ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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かなり評判だったので
アカデミーまではこの映画の存在すら知らず
話題作は必ず観たいぐらいで観に行きましたが
よかったなぁ
なんだろ
西島秀俊さんの寡黙だけど心の中の揺れ動く感情。
感情を出さない演技が好きです
あと、岡田将生くんはなぜにあのような
ちょっとイラッとさせる欠陥の様な役が
とてもうまい。
悪人では感情移入しすぎて嫌いになってしまったが💦
今回は嫌いにならずに
好演だったなって観れた
見終わったあとは、
はぁこんな映画だったのね
ぐらいだったのだけれど
なんだろ
どんどん元気が湧いてくる映画
それでも生きていかなきゃならない。
つらくとも乗り越えなきゃならない。
元気になった。
平日の15時半〜18時半の上演でしたが
半分埋まってました
アカデミー賞受賞などの
影響と
作品の素晴らしさを感じました。
苦悩から目覚めた西島と三浦の人生!
この作品は、西島が妻に対して本気で向き合おうとせず、放置した過去を乗り越えて、ステップアップしていく生き様を淡々と描いています。同じくドライバーの三浦も、母親を放置した過去の贖罪を乗り越えるという、二人の生き方がクロスオーバーしているところが、物語の深みを作っていると感じました。アカデミー賞を受賞した決定的な根拠は、私の想像では、キリスト教的な贖罪を乗り越えて解放されることをテーマにしているがゆえに、欧米の高い評価を得たものと思います。仏教的には、全て縁ですから、願って生まれることはあっても、人間にはもともと罪などありません。最後にはチェーホフ特有の人生論が語られますが、苦しみがあればこそ、人生の景色は美しくなるというセリフは、まさに西島と三浦の人生を言い得ていて、心に深く刺さりました。村上作品は、ストーリー展開の巧みさより、鋭い感性の積み重ねで、読者を惹きつけ感動させるタイプですから、淡々とした人生の展開は、物足りないものもありますが、それでもどんでん返しがあって、私たちを至福のラストに運んでくれました。ただし純文学風の感性が至る所にあって、エンタメ映画を見慣れた人には、少々疲れるかもしれません。この作品の中で、広島から新潟の佐渡?にドライブするシーンがありますが、故郷の見慣れた風景に感銘しました。あと、オーディションで募集を行い、練習を重ね、劇場で演劇を開催するまでのプロセスを、しっかり学べるという意味でも貴重な作品です。さらにもう一つ、西島と妻、あるいは妻と岡田とのベッドシーンは、この監督らしさでしょうか、芸術的な妖艶さが溢れていて唸りました。
恋人と裸でベッドで見るのにとてもオススメです
私は村上春樹作品は一通り愛読しています。その上で備忘も兼ねてレビューです。
【ストーリー】
村上春樹のもはや定番である、「妻を失った中年男性」が主人公。若く美しい青年の登場が話を展開させ、メタファー(今回は劇中劇)により主人公が少しずつ妻の真実に触れていく、という、村上春樹ワールド全開な作品でした。
著しく低い貞操観念と、この春樹ワールドが苦手な人は絶対に合わないと思われます。
【演技】
リアル過ぎず、舞台演技でもなく、ドラマ的でもない、この作品の世界感のための演技と言えるほど素晴らしさでした。ある種の不自然な演技も、この作品の世界に完全に一致していて引き込まれました。手話も含めた多言語で展開されてるが、全く違和感がなかった。
【映像】
冒頭の印象的な大鏡の使い方や、大胆な表情のアップなど、脳裏に焼き付いたシーンがいくつもありました。一方で、瀬戸内、北海道が舞台なのに自然美へのこだわりがあまり感じられなかった。ドライブシーンでもっと色々な角度や、時間帯、気象条件があっても良いのではと感じました。
【総論】
スローテンポで3時間、主人公の感情の動きも少なく展開するので、正直映画館で集中して見る必要はないと思いました。
ベットの上で、男女が裸で朝に惰性で見るのにちょうど良いと思います。
そして二人でこの世界感に浸るのが理想です。
