ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
全781件中、241~260件目を表示
昨日アカデミー賞受賞してましたね
私は、平たく言って村上春樹の作品のファンです。
彼の書く文章が好きで、その文章に漂う時間が好きです。
彼が生きていて作品を生み出すこの同じ時代に生きてる事が心から喜びである、と思えるくらいに。
これを原作 村上春樹って言われても。
彼の書いた作品の行間とモチーフだけ使ったやつ。
行間。書いてない部分を勝手に読者が想像していい部分ですよ。
モチーフ。話のネタ、別の女の話を全部一人の女のした事として脚本処理し、された夫は全部一人でそれを傷として背負って「傷つくべき時にきちんと傷つかなかった」って、そんな浅くてご都合主義の話に感動出来なかった。
彼の使わない言語をふんだんにセリフに入れて原作って言われても、私にはそれは原作とは思えない、ということになります。
まあでも。この原作の短編集は私には一番合わないものだったけれど。
これ、高評価しないと 映画わからんやつ。
って事ですよね。
私はそれです。
途中 何十回も寝ました。
(当然 何度も見直す事になったわけですが)
冒頭の場面も、劇中劇の場面も
なんかよく理解出来ない多国籍言語の作品も。
全然 いいと思えない。
これが村上春樹?
だから嫌いなのよ。
ってなる人絶対増えます。増えていいですけど。
村上春樹の物語のエンターテイメント性を全然わかってない。
わからなくていいです。
まあ わからない人には わかる必要ない。
そう思っている村上春樹ファンは多いと思います。
吉田羊さん主演の ハナレイベイ という映画があります。
村上春樹原作です。
あの空気感はまさに村上春樹作品だった。
彼の文章に漂うように見ていられた。
この作品は村上春樹って言うな と言うくらい空気感が違う。
訳分からん系や男とか女とか性交する男女が出て来るのが村上春樹だと思ってる人がいるなら、違いますと言いたい。
わかりにくい話が村上春樹だと思うなら大間違いです。
日本語話者でない彼ら審査員は この作品の何を見て
と言うか
自分達に全く理解の及ばない感情を一切表に
出さない人種たちの映画の評価を した
んじゃないかとしか思えない。
アカデミー賞取った作品だよ!
しかも取る前から映画好きには高評価の嵐!
それを酷評(ですね) してるから まあ私ってその程度です。
でもしょうがない。
そう思ったんだから。そう書きました。
[追記]
昨日、この映画のトレーラーを見ました。
すごく良かった。
トレーラー作った人って監督じゃないんだと思う。
余計な部分が全部なくて、素晴らしい出来だった。
「3時間は冗長じゃない」
「3時間は必要」
そういう人はこのトレーラーはどう思うのか聞いてみたいなと思った。
本編もこうだったら良かったのに。
前半の西島さんやけにかわいい。
前半の奥さんとのシーン、嫌いな雰囲気の映画だと思った。
文学的って良さがよく分からない。
中盤のドライバーさんとか、韓国人夫婦とのやりとりの部分はちゃんと見たけど、後半の演劇のくだりはまた何だかなぁって感じた。手話での静かなシーンは感動するところなのかもしれないけど、早く終われって思ってた。
面白さが理解できなかった。
映画素人の自分には理解できないだけかも知れないけど、率直に面白くなかった。
長い映画だけど、ずっと何も起きないからだらだらしてる。
音の話す物語とかワーニャ伯父さんの話が映画とつながってるんだろうなと思い、理解しようとしたがワーニャ伯父さんの話は全然頭に入ってこない。
解説を見て、細かすぎて伝わらない暗喩が何重にもあるのを知ったけど、暗喩詰め込むことが面白いってことなのか?
細かすぎて伝わらないモノマネは、伝わってるから面白いんであって、伝わらないんじゃ面白くないでしょ。
だらだらした映画だから「勉強してからまた見てみよう」とも思えない。
予習とか解説無しでも分かる内容の方が楽しめると思うが、それだと賞は取れないかー。
受賞前に遠くの映画館で観ました。
地元では上映してなかったので、ちょっと離れた映画館まで足を運んで観ました。
なんでもない日常を切り取ったような映画は好きだけど、この映画のどこがよくて大きな賞を受賞したのか誰か教えてください。
村上春樹さん原作の作品を西島秀俊さん主役で、となると見逃せない作品...
