止められるか、俺たちを : 映画評論・批評
2018年10月2日更新
2018年10月13日よりテアトル新宿ほかにてロードショー
若松プロという梁山泊に集まった、奇々怪々な若者たちの青春グラフィティ
六年前、交通事故で急逝した若松孝二監督はすでに生前から伝説的な存在だった。学歴も撮影所での助監督経験もなく、ヤクザを経てピンク映画から出発し、〈性〉と〈暴力〉というテーマを武器に、混迷を深めていた日本映画界に徒手空拳で殴り込みをかけた。デビュー当初は、国辱映画の監督という汚名を浴びせられたが、晩年にはベルリンをはじめ数々の国際映画祭で受賞するなど世界的な名声を博した。生涯、反権威、反権力の精神を貫き、スキャンダリストとしての栄光を全うしたといえよう。
この映画は、1960年代末から70年代初頭にかけて日本の過激なアングラ文化を牽引し、時代の寵児だった全盛期の若松孝二を描いている。大島渚、足立正生、太和屋竺、松田政男、荒井晴彦らが実名で登場し、東大安田講堂での学生と機動隊の攻防、三島由紀夫割腹事件などの出来事が後景として点描される。しかし、白石和彌監督は、あの騒乱に満ちた〈政治の季節〉を再現しようとはしていない。また若松自身の過剰な神格化も避けられている。井浦新演じる若松孝二は、本人を知る者からすれば、あまりに剽軽で愛嬌たっぷりで、不穏な殺気、無頼さはほとんど感じられない。フッテージとして引用される「処女ゲバゲバ」「犯された白衣」「ゆけゆけ二度目の処女」「性賊」などの若松作品の異様な凄みと圧倒的な迫力とは際立った対照を見せているのだ。
実は、この作品の真の主役は、新宿のフーテン上がりで若松プロの助監督になった吉積めぐみ(門脇麦)である。白石監督は、このやや自意識過剰なヒロインのまなざしを通して、若松プロという梁山泊に集まった奇々怪々な若者たちをとらえ、一種の青春グラフィティとして抽出した。そこに単なるノスタルジアではない、自己の無力さに煩悶し苦悩する青春の普遍的な相を垣間見ようとするのである。では、晩年、若松に助監督として就いた白石監督にとって若松孝二とは何者だったのかという疑問は残る。若松孝二は、とてつもなくアナーキーで、不屈のインディーズ・スピリットの体現者にほかならなかった。映画の終わり近く、自死ともつかぬ謎めいた変死を遂げた吉積めぐみに激しく慟哭する若松孝二が強く印象に残る。白石監督は、実在の無名のヒロインへ哀切に満ちたオマージュを捧げることで、若松孝二の無類のやさしさを浮かび上がらせていた。
(高崎俊夫)
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