ノマドランドのレビュー・感想・評価
全421件中、221~240件目を表示
異文化理解な映画。
4月5日@TOHOシネマズ梅田
レイトショーで鑑賞。
車中泊で生活をしていく女性のロードムービー。
私の知らないアメリカの姿を観ることができた映画でした。
アメリカの地方の厳しい自然や職業事情に触れることができてよかったです。
日本ではないことですが、アメリカでは会社が倒産すると街ひとつがなくなることも珍しくないようで、冒頭からカルチャーショックでした。
この映画を観て印象に残っているのは、ファーンが元教え子に「先生はまだホームレスをしているの?」と聞かれ、「ホームレスじゃない、ハウスレスだ」と答えるシーン。
日本ではノマドという存在自体メジャーではないので、違いがわかっていませんでした。
インターネットで調べてみたところ、ハウスレスは家はないが人とのつながりは残っている状態で、ホームレスは人とのつながりすらなくなっている状態を指すよう。
映画でも、ノマドは車ひとつで生活しているが、彼らの家族やノマド同士は繋がり合っている。
その精神的つながりが彼らを生きる方向へ導いているように見えました。
ノマド同士の交流を描いているシーンは心地よく感じましたが、高齢者がメインのノマドが亡くなっていくシーンで急に現実に引き戻されました。
「また会おう」というセリフが響きます。
ところで、ファーンという人物が最後まで読みきれませんでした。
高齢で、夫は先に亡くなり、お金もない、ノマド。
一見すると悲惨ですが、本人はノマドという生き方を、せざるを得ない状況とはいえ、気に入っているようで、姉妹やノマド卒業仲間から一緒に暮らそうと誘われても、退屈してしまって、結局ノマドに戻ってしまう。
最後には亡き夫の荷物を処分する様子もあり、少し理解が難しい心情描写でした。
異文化理解という観点で、面白い映画でした。
F・マクドーマンドの人生が結実したような一作。
『ファーゴ』(1996)や『スリー・ビルボード』(2017)の主演など、順調にキャリアを積んできたフランシス・マクドーマンドの集大成的な作品です。特に『スリー・ビルボード』のミルドレッドと本作の主人公、ファーンの人物像には(単にマクドーマンドが演じているというレベルには留まらない)明らかな連続性があります。
ファーンを通して見るアメリカの風景は確かに荒涼としてはいても美しいのですが、より印象的なのはマクドーマンドの淡々として、何気ない演技。キャンピングカーで調理をし、少し遠方を眺めるように視線を向ける。たったそれだけの動作なのに心を掴んで離しません。『スリー・ビルボード』で何もかも失い、すさんだミルドレッドの心象風景が、このキャンピングカーを取り囲む環境だとしたら、その中で自分なりの生活を確立しているファーンは、救済を得たミルドレッドではないか、と思えてきます。
彼女の演技がこれほどまでに印象的なのは、彼女が本作に並々ならぬ情熱を傾けていることが大きく影響しているでしょう。本作の監督であるクロエ・ジャオの起用も自ら行い、製作にも携わるほどです。
本年度のアカデミー賞作品賞候補は、『Mank/マンク』や『ミナリ』、『シカゴ7裁判』など良作が揃っていますが、本作も是非健闘して欲しいです!