村上春樹さん原作の作品を西島秀俊さん主役で、となると見逃せない作品だと思っていたら、アカデミー賞にノミネートされて(外国長編映画賞受賞おめでとうございます!)、アカデミー賞発表の前に急いで鑑賞しました。
「THE村上春樹」といいたくなるようなストーリーで、チェーホフのお芝居のセリフが多言語で展開されて、日本なのに車は赤いサーブだったり、どこの国の話だか分からなくなっていく感じと、観光名所ではない日本の風景がドライブをしながら描かれていて、車にのってどこか遠くに行きたくなりました。
丈夫な車
原作は未読ですが映画のために構築された──となっていました。
『村上春樹の同名小説「ドライブ・マイ・カー」より主要な登場人物の名前と基本設定を踏襲しているが、同じく村上春樹の小説「シェエラザード」「木野」(いずれも短編集『女のいない男たち』所収)の内容や、アントン・チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の台詞を織り交ぜた新しい物語として構成されている。』
(ウィキペディア、ドライブ・マイ・カー (映画)より)
主役は喪失──という感じ。(なのかな。)
いろいろな喪失がでてきました。
家福(西島秀俊)と音(霧島れいか)は娘を失っています。家福は音を寝取られています。家福は音に先立たれています。家福は片眼をゆっくり失明しています。みさき(三浦透子)は父親を知らず母親を失っています。
家福はそれだけの逆運に遭いながらも感情を出さずたんたんと生きています。
みさきも感情を見せずストイックなドライバーに徹しています。
つねに理性的な家福の悔恨がこの映画の結論のうちのひとつだと思われます。それは高槻(岡田将生)との対比で語られます。高槻は激しやすいタイプです。家福からみると未熟な男です。いみじくもこんな台詞がありました。
家福「きみはじぶんをじょうずにコントロールできない」
高槻「はい」
家福「社会人として失格だ。でも役者としてはかならずしもそうじゃない(後略)」
みさきの故郷へ弔いに行き、大切な者を失った者同士で感慨にひたったとき、いままで抑えていた家福の感情が噴出します。高槻は罪人になりましたが、家福のように感情を隠していなかった──少なくともじぶんに正直だった──というロジックにおいてひとつの結論が見えたわけです。
家福とみさきは埋もれた家のまえで抱き合って生き延びる決意を固めます。
総括な結論は手話で表現されるワーニャ伯父さんの有名な幕切れの台詞が、そのまま家福とみさきの行く末に重なっていることだと思います。
『「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」』
(ウィキペディア、ワーニャ伯父さんより)
これは家福の決意でもあり、みさきの決意でもあると思います。ふたりはこれから死んだ者を背負って生きていく──のですが、おそらくそれは諦観にみちたワーニャ伯父さんの台詞本来の意味よりも、明るいものとして描かれている──と思います。
みさきが最後に走り去っていく道はどこまでも続いていて「再生」といっても言いような明るさがありました。
映画には幾つかの短篇や戯曲を切り貼りしたとは思えないまとまりがありました。村上春樹にくわしくありませんが、おそらく原作を忠実に映像化したばあいより、わかりやすい決着点へ行き着いたと思います。
また濱口監督は日本/日本人をきれいに撮ると思います。──米欧韓の映画を見てその合間に邦画を見たとき日本の景色や日本人に見劣りを感じることが(個人的には)よくあります。あまり美しくないとかかっこわるいとか趣(おもむき)がないとか、もっときれいに撮ればいいのに──とおもうことがよくあります。が、濱口監督は寝ても覚めてもでも感じましたがシーナリーも人もきれいに撮ります。遜色を感じません。本編では車もきれいに撮っていました。
棒演技と棒読みが着色や偏った印象になるのを避けている──と同時に多義で多元な捉え方があると思われ──観た者それぞれが違う印象をもつであろう自由度も感じました。が、前述のとおりワーニャ伯父さんと重なる明解な結論がありました。
