サウルの息子のレビュー・感想・評価
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いつまでも語り継がれるべき衝撃作
あらゆる瞬間に息が詰まりそうになる。特に冒頭から延々と続く長回しで、人々がガス室へと送られていく様子、感情を枯らした人間がその手で無慈悲に扉を閉める無駄のない流れ作業は、本当にこの世の地獄と呼ぶにふさわしい。しかし本作の真の衝撃は、それらのアウシュヴィッツ=ビルケナウの生々しさよりも、すべてが干からびたはずのその地に僅かばかりの感情の雫が滴りおちるところにあろう。「あの遺体は息子ではないか?」というサウルの思いは半ば妄信、あるいは狂気に近いものがあるが、それでも絶望的な状況で生じた精神構造として、彼の最期の意志であり、尊厳であり、彼が突発的に織り成しすがろうとした物語性とも言えるのかもしれない。本作はかくも人類が体験した悲劇から一つの「個」を抽出し、限定的な視点を通してその全体像を捉えようとする。それを伝える技術力、チームワーク、意志の力もずば抜けている。決して万人向けとは言えないが、『シンドラーのリスト』と並んで語り継がれるであろう一作だ。
当事者目線で描かれる生きる尊厳
冒頭から引き込まれる、主人公サウルを中心とした長回し。「これは凄い映画だ…!」と思うと同時に、「こんな序盤が最大の見せ場だったらどうしよう?」と不安にもなった。
が、心配はご無用。この後もサウルと共に動くカメラの長回しが、圧倒的臨場感で観客をビルケナウ収容所の一員にする。
気持ちはもう新人ゾンダーコマンドである。
多くのゾンダーコマンドが最初そうであったように、我々に与えられる情報は少ない。急に連れてこられて、訳もわからぬまま陰惨な状況下で酷使される。
サウルの背中から覗く光景は、あまりにも強烈で残酷であるがゆえに、はっきりとした映像として記憶に残らない。
サウルもきっとそうなんだろう。はっきり見えてしまったら、心が壊れてきっと働けない。
サウルだけじゃない。他のゾンダーコマンドだって同じだ。
「今、自分は何をしている?」その問いに明瞭に答えてしまったら、すべては絶望の彼方に追いやられ、二度と這い上がってこられない底無しの沼に堕ちる。堕ちてしまう。
少し焦点のあっていない映像から、我々は読み解かなくてはならない。今の状況を。今の立場を。最適な振る舞いを。
間違えてはならない。目立ってはならない。心を暗くして、目を開かずに。
いったん映画の世界から離れ、第三者視点に立つと、己の無知を痛感する。何となく、虐殺された死体は埋めるものだと思っていた。ヨーロッパだし。
実際はサウルたちゾンダーコマンドの手で死体は焼却され、灰となったかつての同胞たちは川に撒かれた。そうなんだ、燃やすんだ。
日本的には、撒くのはアレだが、火葬が一般的なので死体を燃やすことを特別変なこととは思わない。だがユダヤ教は違う。審判の時が来れば復活し、善なるものは永遠の魂を手に入れる。
善なるものには肉体が必要だ。カデシュが必要なのだ。主を讃える祈りが、ラビが必要なのだ。
少年がガス室から生還したのを目撃したサウルは、少年に復活を見たのかもしれない。この善なるものの為に、どうしてもカデシュを行うという決意は、心を殺し、見ないように、聞かないように、死へのトンネルをゆっくりと進んでいたサウルにとって唯一の光だ。
サウルの後ろで、ずっと彼と視界を共有していた私に、サウルは何も語ってはくれない。想像するしかないけど、きっとそういうことなんだろう。
同胞を「部品」と呼び、その死をお膳立てし、復活を妨げ、いつかは自分自身もそうなる。
そんな世界から抜け出す為に、たった一人で、正面から激突するのではない、魂の勝利を目指して突き進むサウルの姿。
彼に感情移入するのは難しいかもしれない。でも否定は出来ない。一度しかない人生に高潔さを望むのは、きっと誰でも同じだから。