旅に出るという終活
寂しくないのかな。。。
自由なようで決して自由ではない。
またね
女性ジャーナリスト、ジェシカ・ブルーダーが実際にノマドとして生活している人々を取材し書かれたノンフィクションである『ノマド 漂流する高齢労働者たち』が原作のほぼドキュメンタリーのようなロードムービー。
ネバダ州エンパイアで暮らしていたファーン(フランシス・マクドーマンド)だが、リーマンショックによる不況のあおりにより、石膏採掘で栄えたエンパイアの町がまるごと閉鎖されてしまい、仕事も家も同時に失ってしまう。今は亡き夫との思い出と家財道具をキャンピングカーに積み込み、ファーンはノマド(放浪者)としての生き方を選択する。
『イージーライダー』を始めとするアメリカン・ニューシネマの世代がシニアとなり、まだ放浪しなきゃならんのか。過酷すぎますが、ある意味、自由を求めて放浪する精神は通じるものがあるのかもしれません。
渋すぎるフランシス・マクドーマンドと、デヴィッド・ストラザーン以外の出演者は実際にノマドとして暮らす人々である為、言葉のひとつひとつがずっしりきました。
思い出は生き続ける(生々流転)
ラスト手前で、ようやく安堵出来た。
「思い出は生き続ける」「私は少し引きずり過ぎたみたい」
この2つの台詞にまで辿り着かないならば、私にとってこの映画は星3に留まるところだった。
数年間の流浪を経て、その域が見えるようになった彼女の漂泊は、これまでとは違う意味をもつものとなるであろう。
高齢者を放り出すような資本主義・末期症状への意見表明は、この映画のメインテーマではない。(でも、もしかしたら原作者はこのテーマ重視かもしれないな)
登場するノマド生活者の大半は「尊厳の為に生き方を選び、かえって自分自身を傷つけている」と感じた。
自分の意思で選んでいるはずなのに悲壮感が漂っているのだ。
おそらく彼らにとっての「恥ずかしくない家・暮らし」のイメージがあるとして、それを実現出来ないから、それくらいならば誇りを守る為にノマドを選ぶ。そのような印象を受けた。
(ただし、ボブとスワンキーは違う!この2人は非常に達観している。)
大多数のノマドは、帰れるものならば家(ホーム)に帰りたいのだ。経済的理由、または、家族とのわだかまりなど何らかの理由があり、仕方なく車をホームにしているのだ。
「困窮し、仕事の為に放浪せざるを得ない」のと、
日本の兎小屋みたいな狭い賃貸で
「保証のない短期バイトで口を糊する」のと、一体どれだけの違いがあるというのだ。
日本の独居老人の心に過(よぎ)る様々な想いも、彼らと大差ないだろうと思う。
だから「車上生活」「定住しない事」もメインテーマから除外する。
私自身は、明日からノマド生活を送れ、と言われたらすぐにも出来る自信がある。(出来るだけ最小限の装備で1〜2週間野営するのは好きだ。仕事が許せばいくらでも続けられるだろう。高規格は大嫌いだ。)
あんな大きなバンなど要らない。
2シーターでも構わないくらいだが、アメリカを想定するならば、1回の給油で500km以上は走れる車が欲しい。
シートが出来るだけフラットに近くなるならそれでいい。ダイアルはいちいち手間だからレバーが望ましい。
スペアタイヤ、ジャッキ、ブースターケーブル、牽引ロープは必需だ。
大体、自分でタイヤ交換やバッテリー交換、オイル交換程度出来ない人間は車自体を運転するな!と、割と本気で思っている。
ボロってのは汚れや凹みの話じゃない。塗装剥げを放っておいたら、そこからどんどん錆びて金属腐食するじゃないか。
食費など月に1万円あれば味、栄養、素材、共に充分まともな料理ができる。
学生時代は仕送り無し、塾講師で稼ぎながら月8万円で暮らしていた。家賃4万、食費1万、その他雑費すべてで3万だ。TVや電話は置かなかった。
同世代がバブルの恩恵で、六本木で踊りまくっていた頃だ。今みたいに100均などないから物価はかえって高かった。
だから550ドルの年金では暮らせないと言われても、あと500ドルも稼げればなんとかなると思ってしまう。
作品に登場するノマドの暮らしが過酷だとは微塵も思えないのだ。
電気は最低限でいい。
排泄?街中の日中なら、大型店などでどうとでもなる。何もない荒野なら、キジ撃ち、お花摘み、これまたどうとでもなるだろうよ。(ただし、適切な知識があれば。その地点における自然分解までの日数予測が出来るくらいであれば問題ないだろう。)
父から貰った皿、思い出の写真。
「思い出の品」は記憶を辿る鍵にはなるが、それをよすがにしていると過去に捉われる。
ヒロインよりも更に厳しい出来事によって「形に残るものすべてを失った」人がどれだけいる事か。
まぁ、これは実際に失ってみなければ、吹っ切れない事かもしれないが。
だから、皿が割れたシーンは本作の大切な要素だ。
多くのノマド生活者が「高齢者」である点は作品の肝だ。
ファーンも膝の痛みを抱えていた。
若い頃とは違う。気をつけていても身体のあちらこちらに故障が出てくる。いざという時に経済的理由で医療を受けられないのは流石に看過出来ない社会システムの大問題だ。
しかし、最も重要なメッセージは
「思い出は生き続ける」ではないだろうか。
喪失の悲しみは深い。
けれど高齢者であれば、誰しもが大きな喪失を経験しているものだ。
生々流転。
すべては移り変わっていく。
サウスダコタの累層に眠る化石たち。
はたまた、数万年前の姿を見せる星々。
この世に留まるものは一つも無い。
悠久に見える地球や宇宙も、星々の時間スケールで「生まれ、育ち、老いて、消えていく」
そして消えた星の残滓から、また新たな星が生まれていく・・・。
その大いなる変化に目を向けたなら。
世界の黄金律を感じ取ったならば。
失った大切な人を嘆く必要はないのだ。
すべては移ろいゆくのだから。
定住と流浪を比較する必要もないのだ。
土地はいったい誰のものだ?
