忘れられる恐怖について
――映画『ウィッチサマー』をめぐって
ホラー映画とは、本来「怖いもの」を見るジャンルではない。
それはむしろ、自分が何を怖がっているのかを突きつけられる体験なのだと思う。
『ウィッチサマー』(2021年)は、そのことを非常に意地悪な形で観客に問いかけてくる作品だ。
怪物は現れる。襲う。血も出る。
だが、本当に不穏なのはそこではない。
この映画は、観ているこちらの思考そのものをフリーズさせる。
私たちは本当に、端然と物語を追い、正確な判断を下し続けているのだろうか。
それとも、見たいものだけを見て、都合の悪い違和感を切り捨てているのだろうか。
「ひと夏の経験」という偽装
主人公ベンは思春期の少年だ。
父と母の別居、居心地の悪さ、初恋めいた感情。
一見すると、この物語は「ひと夏の成長譚」に見える。
しかし、どこかおかしい。
物語は最後まで描き切られているようで、
どうしても未処理の感覚が残る。
それはホラー映画特有の「まだ終わっていない」感じであると同時に、
そもそも一件落着ですらないという違和感でもある。
邪悪なものは森から来る。
ベンはネットで得た情報から、「マーク」「邪悪な母」「記憶を消す」という言葉に辿り着く。
だが、それらが本当に正しいのかどうかは、最後まで保証されない。
塩を撒いても効かない。
対処法らしきものは、ことごとく頼りない。
つまりこの映画は、
対抗手段が存在しない恐怖を描いている。
記憶という、もっとも恐ろしいもの
物語の核心は、魔女ではない。
「記憶」だ。
記憶が消えることは恐ろしい。
しかしそれ以上に恐ろしいのは、
消えたことに違和感すら持てないという事実だ。
その代表例として、私たちは認知症を知っている。
本人にとって「ない」ものは、最初から存在しないのと同じだ。
ベンの弟ネイサンの存在は、この恐怖を象徴している。
ベンは、ネイサンの存在を「忘れていたこと」を途中で思い出す。
それは、ネイサンが二階から落ちた記憶と符合する。
母とネイサンとの生活の中で、
ネイサンの記憶は消えていた。
そして父の家で起きた出来事は、
別の邪悪さとの再遭遇だったのではないか。
この物語で、
すべてを把握しているのは邪悪な存在だけだ。
人間は、いつも少し遅れる。
女性に受け継がれる邪悪さ
邪悪さは、なぜか「母になり得る女性」だけを狙う。
目的は最後まで明示されない。
ただ、邪魔な存在を排除するように振る舞う。
マルは、いつ汚染されたのか分からない。
もしかすると、アビーと同じように一度取り込まれていたのかもしれない。
そう考えるなら、物語上、
最初の犠牲者はベンの母親だった可能性も浮上する。
この構造は、『鬼滅の刃 遊郭編』に登場する鬼とよく似ている。
消えた子どもたちは、
邪悪な木の中で、いつか食される。
救われたのはネイサンとリリーだけ。
だがその裏で、マルは取り込まれたのではないか。
彼女が別れ際に差し出した花は、造花だった。
「忘れないでね」という呪い
マルの「忘れないでね」という言葉。
そこには、妙な湿度がある。
ベンは違和感に気づいている。
それでも彼は、ボートを見送る。
もしかするとその瞬間、
ベンはすでにネイサンの所在を忘れ始めているのかもしれない。
一般的には、ネイサンは施設で保護されたと読むだろう。
だがこの映画は、
その「一般的な読み」そのものを疑わせる。
最後の最後で、
初めてベンが違和感を覚える。
そこに、この作品の本当の恐ろしさがある。
なぜ「35年前」で、なぜ「5日前」なのか
冒頭の35年前。
そして「5日前」という表記。
これは単なる時間の説明ではない。
35年前とは、
すでに忘れ去られた過去だ。
5日前とは、
すでに欠落が始まっている現在だ。
この物語の「現在」は、
邪悪な者と対峙していた瞬間ではない。
マルとの別れ、
記憶が曖昧になり始めた地点こそが現在なのだろう。
つまりこの映画は、
理解された瞬間に、恐怖が次の世代へ移行する構造を持っている。
終わらないということ
事件は決着した。
だが、終わってはいない。
「忘れないで」という言葉は、
祈りであり、呪いだ。
考え続ければ、
この物語は無限ループに陥る。
だが、考えずに忘れた瞬間、
次の「35年後」が始まる。
『ウィッチサマー』は、
魔女の映画ではない。
理解されなかった子どもたちの映画であり、
そして、
いつの間にか「理解しない側」に回ってしまう
私たち自身の物語なのだ。