未来へつなげたい思い
ゾンダー・コマンドという存在を今まで知らなかった。
あまりにも残酷な役目をさせるものだと思うのだが
日本でも死刑執行後の片づけを死刑囚にさせてる
(20年ほど前の本にあったがもしかすると今は違うのかもしれない)
ので、過去のナチスにだけあったことではない。
人間は穢れや人非人と思うものにはどこまでも冷酷である。
ナチス収容所に特殊任務をさせられているサウルたちは
いまは生きてはいるが
ナチスの気分次第でいつでもすぐに殺されてしまう存在だ。
常に首の皮一枚で生きている。
そんな中サウルはある少年をなんとしても
正式に埋葬して送ってやりたく
仲間からすれば狂気じみた行動をとる。
サウルは少年を息子だとは言うけれど
妻との子じゃない、とも言ってるので
血縁ではない。息子だといえば
仲間に話が早く通るから言ってるんだろうが
その執着度は本当の息子のようにも感じるほどだ。
解説などを読んでやっとそういうことかとわかったが、
ナチスは収容所で生命を奪うのみならず
信仰までも。仏教でいえば死んだあとあの世で会おうね、的な
本当に、希望とまでも言えないようなレベルの
望みさえも踏みつぶしていたのだ。
サウルはその死んだ少年にせめて死後の希望だけでも
たくしたかったのだろう。
その気持ちもわからいでもないのだが
なかなかサウルは限界状況にある中で
そのために仲間の計画もミスらせてしまうし
サウルのせいで死ぬ者もいるわけで、
観ていて正直、いやお前。。。迷惑。。。と
イラっともする。
もう自分が生残ることは考えてなかったんじゃないか。
そんな希望はないだろうなとどこかで悟っていたんじゃないか。
でなきゃこんな身勝手というか無謀なことを、
それもせめて生きてる少年まらまだしもだ、
できるか?やるだろうか?
ここまでの極限状態を経験したこともないのでわからないけれど。
しかし二度とこんな戦争を起こしてはいけないのだと
胸に突き刺さる。
敵国にあたる地の少年にも微笑むサウルは
狂気ではなく、誰よりも冷静で人間らしい。
彼はかの地へ憎しみを抱いて旅立たなかった。
自分の「証(あかし)」を残したかったのか。
ある意味でゾンダーコマンドであるということは、メンタル的には一層の負担だったのではないかと推測します。
つまり、予期はあったのかも知れませんが、ふつうの被収容者であれば、長い長い移送で疲れ果てた体に温かいスープやコーヒーを与えられる前にシャワーを浴びるだけだと騙されて(時を移さずに)抹殺されてしまうところ、ゾンダーコマンドは、彼・彼女らの死体の処理に任務として当たるが故に、自らの行く末も、自ずと理解させられてしまうわけですから。
パルチザンと後に合流することによって生還できる可能性を、サウルがどの程度に信じていたかは、残念ながら作中からは窺い知ることができませんが…。
しかし、そういう境遇にあって、サウルがなおユダヤ少年の正規の葬送にこだわったのは、生還の見込みの限りなく薄い中で、自分がここ(収容所)で生きたことの「足跡」というのか、「証」というのか、そういうものを残したかったからではないかと思われてならないのです。評論子には。
そう思うと、観終わって、本当に重い、重い、重い一本になってしまいました。評論子には。
…言葉に窮する
次々とガス室へ押し込まれていくユダヤ人の人々。 そして、その死体処理作業をやらせられるゾンダーコマンドという部隊に配属されたユダヤ人の男たち。 その一人である主人公のサウルは、「死」だけに囲まれたこの地獄の中で、偶然出くわした「息子の死」に何を見たのか…。
ホロコーストは、紛れもなくヨーロッパで実際に行われた「人間の行為」だ。 これ以上の悪夢はあり得ないと言い切ってもいいが、それが映画の中で追体験、いや、実体験できる作品である。 詳細に当時の事を調査した上で脚本が作られているのだろう。 とにかく凄まじい。 言葉に窮する、というのが初見後の感想だ。
