ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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自分と向き合うこと、誰かを受け止めること
この言葉が、作品を通じて、訴えかけているメッセージだと私は感じました。
自分に正直に向き合い、真実を見る勇気、そして、誰かを真っ直ぐに受け止める事の大切さが、劇中にちりばめられています。
劇中のドライブのシーンは特にそれを象徴していると感じました。
原作も読みましたが、原作以上の濃密さのあるストーリーで、色々と考えさせられ、楽しめる作品です。
受け入れるしかない現実
夏に公開してたのを見送ってしまってたところ、賞を取った事で劇場で鑑賞する事が出来ました。
広島が舞台という事で地元人ならではの楽しみ方も出来ました。
無くしてしまう恐怖から、いろんな現実に蓋をしてやり過ごしていた結果、分からないまま受け入れるしかない現実を迎えてしまう…って私ごとですが自分の現実と被ってしまい感慨深かったです(笑)
後悔しないように生きるって凄く大事な事ですが、後悔しないと真面目に考えない事ってたくさんあると思いました。
西島秀俊さんは相変わらず素敵な演技でしたが私は岡田将生さんの表情とか口調の演技に魅せられました。
受賞作品って面白い映画というよりは暗く重く考えさせられ、「…で、結局どうなったの?」って内容が多い認識がありましたがこの作品もそうゆう作品ですね。
肉体美
西島さんと霧島さんのあんなシーンがあるとは思わず観に行ったけど、年齢を感じさせない体の美しさに目を奪われた。
そして3時間とは知らずに観てしまって途中の記憶がない…
映像としては面白いと思う。車を運転している時の道路を映す画は無駄に長く感じる人も居るもしれないけどあの時間で色んなことを考えることができて、最後韓国?の時だけちゃんとあの車の高さで、それまではトラック位上からの目線とか。高槻が家福に音の夢を語るシーンとか。結構好きだった。
ひとつだけ、イベント主催の女性だけ昭和から飛んできたのかと思って喋り方も気になって仕方なかった。
自分と向き合わないと他人とも向き合えないし、他人と向き合わないと自分自身とも向き合えない。ちゃんと向き合えた時等身大の自分で生きていけるのかもしれない。
カレーは飲み物、字幕は観るもの、人は死ぬもの
カレーは関係ない。字幕は倍の分量でも平気。死ぬってあっけない。
青空文庫で冒頭20分読んでおくだけでも理解が全然違う。
まあ、○○のためにする読書なんか碌でもないけれど。
原作未読。『ワーニャ伯父さん』は直前に青空文庫で冒頭ワーニャ伯父さんがグダグダくどくどぶーぶー文句たれてるあたりまで。八割がたそんな感じだけれど。
睡魔に襲われるかもと心配したけど、全くそんなことはなくてぐいぐい引き込まれてしまった(別にPG12場面だからじゃないぞ)。霧島さんの声が妙に耳に残る。ベッドでの語りもだし、テープの『ワーニャ伯父さん』も。ここで直前に読んだおかげですんなり入っていけるし、「ここでこの場面入れてくるかあ」と色々と考える余裕ができる。あと多言語演劇に驚かされる。これって実際に演られてるのだろうか。
先に鑑賞済みだった『偶然と想像』でもそうだったが、人間は演技しながら生きているのだなと。気づかないふり、何でもないふり、平気なふり、思わせぶり。極端な感情表現だけが演技じゃない。振りの(フィクションの)中にだって真実はある。と何かと深掘りしたくなる。
いろんな気になる場面があるけれど、車内での岡田将生の長台詞は、それまで浅慮で口先だけに見えていた高槻という人物の見方が変わる秀逸なシーンだった。北海道のシーンから公演場面、そして最後の三浦透子まで、どんなことがあっても折り合いをつけて、(変な言い方だが)死ぬまで生きていかなければならないのが人間だなと思った。
作品賞と監督賞は厳しいかもしれないが、脚色賞はひょっとすると。国際長編映画賞はすんなりいけそうな気がする。
映画史に残る珠玉のロードムービーが生まれた。
