海を駆ける : 映画評論・批評
2018年5月22日更新
2018年5月26日より有楽町スバル座、テアトル新宿ほかにてロードショー
清々しい希望と、静かに迫る不吉で恐ろしい何か。深田監督の集大成的な作品
カンヌ受賞の「淵に立つ」の深田晃司監督最新作、と思って観ると、なるほどと思う人と意外さに戸惑う人とで半々くらいになるのではないだろうか。同時に「ほとりの朔子」に直結する青春劇であり、「歓待」で提示したボーダーレスな国際意識が宿り、「さようなら」と同じ終末の匂いすらまとっている。これまでの深田作品の集大成的な作品であり、さらにその先のフェイズ2の開幕を告げる快作でもある。
舞台はインドネシアのアチェ。津波被害や内戦のニュースで耳にしたことはあるかも知れないが、地図でほらココだよと指し示すことができる人は稀だろう。日本人が訪れることも珍しい南半球の浜辺に、ディーン・フジオカ扮する日本人らしき男が打ち上げられる。記憶喪失だがどこか悠然としている男はラウ=海と名付けられ、とある日本人の家庭に預けられることになる。
共同体の中に異物が侵入して、かろうじて保たれていた均衡を崩す――という「歓待」や「淵に立つ」のパターンを予想するとみごとに裏切られる。「歓待」の古舘寛治や「淵に立つ」の浅野忠信と違って、ラウはただそこにいるだけなのだ。背景のように、植物のように、日光のように、海風のように。
得体の知れないラウの存在や、会話の端々に立ちのぼる津波や内戦、太平洋戦争の爪痕を見ないふりさえすれば、本作は爽やかな若者たちの恋愛ドラマだ。日本人とインドネシア人の間に生まれたハーフの若者、親友である地元の大学生と幼なじみの女の子、そして訳あり従姉妹も日本からやってきて、ほんのりとした、恋のさや当てのようなものが繰り広げられる。
この映画が清々しさにあふれているのは、彼らがそれぞれの文化や歴史を背負いながら、国籍や言葉の壁が存在しないかのように日々を過ごしていることだ。インドネシア語、英語、片言の日本語、すべては意思の疎通の手段であって、言葉の違いが引き起こす勘違いも愉快な日常の一コマでしかない。
「果たして彼らを微笑みとともに見守るラウとは何者なのか!?」みたいな紹介ができればわかりやすいのだけれど、深田作品が一筋縄で済ませられるわけがない。筆者は清々しい希望と同時に、抗うことのできない不吉で恐ろしい何かを、ラウに、そしてこの映画に感じた。目に見えるものこそ微笑ましい青春だが、描かれない、語られないものの大きさが静かに迫ってくる。深田監督はまたも厄介な映画を作ってくれたものである。
(村山章)