人間が決めたに過ぎない法律で家と土地を所有したところで、拠り所の国そのものが揺らげば、頼りない小舟に乗っているのと大差ない。
その境地に達した時、ようやく旅は漂流ではなく漂泊となるのではないだろうか。
勝手な個人的解釈だが
「漂流・流浪」はいつか落ち着ける先を探しながら、それが見つからずさまようイメージ。
「漂泊」は、この大地すべてが家であり、この大空すべてが天井であり、自分が眠るすべての場所が寝床であると考えるようなイメージだと思っている。
ラスト手前のボブとファーンのやり取りこそが、ジャオ監督の描きたい本当のテーマだと感じた。ラスト20分。それまでのモヤモヤした気分を打ち砕く、素晴らしいホームランを放ってくれた。
夫と暮らした思い出の家と街を失い、漂流するファーンをカメラは追い続けた。新たな出会い、気付き、葛藤を積み重ねる中、ファーンの精神は「大自然の摂理」に晒されて、次第に純度を増していく。余計なものが流れ去り、漂泊(漂白)の境地を垣間見た時から、新たなファーンの旅が始まった。悲壮感や惨めさとはおそらくもう彼女は無縁だ。ノマドとして、笑顔で生き続ける事だろう。
ラストシーンで走り続けるファーンの胸に去来する想いは、きっとそれまでとは違うと、そう信じる。
とても綺麗な映画
アメリカを探しに
はい。よく覗きに来て頂きました。枕は無駄に長くて映画の感想は薄い、そんな私の馬鹿レビューでございます。
さて都内の桜は散ってしまいました。悲しいです。
この悲しみをどうすりゃいいの?弘前の人はいいなあ。まだ桜は咲いてませんし、桜は散ってもあの花筏(はないかだ)は絶品ですからね。
と・・・知ったような事を言ってますが雑誌で見かけただけです。すいません。
つい先日の事です。近所の川のほとりの桜が満開の桜時です。向こうから一人の女性が歩いて来ました。腰になんか下げてます。
なんだろう?気になりますね。
ちなみにその女性はインドの方です。とにかく江戸川区はリトル インディアと言われる位インドの方が多いのです。
その機械はスピーカーでした。英語のあとに日本語が流れていました。そうです!桜並木を歩きながら日本語の勉強をしていたんですよ!素晴らしいですね。オージャパネスク!私もねあなたの国に行きますよ。カレーの国へ。
友達は少ないんで 猿 豚 河童を連れて行きますよ。
お前は三蔵法師か‼️
さて相変わらずの枕と言うか与太話が終わりました。が・・・この映画について何を語ろう。ネタバレも何もほぼドキュメンタリーじゃないの?
まず愚痴を許して下さい。
なんでパンフレットを作ってないんだよ?