米アカデミー4冠作品ということで、かねてより注目していたものの、シアター系は1日1回しか掛からないという塩興行でなかなか時間が合わずやっと観た。
村上春樹短編の原作は読んでいないものの、いかにも村上春樹作品に登場する意識高い系夫婦wのセックスと超非現実な語りから始まる冒頭で、正直なとこ一抹の不安もよぎったw しかし全編鑑賞後、予想を遙かに上回る佳作であったと感嘆した。
とにかく上映三時間という長丁場にもかかわらず、丁寧に丁寧に登場人物達を掘り下げて撮り上げ、その繊細な演出も素晴らしく最後までダレることなく観ることができたと思う。確かに原作は村上春樹ではあるものの、浜口監督シナリオのストーリーテーリングは賞賛すべきところが多い。西島演じる家福の舞台演出術の描写などは、論理的で破綻もなく舌を巻いた。こういところはおざなりになりがちだから余計にそう思うのだ。
「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」
ロシア帝国の偉大な作家チェーホフはワーニャ伯父さんでそう書き記した…劇中の舞台と主人公たちの人生が鮮烈に交錯してゆくのは胸に迫るものがあった。ふつうに観ていても心揺さぶられるものが多い本作だが、「人生はかくも醜く辛い」ということを数多く認識してる人にとっては、より琴線にビシビシ触れるものが多いことだろう。
あと余談だが、狂言回しの小道具となる車がなぜサーブ?というのも後半からラストにかけて観てゆくと納得なのだ(笑)
何だか残念
アカデミー賞総ナメになりましたが。
3時間の大作映画で、村上春樹の。とくれば期待値が高く。
村上春樹の小説はほとんど読まないので原作は、わかりませんが。何かしらの余韻や感傷を残すのではと、久しぶりの3時間映画に挑んだのですが。
とにかく、意味不明!ストーリーの意図がわからなくはない。しかし、すべてが唐突過ぎて、また無機質な朗読を読んでいる男女をただ観ていただけといえば辛辣ですが。
役者の個性が、見えて来なく。感情を抑えていた演出だったとしてもあまりにも素っ気なく。人物の内面性や人物像が見えてこない
愛妻を亡くした(西島さん役)の脚本家と、母親を災害で失くして自分が見殺しにしたと。良心の呵責に苛まれるドライバー役の彼女との出会い中で癒し癒されるカタルシス。二人に関わる大事な人達を失った喪失感とトラウマを二人が告白しあい、秘密を共有する事で二人の浄化と亡くなったお互いの大事な人への鎮魂歌?
内容がヘビーなのにちっとも感情の抑揚を感じず。劇中劇の中で、西島さんが演じた役柄の表現が唯一の感情の解放だった事は理解できるのだが。
脚本がダメなのか?演技者がダメなのか?
そして何故に?その映画がアカデミー賞を総ナメなのか。映画好きな私にとって不可思議な映画のひとつになった。
村上春樹の世界
なのかな、と思いながら観ていたが、ゴドーもワーニャも観たことない自分には難解。感情を込めずに台詞を言うという稽古がよくあるのかもしれないが、音のテープから流れる台詞回しがあまりに棒読みで?だった。パンフでわざとだとわかったが。三浦さんの芝居も硬い。タバコに火をつける仕草など、慣れていない感じ。岡田さんはつかみどころのなさが良かったが、車の中での意味ありげな告白は取ってつけたよう。脚本の問題かと思いながら観た。
海外の評価は高いので、村上春樹さんの世界観が評価されたのではと思うし、ネタとしては面白いとは思う。古典を知らずしてこの映画は理解できないと言われているような気がした映画。
3時間は必要
ドライブマイカー
3時間越えの作品
自宅で配信で視聴出来るおかげでテレビ前に飲み物スタンバイでリラックスして見ようと、見始めた…
が、冒頭から引き込まれてそれどころではない。
夜明けの淡い明かりが窓から差し込む高層階の一室で
夫婦の営みと、交わされる不思議な会話。
シンプルで洗練された内装にインテリア、
何一つ無駄な物はないと思えるこの部屋が
この夫婦にとってこの上なく居心地の良い場所。
リビングの大きな鏡がそんな2人の生活をずっと、
静かに見守って来たのだろう。
あの日その鏡に妻の秘密が映り込むまでは…
妻が自分に何を言いたかったのか?
