前後編2本立ては私事上ハードルが高い…と思いながらも、せめて…と観てしまった前編。当然、これは何としてでもと、万障繰り合わせて観た後編。そこには、思いがけない音の再会が待っていた。
後編で圧倒的存在感を示したのは、なんとブラームス交響曲第3番。この映画の人々は、カフェというものに行かない。彼らが出会い言葉を交わすのは、いつでも喫茶店だ。前編では、彼らの不器用さや泥臭さには、一時代前の喫茶店(埃をかぶったサンプルが店頭に並んでいて、くるくるした書体でカタカナの店名が掲げられている、天井低めの薄暗い店)がふさわしいのだろう、くらいに思っていた。けれども、後編の冒頭、八方塞がりの現状を突き付けられるアキラに、あの物哀しい旋律がしとしとと降りかかって来たとき、この音楽を流すには、喫茶店が必要だったのだ、とひどく納得した。
ブラームスは、地味だ。そして重い。ハンガリー舞曲や子守唄など親しみやすい曲もあるけれど、全般には、荘厳かつ骨太、とっつきにくい印象が強い。ブラームス自身もきまじめで、自分に厳しく、才能がないと自己批判を繰り返し、心を病むことさえあったという。彼が交響曲を発表し始めたのは40代に差し掛かってからで、しかも第一番には21年の歳月を掛けている。生涯で世に送り出したのは4番まで。一方、ベートーヴェンは9番、モーツァルトは40番超え。いかにブラームスが、大器晩成で寡作だったかが分かる。
しかし、ブラームスの交響曲は、意外に甘く切ない。その時は重さばかりが印象に残っても、再び耳にすると、はっとさせられる。その度に心の奥をそっと揺り動かされ、忘れ難い。繰り返し聴くたびに、何かしら発見がある。そんな彼の音楽が、アキラにぴったりと寄り添う。
後編、アキラはなかなか動かない(その分、周りが激動する)。彼がどうやって動き出すか、が本作の肝だ。次第に、動かない彼の内面が揺れ動いているのが伝わってくる。彼の見るもの、聞くものを通して、息苦しいほどに。だからこそ、動き始めたときの爽快感は何ものにも替えがたく、痛みを感じながらも、闘いを見届けずにいられない。森山未來は、いつの間にこんな凄い俳優さんになったのか…とぞくぞくした。
ボクシング映画を観ていると、ボクサーに寄り添うトレーナーや、淡々と試合を進める審判の存在感に心惹かれる。選手を存分に闘わせ、試合を成り立たせるための支え手。彼らの冷静な立ち振る舞いが一瞬熱を帯びるとき、こちらも胸が高鳴り、締め付けられる。観客より近い場所で選手を見守る彼らの視点で、試合を味わえる幸せを噛みしめながら、瞬きも惜しいくらいにスクリーンを見つめた。
本作は、無駄なセリフや説明が一切ない。試合後、潔くエンドロールに切り替わる。あくまで小さなコマの中で、それぞれに走り続ける3人の姿を認めたとき、安堵と熱を感じた。
チラシを眺め、ボクシングかっこいい!と単純に憧れてる子らにも、いつかこの映画を観てほしい。