最初から最後まで、主人公の顔にフォーカスしたまま展開は進んでいく。 この手法が使われたのは、我々観客にできる限りリアルな映画体験をしてもらうためだと思う。
作品の中心に据えられるのは、絶望的な状況の中で思考停止に陥っていると思われるサウルの表情。 その際、サウルの顔以外の背景は、リモート会議の画面のようにボカされている。 わずかに見える裸の死体や死体処理作業の動きが、逆に生々しい。 そして、様々な作業音、ドイツ人看守の怒鳴り声、悲痛な鳴き声、叫び声、うめき声、赤ん坊の声…。 後ろがはっきりと見えない分、背景音が恐ろしい。
絶望的な状況の中でも、息子の遺体を弔うことに執着するサウル。 その危険で無謀な行動を、助けようとしたり咎めたりする部隊の仲間たち。 彼らもまた、わずかな希望に縋ろうとする余裕すら持てない状況にある。 それが、はっきりとわかる。 非常にリアルだ。
息が詰まるような展開を追ううちに 、だんだんと気づき始める。 この作品は、わが子を想う親の愛情を見せようとしているわけではないのだと―。
サウルが執拗に弔ってやろうとした子供が、実は彼の息子ではなかったとしても筋は通る。 本物の地獄の中で、人間が正常な感覚でいられるはずはないのだ。
際限のない無意味な作業は、心理的な負担が極めて大きく、先の大戦でも捕虜に対する拷問に使われたと聞く。 その作業が、「同胞のガス室への誘導と、殺害後の死体処理」なのである。 しかも、次は自分がガス室送りになるという恐怖の中での作業となれば、さらに絶望的だ。
生身の人間が、幻想と思い込みに取り込まれたとしても無理はない。 目の前の悪夢から心を逸らし、自分を保とうとするのは、自然な心理反応だろう。
本当に言葉がなくなる。
幸いと言った方がいいだろうか。 映画では、臭いだけは感じられない。
それでも、ここまでこの異常な空気感が画面上から伝わってくるのは、技術うんぬんを越える製作者たちの執念のなせる業ではないか。 ネメシュ・ラースロー監督は、非常に大きな仕事をやってのけたと思う。
ハンデイカメラがホロコーストのおぞましい様相を追う
ガス室に送り込まれる人々の息づかい、絞り出される声、閉められた鉄扉を叩くこぶしの音、飛び交う単語、怒鳴り合い。
人間を大量に抹殺して行く収容所で、ガス室に誘導し、遺品や遺体を処理するのも彼等の仲間。抵抗すれば殺される。僅かな糧で寝ることすらままならない"対独協力者"。
目の前で殺された見知らぬ少年の遺体を、なんとか手厚く葬りたい男の思いは、生きることを許されない絶望の中の祈りのようなもの。
この世の地獄…
何も知らない同胞が服を脱ぎ、ガス室に送られ、錠を掛けられ、死んでいく。その後の掃除、服から金目の物を探し出す。ゾンダーコマンド、いずれ彼らも処刑されるが、ナチの手先となって処刑を手伝う。おぞましい映像で、人間のなせる業ではない。そんな地獄で働くサウルの目は死んでいるが、息子と思わしき遺体を見てからは、狂信的にラビを探し、危険を犯してまでも正式に弔おうと奔走する。周りの人々の危険も伴うため、彼の行為は自分勝手で暴走行為だが、地獄にいる以上、そこには常識はないと考える。カメラワークが長回しで、サウル中心に回し、小声や息遣いなどを拾い、まるで自分が収容所にいるような感覚になるが、非常に見づらく、他の人物の背景などが全く説明がないため、分かりづらかった。字幕も不要な部分を拾い過ぎてる感があり、残念だった。
ゾンダーコマント
序盤のグロテスクな解剖室のシーンが印象的。しかも執刀している医者もユダヤ人だというショッキングな事実。そして、数か月すれば自分たちも殺されるんだと自覚している虚しさ。服の背中には大きな×印も虚しくさせる。正確にはPOVではないが、ハンディカメラは絶えずサウルの背中、顔を中心に撮り続ける。