本作の(rotten tomatoesの)海外批評家評は断トツですがアート系映画にしては海外一般観衆評も高めなのは、その明解な結論のおかげだと思います。
しかし、こじんてきにおそらくもっとも感心したことは(少なくない日本映画を見ているはずなのに)見たことのない種類の日本映画だったこと──でした。
少し難しい
少し難しい。おおよそのストーリーは分かったけど、うっかり岡田将生扮する高槻が「同じ女を愛した男としての語り」の一部を聴き逃す。何してんだか。
妻が演劇のストーリーを作るために愛する旦那さん以外の男たちとセックスしていて、その現場を見た主人公西島秀俊扮する家福は、彼女のための行為(セックスするとストーリーが降ってくる)なので、見て見ぬふりをする。
しかし、その事が嫌で仕方なく、帰りたくない病が出てきて、彼女のくも膜下出血の病気発見が遅れたから死なせたと思い込み、悲しみの沼に落ちる。
演劇で生きている家福は、演劇に没頭し、高槻という才能溢れる役者に遭遇し、彼も妻「音」を愛した男たちであった。
演劇を進めるにあたって、訳あり運転手に女性ドライバーと人生のやり直しを二人で模索する。
作り上げた戯曲でのストーリーも良かったのかな。
「苦しくても生きろ」というセリフが俺の心に刺さる。
このくらいかな。
週1ぐらいで映画館で観ている。当初国内ではあまり評価がされなかった?ような記憶があり、上映場所も先細りだったように思う。スケジュールが合わず、見られない予定だった。
その後海外で評価され上映館も増えみることができたのだが、期待度が高い分イマイチという印象。ふーん。というのが感想だ。ただ展開が読めないこともあり、3時間は楽しめた。
あらすじとテーマ
【要約】妻を失った役者が、専属運転手との交流を通じ、再び舞台に立つまでを描く。
【あらすじ】舞台演出家である主人公には、テレビ脚本家の妻がいました。
二人はかつて幼い娘を亡くしたものの、深く愛し合っていました。
しかし実は、妻は主人公がいないところで他の男と何人も寝ていました。
主人公はそのことを知っていながらも、夫婦関係が壊れることを恐れ、話題にしませんでした。
主人公と妻とのあいだに性交渉はあり、お互い満足できるものでした。
お互いの仕事にも関心を持ち合っており、毎日共同作業もしていました。
ある日の朝、主人公に向かって「今夜話がしたい」と妻が切り出します。
主人公は覚悟の上で了承したものの、仕事から帰宅した時、妻は急病によって倒れていました。
彼女はそのまま帰らぬ人となります。
主人公のライフワークは、チェーホフの小説『ワーニャ伯父さん』の舞台化でした。
彼は演出を手がけるだけではなく、自ら舞台に立ち、重要な役を演じていました。
しかし妻の死後、彼は舞台に立つことができなくなります。
その理由は「チェーホフのテキストは感情を引き出すから」。
感情に蓋をしてしまった彼は、舞台に立とうとすると自らの感情が飛び出てしまいそうになり、耐えられないのだといいます。
それ以来もっぱら、彼は演出のみを手がけていました。
しかしある日、舞台に出演予定だった俳優の一人が、不祥事によって出演をキャンセルすることになります。
そのため、主人公は「公演そのものを中止するか」「自らが再び舞台に立つか」の2択を迫られます。
舞台に立つには辛すぎるが、大切な公演を中止したくないーしかもここまで時間をかけて準備してきた
公演をー。
葛藤する主人公は、公演期間中の専属ドライバーに頼ります。
彼女は虐待されて育ちました。
無表情で感情の無いような、淡々とした女性でした。
その彼女に頼んだのは、「彼女の故郷に連れて行ってくれ」ということ。
彼女の故郷には、土砂災害で崩壊した彼女の実家がありました。
災害が発生したとき、彼女は屋内に取り残された母親を見捨てたのです。
「自分がもっと早く帰宅していれば、妻が倒れているところをもっと早く発見できていた」ー。
妻を見殺しにしたという罪悪感から、母親を見捨てた彼女に自らを重ね合わせます。