喪失と再生
喜怒哀楽のバランスが崩れた時に人は自分を見失う。
イケメンサイコパスのブルース
〝勘違い〟によってしか情緒が着地しない映画として
正直な感想を書きたいと思う。
映画である必然性が感じられなかった。
後で思い返した時、この画面の時、この台詞だったよね、という印象が、あまり強くない。
台詞と映像が解離している感じの印象を受けてしまう。
映像は映像で美しいと思う。
ただ、その映像が映画としての文脈になっていたのか、思い返すと違和感を感じる。
文体はあるのに文脈にはなっていない感じを思ってしまう。
台詞の語尾は意図して疑問形かそうでないのか、ふわふわさせていると思うのだが、それによって情緒的な映画では無くしたとしても、映像と台詞を印象として繋いで欲しかった。
ジャン・リュック・ゴダールが「車と女と拳銃があれば映画が出来る」と述べた言葉は有名だが、
個人的に日本映画は「車とSEXと三角関係があればつまらない邦画が出来る」と思っている。(自分はこれを「日本映画死のトライアングル」と呼ぶ)
そういう意味で、ドライブマイカーも、内容をざっとあらすじで聞けば、どこかの呑み屋でも聞くような物語に、自分としては感じる。
自分の知る限りだが、あの手話は、正確な手話であるのか、よく知らない。
どこかでオリジナルの手話だった、みたいなことも読み、もしそれが本当ならひどいな、と思わざる得ないと感じた。
「コーダあいのうた」以上に手話への演出依存度が高かったように思う。
それだけに、実際の聾の方へ伝わる手話をするべきだったと思った。
環境音の方がよっぽど饒舌だった。「ロボット」と劇中内でメタ的にも劇における演出への注釈のような形があり、意図的とは分かりつつも、音程を外すことの無い上手なカラオケを聴いてるみたいで、とりわけ心を動かされることは無かった。
もしこの映画を観て、感動や涙があったのなら、その観た方の心情が乗っかったのであり、この映画そのものの機能に泣いたのではないようにも感じる。
観た方の〝勘違い〟によってしか情緒が着地するところを、自分は見つけられない、そんな心持ちになる映画だった。
それが「映画的」、と言われてしまったらそれまでだが、個人的にはそんなに好きな映画じゃなかったな、という印象だ。
せめて二時間ぐらいにして欲しかった。
ラストシーンの解釈
これは村上作品というより、村上作品を下敷きにして膨らませた濱口監督作品だった。
とくに印象的なラストシーン、これは映画オリジナルのもの。みさきの生きてきた背景を想像するとじーんとする。
——でも、仕方がないわ、生きていかなければ!
ね、生きていきましょうよ。
長い、果てしないその日その日を、
いつ明けるともしれない夜また夜を、
じっと生き通していきましょうね。
運命が私達に下す試みを、辛抱強く、
じっとこらえていきましょうね。
今のうちも、やがて年をとってからも、
片時も休まずに、人のために働きましょうね。
そして、やがてその時が来たら
素直に死んでいきましょうね。
あの世へ行ったら、どんなに私達が
苦しかったか、どんなに涙を流したか、
どんなにつらい一生を送ってきたか、
それを残らず申し上げましょうね。
すると神様は、まあ気の毒に、と
思って下さる。
そのときこそ、あなたにも私にも、
明るい、素晴らしい、なんとも言えない
生活が開けて、まあ嬉しい!と
思わず声を上げるのよ。
そして、現在の不仕合せな暮らしを
懐かしく、微笑ましく振り返って
私達、ほっと息をつけるんだわ
わたし、ほんとにそう思うの。
ほっと息がつけるんだわ!——
(ワーニャ伯父さんより)
気に入った車で、いままで飼えなかった大好きな犬と一緒に、生活したことがなかった国で、、そしてマスクをしなくてはいけない今を生きる。あれはみさきの理想郷なんだろうな。家福が指揮する舞台のワーニャ伯父さんのラストシーンでソーニャがいう、あの世で受け取る素晴らしい世界の希望にかけてるんだろう。
みさきのぶっきらぼうで中に秘める温かな役柄と、このラストシーンはとくに良かった。
ただ…村上原作作品にありがちな性描写のシーンが長いのが好みでなく、原作ファンとしては原作との違いがどうしても気になってしまった。