えーーディズニーさんよ!なるほどコロナ禍の影響かよ。はい。わかりますよ。一作に1億ドル以上掛けて作って、ペイするのは大変。NYとLAでは映画上映はなし。大作はプレミア配信のみ。色々ペイする為に必死。
なんかねー、この世の春を謳歌してそして絶滅していった恐竜だね。まるで。
立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半。
この映画はディズニーじゃなくてブエナビスタだけどさ。まっ同じだしね。ちなみにブエナビスタはスペイン語で素晴らしい風景です。意味深。
閑話休題、ファーン(フランシス・マクドーマンド)は配偶者を亡くし生活の拠点の街は企業城下町が倒産してノマド(放浪者)になります。
ノマドは車上生活者です。なんか憧れるよね。・・・と思っていましたが・・・
違います。アメリカですよアメリカ。甘くは有りません。極寒の地でも月の駐車料金が375ドル。土地代はただ同然じゃねえのかよ!
まず、企業城下町のあやうさを感じました。日本だと愛知県の豊田市。出身の知人に聞いた話だがほぼ全員TOYOTAの関係者らしい。
大丈夫か?親亀こけたら子亀もこけるんだぞ。いやいや世界のTOYOTAなんだからね。確かに。
多分、私が10代の頃にこの映画を観ていたら響かなかったかもしれない。今は響く。色々思った。連想した。
まずビートルズのNowhere Man 邦題は ひとりぼっちのあいつ。
なんの見通しもなくて
どこに行くのかわからない
君も僕も どこか あいつに似てないかい?
もうひとつはサイモンとガーファンクルのアメリカ
ねえ キャシー 僕はまよっちゃったよ
彼女が眠ってるのが わかってて
僕はつぶやく
心に穴が開いていて 痛いんだ
どうしたら、いいんだろう?
ニュージャージーの高速道路で
走る車を数えていたんだ
みんながアメリカを探しにやって来たんだ。
みんながアメリカを探しにやって来たんだ。
多分この映画でフランシス・マクドーマンドは3度目のオスカーを取るのでしょう。
ほぼすっぴん。ノマドの厳しさを表現しています。
食べる事、出す事(排泄) 生きる事、生々しく描かれます。
生まれた時は裸、死ぬ時も裸。
そんな事を感じました。
長文でごめんなさい。
読んで頂きありがとうございました。
「邂逅」という言葉を表すとしたら
きっとこうなるであろう、と思った。
日本では「ノマドワーク」くらいでしか聞いたことのなかった"NOMAD"という語。
根無草のように転々と生活していく生き方を、望んで選んだ者もいれば、そうせざるを得なかった者も居る。
劇中に何度か出てくる「石」がポイントだったのかもしれない。
地面を転がりつつもその地に佇むその様は、転々とするノマドランドの人間たちでもあり、かつて石灰の採掘の街で夫やその記憶と共に留まっていたファーンでもあるように思う。
国立公園では砂の粒が幾重にも重なって見事な岩肌の景色を作っていた。(岩に乗っかった2人の視線が一瞬交錯し、片方は慕う気持ちを滲ませたのも、もう片方はさっと前を向いて降りていくのも、凄く良かった)
積もれば長く残るものと化すこともある。そういえば、昔生きていた恐竜の等身大の像の前で写真を撮るシーンもあった。
例え移ろいながら生きていても心の中に拠り所となる家を持つことはできること、亡くした者も記憶の中に生き続けることの象徴みたいに思える。
ラストで火に石を投げて弔いとするその炎が立ち上がる先を、空に向かって辿っていく画の美しさと、ハッとさせられたような感覚が印象的だった。
このように石と言えども、様々なイメージを重ねることができる。
腰を据えることも、転がりゆくことも、どちらも美しく肯定するかのように。
カメラも地にしっかり据えるように空と地を捉えた引きの画が多かったようにも思った。
ファーンの他人との距離感の取り方も好きだった。ノマドランドの人々は皆そうなのかもしれないけれど、交流を持ちつつも、関わりすぎない。出会っては過ぎ去ってゆくのをただ受け入れる。さよならは言わずに、またどこかでの邂逅を願って別れの挨拶とする。
旅をしながら生きる目的や入口は様々でも、最終的に皆、どこかに定住するにしても旅を続けるにしても、自らの意思を持って人生を決め、進み、生きては死んでゆく。その様が本当にどこか潔かった。