彼女は母親に虐待されていましたが、必ずしも母親を完全に憎んでいたわけでわありませんでした。
また彼女は、解離性同一障害のうたがいのあった母親の二面性を、決して「裏表」だとは捉えていませんでした。どちらも真実であると。
そう諭された主人公は、妻の「浮気」を、「嘘」「秘密」「隠し事」だと見る考え方の見直しを迫られます。
彼を愛する妻も、他の男との愛を求める妻も、本当の姿だと。
ここにきて「嘘」と「本当」の境界をなくした主人公は、自らの本当の気持ちに気づかされます。
本当は怒っていたのに、妻に責められなかったと。
自分は正しく傷つくべきだったと。平静を装っていたと。
傷つくべきだったのに傷ついていないフリをしたことが、自分の感情に蓋をすることだったのだと。
そう気づいた主人公は、まだ喪失の重みに深く傷つきながらも、舞台に立ち、再び重要な演技を行うのでした。
舞台のラストには、「つらくても生きていくのだ」と、希望に満ちたメッセージが込められています。
【解説】
劇中に登場するドライバーは、主人公の「ミラー」です。
ドライバーを客観的に眺め、彼女の境遇を自らと同一視し、自らに重ね合わせることで、主人公は自らを見つめなおすのです。
表面的には、感情のない「能面」のようなドライバーですが、過去に傷ついた記憶を抱えており、この「仮面」と「内面」の二面性が主人公との共通点でもあります。
【テーマ】仮面と真実
舞台こそ感情の表出の場である。舞台とは、「演技」をする場所だと思われがちだが、舞台こそ、真の感情を表出する場所である。
私生活上の経験が、真に「載る」場所だ。
それゆえ、「仮面」であると思われがちな舞台こそ、「真実」であると言える。
引いては、「嘘」であると思われがちな物語、虚構であるが、まさに「真実」であるとも言える。
それでは、この物語が引き出すあなたの「真実」ーまことの感情とはなんであろうか。
この物語は、どのような人生を送っている人に響く作品であるか?
誰のために、書かれ、撮影された映画であるか?
【鑑賞直後の感想】
虚構の物語に、現実生活が肉を持って載る時。
始まりはとっつきにくい映画(物語)でしたが、主人公がなぜ自分では主役を演じられないのか、どうして役を受けるのか、という疑問点をつかみにして、主人公の私生活事情を載せてやると、虚構と現実、あるいは「物語とは」みたいなテーマが浮かび上がってくると思います。
会話場面が多く、映像的な真新しさはありませんでしたが、クリアな映像、丁寧な音響がよかったと思います。(悪く言えば日本のドラマらしい感)むだな音楽がなく、静寂を大事にしていたのもよかったですね。配役は素晴らしかった。
舞台と私生活、ということで『バードマン』(イニャリトゥ)との比較で語りたい作品です。
『バードマン』の劇中に登場する『愛について語るとき我々の語ること』の日本語訳を手掛けたのが、村上春樹です。
かしこそうな作品
「木根さんの1人でキネマ」というマンガで「アカデミー賞ってどんな作品が取るの?」という質問に対して「かしこそうな作品よ」という答えがありまして、本作は正に「かしこそうな作品」でした。アカデミー賞にノミネートっという話題性につられて観に行ってしまったのですが、やっぱり無理でした。
そもそも個人的に村上春樹が苦手なんです。10代とか20歳前後とか若い頃はよく読んでいたのですが、大人になって読むと登場人物の大人としての責任感の無さに辟易してしまって。近年の作品もキャラクターが昔っから変わらないんですよね。ずっと責任感の無い大人しか書けない作家という印象です。で、そんな村上春樹の原作の映画が好きになれるはずもなく。
車の中での告白とか時におっと思う演出はあったのですが、総じて観てるのが辛い3時間でした。
「ワーニャおじさん」買いました
日比谷シャンテそばの居酒屋で,映画好きの友人が「ドライブ・マイ・カー」どうだった?と質問してきたので,「うーん...」と言葉を探していると,彼は私の答えを待たずに「すっごく良かったでしょー」と絶賛.