まったく違うものとして観れば、もっと単純に楽しめたんだろう。
きちんと傷付くということ
序盤で妻の不倫を目撃、そして妻が脳梗塞で急死
という事件があるのだが、そのあとの2時間以上は広島での芸術祭でのチェーホフの戯曲を演出するためのオーディションや稽古風景がドキュメントのようにつづいていく
繰り返される棒読みのセリフ
無表情な人々 流れる景色
外国語や手話が混ざり合い進む稽古
パラドックスに迷い込んだかのような感覚
自分の知らない妻を知っている男
他人を理解することなんてできない
大切なのは自分を深く知ることだ
その為に傷や悲しみから目をそらさず
きちんと傷付くこと
真っ白な雪の中に停まる赤いSAAB
静寂
空想話を口にしては男性とセックスし
次の日忘れてしまう女
10歳のサチという別人格でしか娘と遊べない女
狂っているのか演技なのか
でもその女を信じるしかなかった2人の人間
傷を癒すには傷をしっかりと受け入れるしかない
ラストの家福のステージシーンで手話の少女の台詞
そして韓国で顔の傷がなくなり
どこか晴れ晴れとした表情で車にのる
ドライバーに
残された者たちが生きることに少しの光を見出した事を示唆する美しいエンディングでした。
マイケルベイ監督だったら
チェーホフが埋める喪失感
長く感じない
田舎では公開してなかったのに、オスカー効果でリバイバル公開。原作は未読。
三時間長いなと思って見始めたが、引き込まれて長く感じなかった。ゆっくり話が進んでいくが、そのまったり感がこの映画に合ってるかも?ストーリーはチェーホフの戯曲「アーニャおじさん」がキーとなり進んでいるが、やたら重い過去やしがらみを背負った人が苦しみながら生きる様が戯曲と重なる。もちろん、演者たちの熱演が見事でストーリーに説得力を持たせている。ラストの劇中のセリフがこの映画のテーマなのかな。苦しみながらでも人は生きていく。
岡田将生さんも良かったけど、不器用な感じの三浦透子さんも良かったよ。何気に妻の話したシナリオが気になって残っております。
映像や雰囲気は良かったです。
文学的な作品
配役、演技はとてもいい
演出もいい
内容は(当たり前だが)村上春樹作品だなという感じ
妻を愛しているが故に、深く向き合えず、結果として自分自身とも向き合えず後悔を抱えたままの家福。
そんな彼が共通する過去を持つドライバーのワタリ、感情をありのまま出してしまう高槻との接点を通じて自分と向き合い、泣きながら、苦しみながら生きていくことを決意する作品。
感情の描写が丁寧で違和感なく楽しめた。
清く正しい人間関係で人生がつまらない人たちへ送る映画
チェーホフの舞台劇の感情を排した棒読み演技の指導が象徴するように、感情的な対立を避けていった人が陥った喜怒哀楽不在の人生喪失劇。でもチェーホフの劇は本当はものすごい感情的な家族劇。棒読み演技指導との面白いコントラスト。
現代日本人のエチケットと思われている感情押し殺しの人間関係の在り方に対するアンチテーゼのような映画。
感情を表に出さず、たとえ不快なことがあっても素直に相手に気持ちを伝えず、自分の中にしまっておこうとする人間関係の在り方は人生を不毛にしますよっていうメッセージが伝わってきた。
妻の浮気にムカついたら怒る!1人目を亡くしても自分が2人目が欲しければ作る!母親の虐待にムカついたらキレる!反抗する!それが舞台俳優の西島さんと運転手の三浦さんの2人には必要だった。チェーホフの劇はまさに感情吐き出しの家族争い劇。それを舞台役者としてしかできなかった、そして遂には演じられなくなった皮肉な西島さん。それに付き添って観客としてみてる三浦さん。
最後に、三浦さんは感情的表現やコミュニケーションが物凄く得意な国、韓国へ移住。
一方、唯一感情的に行動する能力のある岡田将生は、未成年とのセックススキャンダルと、ウィル・スミスみたいな暴力で犯罪者に。やっぱ奔放すぎてもダメ!
感情に素直になれよと訴えかける『ドライブ・マイ・カー』が賞を獲り、感情的になってビンタしたウィルも賞を獲ったが危ういことに。なんとも皮肉。岡田将生とウィル・スミスがかぶってしかたない。
じゃあ、どうすりゃいいの?