死を覚悟しているユダヤ人の中で、サウルはまともな葬儀をあげることに生きがいを見つけたようだ。ラビを探すこと、カディッシュを唄うことしか頭になくなった感じ。?ゾンダーコマンドとしての立場を利用すればいつでも逃げ出せそうな雰囲気なのに、そうはしない。独特な撮影法によって臨場感はたっぷりだ。結局はレジスタンスと合流できたのか?最後には一人の男の子にPOVが移り、ナチスの小隊がかけつけるという意味深なラストだった。
【”サウルが、苛烈な強制収容所の中で、命懸けでラビを探した訳” 過酷な状況下でも、尊崇な志を貫いた男を描いた作品。】
ー ナチスが強制収容所で行った、ユダヤ系民族の血を根絶やしにしようとした行いが冒頭から描かれる。
長廻しで、サウルの背景で行われていることには、敢えてフォーカスせずに・・。ー
□ナチスが、強制収容所で、効率よく”部品を処理”するために行った事。
ー それは、収容されたユダヤ系民族の人々の中にヒエラルキーを作った事である。ー
・カポ
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』でも言及されているが、カポは”ナチスよりも、収容された人々を、厳しく痛めつけた。”とある。
今作のカポ長のビーダーマンのように。
・ゾンダーコマンダー(=秘密の運搬人)
”処理された部品”を、ガス室から運び出し、焼却し、灰を処理し、ガス室を清掃する。
・腕のある職人たち
医者や、家具職人、鍛冶屋など、多数であるが、彼らも又、ナチスの便利屋である。
ー この、同民族内で、効率よく”部品を処理”するシステムを考えた連中は、それ故に、戦後もユダヤ民族から地の果てまで追われ、処刑されたのである。
◆感想
・サウルが、いつものように”処理された部品”を、ガス室から運び出している時に、虫の息の少年を見つける。”解剖しろ”という命令に、ユダヤ系医師に掛け合い、解剖を止めさせ、少年のために必死で、ラビを探す姿。
ー 直ぐに分かるが、息子(だとサウルは思い込んでいる・・)を、火葬させないために、キチンと天国に行かせるために、サウルはラビを命懸けで探すのである。
どのような状況下でも、人間の尊厳を失わないサウルの姿。
尊厳ある死を少年に与えるために奔走する姿・・。ー
<小屋に現れた少年を見た時の、サウルの表情。
驚き、そして徐々に微笑みを浮かべていく。
森の奥に走り去った少年は、きっとサウルが命懸けで、尊厳ある死を与えようとした少年の魂が具現化した形で現れたのだと、私は思った。>
ゾンダーコマンド
2021年8月21日
映画 #サウルの息子 (2015年)ハンガリー映画 鑑賞
#アカデミー賞 #外国語映画賞 ほか各国で多数の映画賞を総ナメにした作品
強制収容所内で、ガス室で殺された同胞のユダヤ人の死体処理などを強制されたユダヤ人による労働部隊 #ゾンダーコマンド を描いた作品
ただただ恐ろしい
ラストの少年の紙一重な存在
アウシュビッツのリアル(であろう)な一面を、長回しの巧みなカメラワークで、映している。隠し子の息子の埋葬に固執する父親の姿は見事。支えてくれる仲間の様、生き残るためラビと嘘をつく姿、ガス室送りの前の「早くシャワーを浴びないとスープが冷める、シャワーの後に技能保持者は名乗り出るように」などのアナウンス、ひたすら死体を処理して自分たちの処理の日を待つ姿。あらゆる場面が胸に焼き付く。
よく見えなくても悲惨な状況がわかる
ナチスの強制収容所で死体処理として働かされるサウルが、ガス室で生き残ったがすぐに殺されてしまった男の子を埋葬するために翻弄する話。
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この監督、撮影の仕方が主人公の後ろにぴったりくっついて周りの状況が主人公を通してしか把握できない。登場人物も急に話しかけたりしてきて状況が上手く理解できなかったりする。