友人は若いころ演劇論の講義を受けたり,映像制作にかかわっていたこともあり,いろいろと琴線に触れるところが多かったようです.
「作劇にチェーホフの『ワーニャおじさん』を選んだところが,すごい!
ピアノでいえばバイエルみたいに,「ワーニャおじさん」は初歩テキスト的な位置にあり,それだけにいろいろと奥が深い脚本,storyであって………云々かんぬん」とのことでした。
確かに,思い返すと,わざと感情を入れずに脚本読みを繰り返したり,手話や日本語以外の言語での台詞だったり,なんだか奥深そうと思います.
なので,「ワーニャおじさん」を買ってきました.読んでみます.
いたるところで高評価なので,きっといい映画なんだと思う...
いやいや,『偶然と想像』を撮った濱口竜介監督の作品なんだから,すごい映画なんだと思う.
ハッピーアワーの後で
先週ハッピーアワーを観て濱口監督に興味が湧き、
こちらも鑑賞。
5時間17分は休憩があったので良かったが、
こちらは後半カックン😴
それでも、濱口ワールドは堪能できたので
評価は3.5としました。
映像作品としては楽しめますが、ピンとこなかったな〜
異文化交流とジェンダーと少し格差社会を取り上げており、ポリティカルには正しい作品なんでしょうが、正直いって、長くて説教くさい話。あ、あとハルキね。インテリリベラルな目線感がハルキっぽい。といっても、ノルウェーの森しか読んでいないので、違ってたらゴメン。
テーマになっている演劇もさっぱり門外漢。演劇もチェーホフですからね。まあ、チェーホフなんて吉田秋生「桜の園」しかしらんしな〜。あ、もう1本の「ゴドーを待ちながら」はアニメ「SHIROBAKO」でも出てきたから、オタクとして戯曲の有名ところは嗜まないといかん、ってことかね〜。
う〜ん、抽象的なテーマで言えば「現代社会のミスorディス・コミュニケーション」ってことですかね。社会性に乏しい生き方をしている自分にはピンときませんでした。
映像作品としては楽しめると思います。アカデミー作品賞ノミネート、おめでとうございます。最近の作品賞傾向的には可能性ゼロではないと思いますので、見ておいた方が良いでしょうね。
それでも、生きていく。
第45回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作。
第94回米アカデミー賞国際長編映画賞受賞作。
Paraviで鑑賞(レンタル・インターナショナル版)。
原作は未読です。
起伏に乏しく、淡々と物語が紡がれていくスタイルの映画を観るのは正直苦手なので、家で観る際は分割して観るのが常ですが、本作は何故か引き込まれて一気に観てしまいました。
とにかく続きが気になってしまったのです。
ミステリアスな雰囲気に目が離せなくなりました。
主人公が目を背けていた妻の秘密と彼女の実像、そして自分自身の心の深淵に向き合っていく姿を、豊かな人間描写と村上春樹原作らしいメタファー満載で描いていました。
繊細な演技と演出で観る者を物語の世界へいざない、多くを語らず、行間を読ませるような演出は非常に文学的であり、映画芸術の最たるものだなと思いました。
どれだけ愛し合っていても、相手の心の内を知ることは出来ない。それは家族でも恋人でも同じこと…
だからこそ自分自身と向き合い、悲しい過去や想いにどうにか折り合いをつけ、これからも生きなければならない。
心に深く刺さる作品でした。
[追記](2022/03/28)
国際長編映画賞受賞のニュースが!
おめでとうございます!