別に答えはないよ!という放り投げの映画でもある。生きたいように生きよう。でもその責任は自分で取りなさいとしかいってない、突き放しの冷たさが、残りました。
そんなに奥さんの形見の赤いサーブのクルマを、死んだ奥さんを愛してるなら、クローネンバーグの『クラッシュ』みたいに、愛するクルマ内で、カー〇〇〇〇を、生前に奥さんとすればもっと分かり合えたかも。こんな変態なことは、現代日本の清く正しい人間関係エチケットとしては、頭にセーブをかけてしまうだろう。だけど、人間とは変態であり、バカなのであるから、それは普通だとか変態だとかの話ではもはやない。それは人間にとって必要なことなんだから。
岡田将生はその一線を超えることができただろうし、岡田が西島の妻と浮気していたに違いないのである。岡田がチェーホフの劇で主役であったように彼は必要なキャラクター。そして、サーブは、セーブとかけたんだろう。そう思いました。
映画としては…
受賞したから手放しで誉めるというつもりはない。
映画にはエンタメ性と芸術性が同居するから、万人受けするものが映画として優れれているとは限らないからだ。
本作を観た感想は、やはりエンタメではなく賞を獲りにいこうとしているように感じた。
約3時間という上映時間もそうだし、海外でも有名な村上春樹氏の原作を用いている事もそうだ。劇中に多様性を持ち込んでいる事もその一つに思える。
総じて言うと途中までは素晴らしいと思った、妻である音の裏の顔を知りつつも目を背け、愛する妻を手放したくない家福のバックグラウンドを丁寧に描き、妻の死で一幕目が終わる。
そこから二年後、キャストやスタッフのクレジットと共に物語が始まる。つまり、妻の死までは長いプロローグでそこからこの映画の物語は始まるという事なのだろう。
この映画のテーマである【喪失と再生】を描く為に、丁寧に心情を積み重ねていく作り方は理解できるし、劇中の演劇のセリフを用いて再生していく為に必要な言葉は、表現として理解できる。
ただやはり長すぎると思った。3時間近くある名画はいくつもあるが、この作品に関しては長いと思った。既にお腹がいっぱいで終わるかなと思った所から3回程始まる感じがして、最後は疲れてしまった。
賞を獲りにいく映画を作って、カンヌやアカデミーで受賞したのだから、作り手としては狙い通りなのかもしれないが、エンタメ性をもう少し考慮するのであれば、あと最低でも30分、出来れば40分ほど切って2時間20分くらいの上映時間であれば名作になったのではないかと、個人的に思う。
ラストは二人それぞれの再生を見せる必要があるのは分かるので、家福は戯曲をかすみは左頬の傷を消し犬を飼っていた韓国人夫婦と近しい生活をしているのか…。
重厚なヒューマンドラマ
伝統は生きています 確かに継承されていると感じました このような映画が今後も途切れることなく、撮られていくことを切に望みます
素晴らしい傑作です
アカデミー国際映画賞を始め数々の国際的な映画賞を総ナメにするのは当然と思います
3時間は少しも長いとは感じませんでした
劇中劇のチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の台詞が本編と妙なシンクロを始め出します
アジア各国からオーディションで選ばれた俳優達がそれぞれの役を別々の自国語で演じながら、「ワーニャ伯父さん」を上演することの意味
果ては手話だけの女優まで登場させるその意味
俳優達は数か国語がとびかう舞台の上で、台詞ではなく、相手役の感情や動作だけをみて反応してゆかねばならないのです
つまり言葉には意味がないと言うことを表現しているのだと思います
夜の車中での家福と高槻の長い会話の圧巻さ!
そのとき家福の知らない物語の続きを語るシーンは長く記憶に残るものでした
なんという表情と声の演技!
それを撮るカメラのレンズ!照明の凄さ!色彩!
妙に寒々しい色温度での撮影は、家福の心象風景を表現すると同時に、このシーンの破壊力を増す為でもあったのです
そして終盤の北海道の寒村のシーン
心の奥底に押し込めて見ない、知らないことにしていたことの恐ろしさにようやくたどり着いたのです
「真実はそれがどんなものでもそれほど恐ろしくない。いちばん恐ろしいのは、それを知らないでいること」
そこに考え至る過程の二人の苦しい灰色の年月のあまりの長さを、広島から、北海道への長距離ドライブのシーンで表現してみせるスマートさ!
冷たい無彩色の雪原の中で、二人はついに真実を知るのです
ラストシーン
家福の車をみさきが独りで運転して韓国のスーパーに買い物に出ています
犬も連れています
その表情はそれまでの固い無表情なものでなく、柔和なものになっています
外は温かい陽光が降り注いで、道はどこまでもまっすぐなのです
他の車すらいないのです
二人に何が起こったかの暗示です
後味も素晴らしい終わり方でした
日本映画らしくない、日本映画界の異端の映画だといわれているそうです
昨今の日本映画の現状からすればそうなのかも知れません
でも自分には1950年代、1960年代の日本映画の黄金期
アカデミー外国映画賞を受賞したり、ノミネート作品が幾つもでた頃の日本映画の味わいがあると思うのです
伝統は生きています
確かに継承されていると感じました
このような映画が今後も途切れることなく、撮られていくことを切に望みます
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