淡々とした表現の中に、圧倒的にこれぞ人生なのだと滲み出る実感で包まれる感覚だった。
実際に旅をしながら生活している人々は高齢者が多いとのことだが、人生の酸いも甘いも知り、後悔も絶望も抱えながら長らく生きている人ほど、響く作品のように思う。
前作『ザ・ライダー』に続く秀作、この監督は期待大。
ファーン(ノマド)の暮らし方は季節労働で車で移動しながらというものだけれど、それは人々の人生そのものなのかもしれない。決して多くないセリフがしみじみと心に響き、俳優たちの無言の演技と目線が胸に迫る。
撮影は監督の前作『ザ・ライダー』と同じくジョシュア・ジェームズ・リチャーズ。荒野を引きで捉え明け方や焚火の光などを美しく生かす。『ゴッズ・オウン・カントリー』でもその力量はかなりのものだったが、見捨てられたような土地にそれでもなんとか生き抜く人間を対比させる映しとる。
それは全裸のあおむけで水に浮かぶマクドーマンド、真冬のフロントガラス、RVキャンプの駐車場などで生かされ、一方で、広大なアマゾンの倉庫や狭いバンの中での機能的/機械的な人工物との対比も良い。
ノマドたちに金銭的な不安はあるだろうが、すでにどん底を味わった強さも感じさせる。 なんらかの事情を抱えてここにたどり着いた人々の顔のシワや古びた持ち物。さりげなく助け合い共感しあい信頼し合う。
しかし(おそらく)キリスト教にのっとった共感や赦しと徹底した個人主義が、「人は皆一人で死んでゆく」という強さでもありはかなさでもあるのだろう。
漂流なのか、自由なのか
主人公は夫を亡くし、家を失くし、多分年金もほぼ無く、子供のいない高齢者だ。短期労働をしながらキャンピングカーで点々と放浪の旅を続けている。驚いたのは、定年後の第二の人生を楽しむ為にではなく、生活をする為に、終の棲家をキャンピングカーとしている高齢者が多いということ。アメリカの美しくも荒涼とした冬の砂漠が、主人公の不安をよりいっそう強く感じさせる。決して孤独ではないので、あんなに寂しさを強調した演出でなくても良いのでは?とも思う。彼女は亡き夫の想い出を失いたくないからと、その土地を追い出されても、尚もそこにいようとする。その呪縛から解かれるときが、真の漂流になるのか、真の自由になるのかよく分からないが、ラストの清々しい表情を観ながら空想に浸っていたら終わってしまってエッとなった。歳を取ったら、何か喪失感と向き合う時があったら、また観てもいいかもしれない。ベネチア金獅子賞も納得で、アカデミー作品賞も取るだろうと思った。
またどこかの旅先で
旅をしながら、土地土地で仕事をする。そのたびに新しい人と出会う。その繰り返し。
観ながら、大前研一の言葉が浮かんできた。人が変わるには3つの方法があって、それは、時間配分を変える、住む場所を変える、付き合う人を変えることだ、という言葉だ。(ついでに言うと"決意を新たにする"は意味がないらしい) ファーンは、そのうち"場所"と"人"の2つの条件は確実に満たしているし、"時間"もそうかもしれない。そうか、ファーンは自分を変えたかったのか、と思った。
じゃあ、何を?
その疑問が付きまとう。だけど、それは不満にはならない。むしろ、どこかいたわってあげたくなる気分になってくる。常識はあるし、人付き合いはできるし、仕事もしっかりとこなす。なのに、何が彼女を"高齢漂流労働者"にしてしまうのか。美しい自然美は、その哀愁を際立たせている。
ノマド提唱者(?)ボブが言う。「この生き方が好きなのは、サヨナラがないから。またいつか会えると思っているから。」と。そこで気付いて想像したのだ、亡くなった夫が彼女にとってどれほど心の拠り所だったのだろうと。すると、彼女の生き方がまるで、亡くした者(失くした物でも)にもう一度出会うために、自らが成仏できない精霊となって彷徨っているように見えてきた。だから、たとえ相手が快く迎えてくれようとも、ひとつの場所に留まることなんてできないのだ。
そしてまた、"またどこかの旅先で"出会えると信じながら旅を続けていく。そうやって新しい年を何度も迎えながら、これからもずっと彼女は生きていくのだろう。
人生の選択肢は無限にあると思える
全421件中、221~240件目を表示