一生解けない謎と後悔を抱える事になった主人公が
もう1人の重要な登場人物(?)である
年代物の真っ赤なサーブを運転してどこかへ向かう。
そして、初めてタイトルが表れるのだけど、
そこまでで約40分。
いつまでも幸せが続くと思っていたのに、妻は秘密を残して突然この世を去った。
主人公の家福は舞台演出家兼俳優。
地方都市の演劇祭に招かれて公演までの数ヶ月を過ごす事になるのだが、その間、専属のドライバーがあてがわれる事となり、家福のサーブが初めて他人に運転される。
このクルマ、2シーターなので後部座席に乗り込むのがいちいちめんどくさい。
ここにも夫婦だけが使い、そしてずっと2人を見てきた車なんだという監督の意図を感じる。
劇中劇と、妻が語った物語と、現実
それらが複雑に絡み合って展開していくのだが、
家福が役者達に棒読みでセリフを読ませるのと同様
家福自身もあまり感情を表に出すことはない。
それはドライバーのみさきも同じ。
どこか同じ匂いをお互いが徐々に感じる様になる。
ネタバレを承知で言う
人は誰もが「キミは悪くない。キミのせいじゃない」
と、誰かに言って欲しいと願っている。
『あの時、こうしていれば…』何かが変わっていたかもしれない。
変わることを恐れて、自分だけが傷つけばいい。
その想いは正しかったのか?
長い旅の終着地を連想させる北海道の雪上で
家福は初めて涙を流す。
その傍らにはみさき。
大きな事件は何も起こらず、淡々と主人公の心の旅が続く。
劇中劇とリンクしながら、静かに静かに
観客の心の奥に染み込んでくる。
こんな作品がアカデミーにノミネートされたのが嬉しい。
ここのところハリウッドを席巻しているアジアンエンターテイメント。
『パラサイト』や『ミナリ』の韓国人監督作品に続いて
今年度は是非、日本人監督に作品賞を取って欲しい。
#ドライブマイカー
#西島秀俊
#濱口竜介監督
#三浦透子
#岡田将生
三浦透子さんに尽きる。
村上春樹さんの短編を179分に仕上げた、脚本は
いいと思うし、作品自体も国際的に評価されているけど、
イマイチ良さがわからなかった。最後まで飽きずに
観られたけど。
そんな中で良かったのは三浦透子さん。
この女優さんをキャスティングできたことが作品の
評価を上げるのに寄与したことは間違いないと思う。
ワーニャ伯父さんの内容を知っていたら
もっと作品自体も良くなったのかな?
好みが分かれる
村上春樹さんの作品がもともとあまり得意ではなかったのですが、村上春樹のファンの人に誘われて一緒に見に行きました。
最初の導入のシーン?がどうしても受け入れられず、その後も登場人物の独特な言葉遣いやキャラクター、ベットシーンが……。加えて、映画自体も難解で途中から眠くなってしまいました。途中の夜景のシーンが綺麗で良かったです。
一緒に行った村上春樹ファンは「とても面白かった」と言っていたので、好みが分かれる作品だと思います。村上春樹感が満載なのでファンの方やあの世界観が好きな方にとっては、とても面白いと思います。
一番恐ろしいのは、それを知らないでいること
映画「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督)から。
約3時間(179分)が、あっという間に過ぎた作品だった。
今回は、台詞を聴き漏らしたくなくて、邦画なのに、
珍しく(字幕)バリアフリー日本語を設定した。
村上春樹さんの作品は、登場人物の名前が読みにくい。
主人公は「家福」(カフク)さん、妻の名は「音」(オト)さん、
さらに「山賀」(ヤマガ)さん「渡利」(ワタリ)さんなど、
文字で確認しないと、漢字が浮かばない苗字や名前が多かった。
私の場合、苗字が頭にパッと浮かばないと、どうしても、
それが気になって入り込めなくなるから、字幕は正解だった。
さて、前置きはさておき、気になる一言は、
「真実というのは、それがどんなものでも、
それほど恐ろしくはないの。
一番恐ろしいのは、それを知らないでいること」を選んだ。
作品の中、あちこちに散りばめられている「一番恐ろしいこと」
何気ない生活から、世界を揺るがすような事件も、
本当は何も知らないのに、知った気になっていたり、
もっと深い何かを見過ごしていたりする恐ろしさかもしれない。
世界で注目されているこの作品、世界の人々に伝えたいことは?