※修正(2023/06/01)
まぁでも普通
映画館で観れる人は映画館で観た方が良い
何故なら3時間と言う尺の長さはあなたに集中力を失わせ、家事や日常生活と言ったことに意識を向かわせるであろう。そしてそれらに追い回されることが如何に刺激的で、実りがあり、あなたの人生を豊かにするのかを気付かせてくれるからだ。
これを映画館で観たとなると、あなたには逃げ道は無くなりこの退屈なようで退屈な映画にたっぷり3時間付き合わなくてはならない。
だからこそこの作品を最期まで見たいのであればなるべく映画館で観るべき作品だ。
そんな作品だ。
本家アカデミーノミネートだ。
日本アカデミー8冠だ。
何時間だろうと付き合わなくてはならない。
もとい、映画代金位は何かを感じて帰らなくはと意気込み、最後まで寝息一つたてず鑑賞し切った自分を褒めて上げてもいいだろう。
この作品で語るべきことなんか無く、各々が好きなシーンを拾い集めて無理矢理こじつけがましく作品の主体を歪曲したり、または分かったようなことを語る暇があれば直ぐ様自分の現実の人生に戻り、大切な人を抱きしめて労い愛することの方がどれだけ意味があるのだろうかと、そう感じるざるを得ませんでした。
生き残った者は死んでいった者のことをずっと考えている。
それがずっと続く、生きていくしか無い。
いま、生きているうちに、愛もヘイトも伝えることである程度は生き残った者の溜飲は下がるものなのかなと思った。
中高年には
流石に起承転結ないと盛り上がらないので少し時間の制約もあり現実離れしたところもあるが
それは映画の世界
訴えたい、考えさせたいところが
それぞれの視点だからみなさん男女差で理解しがたいものもある
近しい人ほどコミニケーションを
や、人は複雑で長く付き合っているから理解しているわけではない
など考えさせられる事もあるが
作中にもあるように
知らなくてもまた、言わなくても良い場合もある
主人公は裏切られた感があり
ここで相対時するかは人それぞれ
妻は告白したがったようだが
しかしこの夫婦は言わなくてよかったと思う
男性の浮気でもここは別れるところだが
話し合えば極論は別離
改心しても許すかは相手次第
話し合いの前提は継続だから
一旦許してもあとから感情が爆発する可能性もある
夫婦の話しというより
ドライバーの子の話しからも
悔いたことは取り戻すことはできないが
糧にする事は出来る
明日へポジティブに生きよう
というメッセージが良い
しかしあのサーブはもらったのかな
オスカーおめでとうございます
久々の映画館、で血圧が高いのか、頭痛がしてきましたが、3時間と後で知って驚き、それだけ見られたということはいい映画だったんだと思います。それなりに絵も楽しめましたし。
ただ、なんで、カミさんの浮気を黙殺したことにそんなに苦しむのか?と、身も蓋もないことを感じてしまうのが私にとっての村上春樹で、テーマの核心がなんか作り物の感がある。それをなんだか周りで話を勝手に盛り上げている感じ。ドキュメンタリーでないにしろ、えぐるように迫るものが映画でも文学でも表現できると思うのですが。
と、普通なら言い切るところですが、「きっと私の感性が未熟なんでしょう」と言わざるを得ないのが村上春樹様々なところです。( ノ_ _)ノ
最も難解なのは最後の場面。なんで韓国(北朝鮮かもしれないけれど)に?ということで、みなさんのレビューを読ませていただいたり、原作を読みましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。汚れた心のせいか、賞とりのために韓国ロビーの協力を募っているのか?という勘ぐりが頭をもたげました。
いろんな国からその国の言葉、手話で演劇をしつつ「世界に通ずる普遍性を描く」ということでした。とてもおもしろいし、韓国の女優さん、きれいだな〜と楽しめたのですが、なんだか東アジアで日本が忖度を続けている姿が重なりました。東京の電車やバスで、日本語、英語のみならず、韓国語、中国語の表示が映し出され、日本語の表示を待ち続けているような。こんなこと書くと政治的にかたよった人と誤解されそうですが、「日本、日本」と叫ぶより日本を意識してしまいました。