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それでも越しに見える大量の積み上げられた死体からどんな悲惨な状況に置かれているかは理解できる。それに収容所がどんなところかの知識は日本人でもあるから、監督2作目の『サンセット』よりかは分かりやすかった。
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この主人公のような働かされてるユダヤ人をゾンダーコマンドって言うらしくて、働いてるからといっていずれは他の人と同じように殺される。
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死体は処理しないといけないし、いずれは殺されるなんて精神状態がおかしくなるに決まってる。サウルはこの男の子を埋葬してあげることに必死になることで、もう現実から目を逸らしてたのかな。
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震撼
6年生の頃だったか、
新聞社のホールで催された「アウシュビッツ展」を見た。
一緒に行った両親が会場で分厚いパンフレットを買ったので、私はそれ以降 時々本棚に手を伸ばしてはその解説と、目を覆うばかりの白黒写真を見ながら育ったわけだ。
南米に潜んでいたルドルフ・ヘスやアイヒマンが捕まったという速報も、ヨーゼフ・メンゲレがブラジルで死んだというニュースも、紛れもなくそのパンフレットで目に焼き付いていた彼らの顔写真を新聞の小さな記事で私は見つけたのだった。
ヨーロッパで広く知られ、世界各地のホロコースト記念館でも展示されている【その写真】や【あの写真】が、この映画「サウルの息子」で動き出す。
全部見覚えのあるシーンが動いている。
監督が記録写真にどれだけ忠実であったかよくわかる。
生存者の方にとっては正視出来ない映画だろう。否、こんなんではなかったと言われるのだろうか。
ハンドカメラがゾンダー・コマンドの肩ごしに"作業"を写し出す。
この手法、この肩ごしの景色を見るうちに、自分もいつしかサウルの背後に立ち、サウルと共に目の前の有り様を目撃し、やおら突然にその行列に押し込まれ、とうとう後ろから押され押されて、血と油と屍のガス室に私も片付けに入るのだ。
少年を弔おうとしたあのサウルの“愚行”は、ひとかけらの人類への希望と受け取るべきだろうか。
それともあの倒錯も含め 一切の希望無しと、異常行動であったと、彼を断ずべきであろうか。
人間の良心まで死に至らしめようとする絶滅収容所。それを作ったのは人間。
震撼だ。打ちのめされた107分だった。
二日間の恐怖のなかで
・死んだ息子を弔う為にアウシュビッツ収容所内で奔走する特殊任務人"ゾンダーコマンド"のユダヤ人サウル
・画面がスタンダードサイズで構成されてるが、目の前の主人公の背中に終始フォーカスしてるので極めて一人称的な視点が保たれてる
・収容され殺されるユダヤ人は「部品」と呼ばれる
・複数の言語が入り乱れる混乱の現場
・収容所に連れてこられたユダヤ人たちは、個室に集められ、衣服を取られ、殺されて、引きずられ、重ねられ、積まれ、運ばれ、焼かれ、灰になり、川に撒かれる
・川をわたる途中で担いでいた息子を離してしまう、息子を埋めることに執着する→後世にユダヤの記録を残す
・小屋で休むサウルが外を通りかかった少年に微笑むが、ドイツ兵に見つかって殺されるエンド
・詳しくは映画「灰の記憶」と書籍「私はガス室の「特殊任務」をしていた」
ホロコーストのFPSをやりたかった作品
ヨーロッパ映画特有の美しさ、芸術性をあげた結果、素晴らしいテーマなのに伝わらなくなってしまっていると思う。多分、アウシュビッツのFPSをやりたかったんだろうなとは思うが、如何せん難しかった。僕には分からなかった。
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