そんな視点で見ると、唸ってしまうよなぁ。
ワーニャ伯父とソーニャ
原作の小説に丁寧に肉付けされたもうひとつの「ドライブ・マイ・カー」
家福とみさきのカタルシスが劇中劇ワーニャ伯父のラストに繋がる。
「どんなにつらい人生でも仕方がないわ、歩いていかなくちゃ…。あちらの世界でやっと一息ついて美しい人生を始めることができる…。」
異国の地で二人はワーニャとソーニャのように寄り添って暮らしていくのかな…そんなことを考えたラストシーンでした。
うーむ。
村上春樹の世界のセリフの難しさを感じたなあ。
もちろん映画用に直してると思うけど、冒頭のシーンをクリア出来る人と、拒絶する人がいると思う。私は村上ファンで、原作を読んでいるのであの世界観に慣れている。
村上作品はアンチも多い、その人達が最も嫌うであろう世界観が冒頭に凝縮されており、
私的には冒頭からタイトルまでの導入部をカットすればもっと締まった良い映画になったと
悔やまれる、妻が亡くなった後からスタートし、あくまでフラッシュバックで妻を登場させる。演劇のシーンも長過ぎると思ったが、監督が原作に足した部分を表現するのに必要だったのは理解できる。原作にはない部分の方が面白かった、村上春樹作品の映像化の難しさを
またも痛感することになった。
日本アカデミー賞
監督賞、脚色賞、脚本賞など、は「なるほどー」と思いました。が、主演男優賞はどうなんだろ‥
西島秀俊さんは可愛くて、好きな俳優だけど、主演男優賞はどうなんだろと思った。
「何様だ!どの口が言うか!」ってお叱りを受けそう‥😂
なんでこんなにエロいんだろう
音の朗読シーンが頭に焼き付いてる
白い肌と無機質な朗読のエロさ
平日の昼間にラブホテルにいるような気分
春樹的な世界観全開なのにそれだけじゃない
三時間は長いけどまたみたくなる作品
能動的な鑑賞が必要な映画
まぎれもない名作。
また、映画館で観るべき映画。
邦画だからテレビでいいかなー、とちょっと思ったが、映画館で観て良かった。
ただ、ある意味で難解で、観る人が映画に何を求めているかで全く評価が違ってしまう映画とも思った。観る人を選ぶ。
村上春樹はほとんど読んだことが無いが、この映画はすごく文学的であり、原作もこんな感じなのだろうな、と思った。
それにしても長い! 序章にあたるところが終わるところでオープニング・クレジットが表示されて、軽く混乱した。あまりに序章が長くて、「もしかしてこれエンディング・クレジット?」と思ってしまったからだ。
この映画は「演劇」をテーマにしているが、この映画そのものが演劇的なところが面白い。謎めいたストーリー、謎めいたセリフや行動、それらの意図は映画の中ではほとんど示されない。意図は鑑賞者が考えながら、感じながら、感覚をとぎすませながら観るしかない。そして一瞬でも気を抜いてしまうと、映画への関心を維持し続けることができなくなってしまう。映画鑑賞に対してきわめて能動的な態度が求められる。
音(おと)が夢うつつに語る物語、チェーホフの脚本が奇妙に現実のできごとや主人公の内面にリンクしている。まるでフロイトの夢診断のようだ。
演劇、文学というものの本質は、その物語の中に自己を投影し、何らかの答えを得ようとすることなのかもしれないな、と思った。
僕は昔から「聖書」という存在がどんな風に信仰者の支えになっているのかピンとこなかったのだが、この映画を観てそれが分かったような気がする。聖書の中で偶然目にとまった一句が、まるで神からの啓示のように感じることがあるはずだ。そういう形で信仰者は自己の内面を見つめることで神と対話するのだろう。
演劇者にとってたぶんチェーホフの戯曲は、まるで聖書のように、豊かな奥深い示唆を含む、特別なものなんだろう。
ただ、ぼくは残念ながらチェーホフの戯曲を読んだことがないので、この映画の登場人物たちにいまいち共感できなかった。主人公のやっている「多言語演劇」の何がすごいのかまったく分からないし、彼らの演じる「ワーニャ叔父さん」も面白いと思えなかった(少なくともお金だしてこの演劇を観たいとは思わない)。なんか徹底的に芸術を追及しててすごいな、って思うくらい。
この映画は「こだわり」を手放していく過程、傷ついた主人公の再生の物語とも読める。「車」は妻への思いそのものの象徴であり、主人公は車を他人に運転されること、車を粗雑に扱われることを異常に嫌がる。
しかし、避けていた妻への自分の本当の思いに向き合うことで、徐々に自分の気持ちを解きほぐしていく。ラストシーンでは、ついに主人公は車への執着から解放されたことが示唆される。
個人的に不満だったのは、高槻が車の中で長語りをするところあたりから、この映画のリアリティ・ポイントが変わってしまったように感じたところ。ここまでは映画の世界観はぎりぎりのリアリティを保っていたと思うのだが、このへんから妙に演劇的になってしまって、「こんなん現実でありえんやろ…」と思ってしまうシーンが多くなってしまった。一人の人物が会話もせずに演劇の脚本を読むように語るってのは現実にはそうそうない。
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追記
主人公の演劇論について、謎が多いので自分なりに自由に想像して考察してみた。もしかしたら全く的外れかもしれないが…。
まず、「感情をこめずに台本を読む練習」が出てきたが、これはいったい何なのか?