それでいて、いわゆる「心の傷」にさいなまれているのは日本人だけで、そのへんが”普遍性”になっていない。ちょっとだけ韓国人通訳の話もあるけれど、村上春樹が作り上げた心のひだを紡ぐのは日本人だけ、みたいな結果になっている。それを考慮すると、「外国語映画」ではあるけれど、「国際映画」にはなっていないと、賞の名前が昔から変わったところと整合しないと思いました。
短編小説をよくここまで肉付けした、と他のレビューでありましたが、3時間まで肉付けするのはやり過ぎでしょう。(^_^;)原作となった短編集、「女のいない男たち」のなかの他の短編のエピソードを織り込んだようです。あらかた寝取られ関係の話(という身も蓋もないまとめ方は正しい解釈ではないのでしょうけれど)が主だったような短編集でしたが、なかでも、ヤツメウナギの話、いるかな〜?と思っていました。ヤツメウナギは実家の地方の名産で、子供の頃は貝焼きという、魚醬で煮込んだ、汁が少なめの鍋物でよく食卓に上がりました。その姿と、食感がとてもグロテスクで味をあまり楽しめませんでした。小説ならまあ、文字なのでありかもしれませんが、あの画像はちょっときれいすぎて、それでいて説明的すぎていてちょっと伝わらないので?と思いました。
なぜ前世がヤツメウナギ?獰猛で顎のないグロテスクな姿、寄生した魚の肉を少しずつ食べる、それが肉欲を表すとすれば、なぜ自分は寄生することなく川底の石にかじりついたまま消えていくのか?自身の肉欲への嫌悪?そんなに盛り込まなくてはいけないのかな?と思いました。
肉欲、男女の愛憎、カセットテープ、SAAB、オーディオ、バー、演劇、そして日本映画界お決まりのタバコ(原作でも登場するけれど)、そう、すべてが古い。
こんなにタバコが出てくる風景、今の日本にはない。昭和のゴリゴリ演出家ならまだしも、おかえりモネそのままの現代受けする西島さんがタバコ吸うのは大きく矛楯する。外車やマニアックなオーディオなど、バブルの残骸、村上春樹の趣味はもう現代では空疎で、その頃の残像を追いかけている人か、現代の日本を知らない人にしか受け入れられないでしょう。
演劇が原作にない、この映画オリジナルの脚色ですが、「自分が消耗するのでのその役を演じられない」というのも素人には難しい。それがなぜ克服できるようになったのか?北海道で三浦さんと心の痛みを分かち合ったから?( -_-)映画とはいえ、ちょっとご都合主義ではないのかな?
をしてもう一つのオリジナル脚本が北海道旅行。「2日でできるか?」、「タイヤはどうした?」と多数ツッコミがありましたが、私も見ていて同感でした。('-'*)フェリーでのテレビで岡田君の余罪がニュースになっていましたが、それ、いるかな〜?なんだか霧島さんの秘密の語り部のようなひとなのに、あれでは「ただのクズ」になってしまって、これまでの話の信憑性が吹っ飛んでしまうのでは?
あと、緑内障の話をしておくと、事故の原因となるくらいまで悪化している人は稀です。逆に言うと、事故を起こしたくらいの緑内障が初期であるというのは考えにくいです。これが緑内障患者へのおかしな差別にならないか、気がかりでした。
ちなみに、原作に見えない部分を「ブラインド・スポット(盲点)」と書いて、心理的な盲点を匂わせる伏線にしていましたが、ブラインド・スポット(blind spot)、盲点は健常者でも、だれでもある、視野で見えない部分です。緑内障で起きる視野の異常は「暗点(scotoma)」と言います。それくらい村上春樹は目の異常の知識がないまま、ただ小説の題材にしただけなので、疾病差別につながらないようにしていただきたいです。
唯一、印象的だったのは北海道への道中。三浦さんは母親を起こさないように運転の技術を磨いた人。その車中で西島さんが眠りから覚める。それがなにを意味するのか、ただ意味もない、ただのシーンなのかわかりませんが、なにか縛呪が解かれたような不思議な感覚を覚えました。
全781件中、241~260件目を表示