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○作品全体
「集う仲間たち」の物語が好きだ。本作の元ネタである『七人の侍』や『荒野の七人』もそうだし、『オーシャンズ11』、ジャンルは違えど『メジャーリーグ』、映画という枠から外れても『水滸伝』とか『新選組』も好きだ。
どの作品も「集う仲間たち」は出自も違えば考え方も異なる。それでも集う理由が一つでも重なっていれば、集い、短い時間の中で共に戦う。そして終わればそれぞれの場所に散っていく。この「集う仲間たち」の美学は、本作にもあった。
本作の集う理由は「居場所」という言葉が一番近い気がする。
グッドナイト・ロビショーは名だたる狙撃手だったが、銃を持つことが怖くなり、自分のアイデンティティを見失いかけている。バスケスは大金が首にかけられ死体と一緒に過ごさなければならない、安住の地を失った異国人。
それぞれが集う場所の中心にはサム・チザム。 安息の空間を奪われた、強い復讐心を持つ男だ。その復讐心というエネルギーに、はたまたそのエネルギーを隠し持つチザムという男の眼力に吸い込まれ、男たちが集っていく。
居場所がなく散らばっていた個々の力が集うことで溢れる、台風のような局所的で猛烈なエネルギーが集う過程に、見ているこっちの目も吸い込まれるような魅力があった。
物語前半の「この集団は大逆転をやってのけるんじゃないか」という期待感の上昇値が、後半のアクションに意味を付与させ、魅力を生み出しているのだと思う。「集う仲間たち」の物語の強度が固められていく過程とも言ってもいい集う過程の描写は、本作も男たちを凛々しく描いていて魅力的だった。
それぞれ異なった光る特技を持っているが、それを使う場所を失くしてしまったり、甘んじた環境で燻っている。導火線を失った火薬のような男たちの小さな種火を見続けるような感覚。大舞台で飛躍する姿を今か今かと待ち侘びるこの前半の時間は、作品後半に爆発するカタルシスへの導火線だ。
そして物語後半。入り乱れる戦闘の中でいよいよ真価を発揮する。それぞれがそれぞれの力で躍動し、時に助け合う姿に心が奮えた。
ただ、その活躍が超人的であればあるほど男たちの終末のあっけなさが対比的に映える。ロビショーの死は特に印象に残った。かつての輝きを見せるロビショーに限界を突きつけるかのようなマシンガンの銃弾。打ちのめされるロビショーは、そのまま教会の鐘楼から落ちる。この時のカメラの距離は非常に遠い。ロビショーに特別なドラマを与えず、ただ無様に地面へ落ちていく様を映すだけだ。特別な銃の腕前を持つロビショーだが、さらに強い力に屈する時は一瞬で、そこに美しさはない。それでも、このカメラとロビショーのあっけなさが生み出す「集う仲間たちの美学」はここにある。腕利きの狙撃手・ロビショーが活きる居場所を手に入れ、散っていく…「集う仲間たち」とともにある宿命。それを克明にする演出でもあった。
ボーグとの決戦を通して感じた集う理由は、「居場所」というよりも「死に場所」だったのだろうと思った。最後の灯火を魅せられる場を探し求めて集ったのだろうと。
そう考えると生き残ったチザムたちが行く道が途方もない世界のように感じる。何もない荒野にそれぞれの「死に場所」を探さなければいけないのだから。
死の残酷さと共に生の残酷さも内包するラスト。褐色の世界が饒舌に演出していた。
〇その他
7人それぞれの物語がすべて描かれていたかといわれると、首を傾げる。主役級であるファラデーは「博打」というキーワードがファラデーのラストに結びついてはいるけれど、なぜそこに集ったのか、という部分が見えづらい。ハーベストもインディアンという記号化から逃れられておらず、長老に「生きる居場所はここではない」と言われやってきた、という過去にしか触れられていない。
ここが「集う仲間たち」の物語の難しいところだと思う。すべてを描くには時間がどうしても足りない。ただ、描き切られたときの物語の重厚さは格別だと思う。