自身は、自分が何者なのかわからないまま。城戸先生の「自分とは、なんなのか?どんな人間なのか?」その旅はこれからも続いていく。
同じように私たちも、自分自身をずっと探し続けるのでしょう。人の記憶に、自分という人間性を刻めるように生きていきましょう、、という映画なんだと思います。タイトルもいいですね…!飾り気がなく、ただ興味を引こうとしてるだけに見えて地味に感じたタイトルですが(失礼)、観賞後は、名前と内面の重要性を表していて、とても妙です!
さて。
度々書いている「自分はどんな人間なのか?」
これは、自分の考え、物の考え方、価値観を把握して自身で肯定する事と思います。一方で、他者が認める「あなたって、こういう人だよね」と評価される事も自分の一部であると思います。すべてを知って、自分を理解することは無理なのかもしれません。劇中(死刑囚の絵画展)で「人は変わりゆくもの」と講演がありますが、自分をアップデートしていくがごとく、絶えず「自分はどんな人間なのか?」と自問すること自体が、意味のあることなのかなと思いました。
作品を通して。
わたし個人の内面を、認めてもらえるように。また、他者と向き合ったときに内面を見ていきたいし大事にしたいと思いました。