おそらく、役者が演じようとして演じることを矯正するためなのではないか?
映画に「うまく演じようとしなくていい」というセリフがあった気がしたが、まさにこれは演劇に限らず、あらゆる表現に共通する普遍的なアドバイスだと思う。僕自身、スピーチにしろ、プレゼンにしろ、文章にしろ、何らかの作品にしろ、「うまく〇〇しようとしなくていい」というアドバイスを何度諭されたか分からないほど批判されたし、僕自身も他人にこの言葉を何度も繰り返し言っている。
「『うまくやろうとする』ということが意識されている」、ということは、そこには演じようとする役者と演じられるキャラが分離しているということだ。観客はそこに、「うまく演じようとしている役者」をみるのであって、「キャラ」そのものをみているわけではない。
「演ずる意図をせずに演じること」の重要性はとてもよく分かる。僕は映画を観るとき、できるだけ役者の存在を意識したくない。無名の役者しか出てこない映画が理想だ。もし有名な役者が出ていると、どうしても「演じている」ということを意識してしまい、映画の世界に没入しにくいからだ。
役者が脚本を完璧に記憶し、自分自身を完全に捨て去って(忘我の境地となり)、脚本に対して何の意図ももたず、まさに操り人形のように演じたとき、そこにキャラそのものが立ち現れる…、これが主人公の演劇論なのではないか?
別の見方をすれば、これは役者が自分自身を空っぽにして、そこにキャラを「憑依」させているのだといえる。演劇の起源の1つとして、シャーマンが神や精霊を自身に憑依させる神楽のようなものがあると思うが、そういった考え方に近い。
主人公は妻の死後、「ワーニャ叔父さん」の役ができなくなったというが、これは、数々の悲劇にさいなまれ続けるキャラに主人公自身が過剰にシンクロし、演劇と現実の切り替えができなくなってしまうせいだと思う。
では、主人公のやっている「多言語演劇」というのは何なのか? 多言語演劇の面白いところは、役者どうしは相手の言っていることを理解していない、ということだ。少なくとも、理解する必要はない、と主人公は考えている。
それでも演劇が成立しているのは、脚本が完全に決まっているからだ。役者たちは決まったセリフを言うだけなので、相手の言葉を理解している必要はない。
ここからはほぼ完全に僕の妄想だが、多言語演劇というのは、現実世界の暗喩なのではないか。我々は他人とコミュニケーションしているつもりでいるが、実は全くコミュニケーションなどしていない。していると思い込んでいるだけ、相手の言葉を理解しているつもりになっているだけだ。
多言語演劇のある種のいびつさ、というか、不完全さ…、それを観客が観たときのいらだちや不便さの感情というのは、他人とは実は永久にコミュニケーションがとれないものなのだ、という絶望的な孤独感や、それでも不完全なまま世界が動いて進み続けているという、不安定感と同義のものなのではないか。
さて、最後の謎、主人公の多言語演劇と、音(おと)の夢うつつにおりてきた物語は、どういった意味で「同じ」だと言えるのか? それは、物語に「意図」が存在しない、ということなのではないかと思う。少なくとも「意図」を求めない、ということではないか。
音の物語はもちろん、音が考え出したものではない(おりてきたものだ)から、意図などは存在しない。しかし意味がない、ということではない。いや、意図がないからこそ、そこに無限の意味を見出せる、ともいえる。物語は観客に意図を押し付けない。しかし観客は自然にそこに自分の内面を見てしまう。音の物語の魅力はそこにあるのではないか。
そして主人公の多言語演劇もまた、注意深く意図を排除しているように思える。そこには頭から終わりまで一字一句チェーホフの戯曲が再現されるだけであり、いかなるアドリブもなく、ある意味で全く機械的な複製の作業をしているにすぎない。しかし意図が無いからこそ、やはり観客はそこに無限の意味を見出しうる、といえる。そしてその無限の意味を見出しうるほど豊かな内容をチェーホフの戯曲は内包しているのだ、と主人公は考えている。
ちょっと飛躍しすぎかもしれないが、考察終わり。
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