トイ・ストーリー4のレビュー・感想・評価
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シリーズの中で異質な内容
実を言うと、私は3で終わってほしかった派でした。4が劇場公開した当時はラストの意味を理解できず、「これでいいのか?」とモヤモヤしていました。その後、ディズニープラスで繰り返し観ていく内に、作品の裏にある意図を読み取れるようになりました。
まず率直に感じたのは、4はシリーズの中で一番異質な映画だったことです。これまでは仲間と協力しながら困難を乗り越え、最終的に持ち主に帰ってくるのが通例でした。しかし、今回はおもちゃ自身の幸せとは何かが描かれていました。過去作と比較するとやや難解で、大人向けの印象が強かったです。
ウッディは序盤からボニーに遊ばれなくなりますが、3のラストから結構時間が経っているように見えました。そう考えると、彼女の好みが変わってウッディに対する興味が薄れても仕方ないと思いました(ボニーはまだ幼いですし…)。
そんな中で再会したボーは、2以前とは全くの別人になっていました。昔よりも表情豊かになり、女性の力強さが表れていました。私は当初戸惑ったものの、7年も経っていればガラリと変わってもおかしくないと納得できました。
この出来事がきっかけで、ウッディの価値観は徐々に変わっていきます。そこから最後の決断に繋がり、自身で答えを見つけたのではと考えました。子供に愛されることが全てではなく、自分がどうしたいかと向き合うことが生きる上で大切だと思いました。
他にも、フォーキーはトイストーリーで最も変わった存在でした。彼はゴミから作られたことで命が宿り、テクテクと歩いている光景がすごく不思議でした。ウッディの言葉に混乱しながらも、旅の道中で色々学びながら成長していく所がよかったです。
正直、このメッセージ性を一回観て理解するのは困難でしょう。3のスペクタクル要素もないので、これは賛否になるなと思いました。それでも、観れば観るほど奥が深い作品でした。
オモチャに自我を与えた総決算。
好きな人が多いのは承知しているが、自分は『トイ・ストーリー3』が苦手だった。理由はいくつかあるのだけれど、あの大団円をハッピーエンドと思えなかったことが大きい。オモチャの決して明るくない将来像についてはこれまでも触れてきたのに、新しい持ち主が見つかってめでたしめでたしというのは、問題の先送りにしか思えなかったのだ。
だから本作が「ウッディが自分の将来について模索する話」になるのは必然だったと思う。「オモチャは子供と遊ぶのが幸せ」が本シリーズの鉄則だが、今回は勝手が違う。持ち主ボニーは、本作ではほとんどウッディに関心を示さない。でもしょうがない、幼稚園児だもの。好みも興味も変わる。さらにそんな事情より重要なのは、「ウッディに自我がある以上、オモチャという枠を超える日がやってくる」ということだ。
本シリーズには「自我と命のない物に自我と命を与える」というフランケンシュタイン的側面があって、生まれた以上、いつか自分自身や人生と向き合うくらいにウッディが(人間的に)成長するのは見えていた。ウッディが残っても旅立っても、どちらも感動的な物語は成立していたと思う。しかしウッディは選択した。作り手が生み出したキャラクターが、ついに自分の人生を生き始めた。ウッディに開かれた可能性を心から応援したいと思う。
このシリーズも時流に合わせて“成長”したということか
ピクサーアニメは元来個性や多様性の尊重が基本で、ヒロインが活躍する作品も多かった。それでも、ウッディが不変の主人公でバズとの友情が大きな要素を占めてきたシリーズの第4作で、女性キャラのボー・ピープをここまで冒険の実質的なリーダーとして前面に押し出してきたのには、やはりシリーズ生みの親=ジョン・ラセターがセクハラ問題でディズニーを退職した影響があったからではないか。ピクサーとして改めて、女性だからといって不当な扱いを受けることはない、自立して男性以上に活躍できるとアピールし、悪いイメージを払拭したかったはず。
子供の成長を踏まえたおもちゃと子供の関係性という観点で、第3作は完璧なエンディングだった。だがさらに続編を作るため、「おもちゃにとっての幸福」という根本的な約束事の見直しを決断。思い切った挑戦ではあるが、シリーズの精神がポリコレで理論武装した意識高い大人になったようで寂しくもある。
結末は特に不満なし。問題は…
序盤の雨のシーンが圧巻。さらにクオリティが上がった。
ボニーに怒り心頭!というわけではなく、子どもだからその行動にも納得。新キャラフォーキーとウッディの仲が深まるところも面白い。骨董品での怖すぎる人形も見どころあり。ラストのウッディの選択も自身は違和感なく。
純粋なトイストーリーとして楽しめる。が、個人的にはボーが非常に不快なキャラであることがこの作品の評価を下げた。強い女性となっての再会までは良かったが、ウッディを責めたり足手まといに言うシーンは純粋にバッド。それ以外は特に。
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一言で言うなら「蛇足」です。
トイストーリーシリーズは名作でした。当時として最先端技術を駆使してアニメ映画の新たな歴史を生み出した第一作目、技術を向上させディズニーとピクサーの看板作品という地位を確立した2、そして完璧なストーリーの感動作品と言っても過言ではない3。この3作できれいに完結しておりました。このあと何度か公開された短編、ショートムービー数作も短い分とても見やすく面白さに振り切られていました。特にトイストーリーテラーはトイストーリーっぽくないですがそれがまたこれまで描けないやり方を使い斬新で面白かった。なのでこの正式な続編であるトイストーリー4はファンにとって「ウッディとバズにまた会える!」「前作に登場しなかったボー・ピープも再会する!」と喜びに満ち溢れていました。
しかし、いざ蓋を開けてみたら・・・困惑の連続でした。
ウッディーを前作で流れでほぼ強引にアンディから継承されたとはいえちゃんとすごく気に入っていた→全く興味を示さなくなり、ラストは無くした(いなくなった)ことにすら気づかないボニー(フォーキーは必死に探していたのに)
1,2でウッディーを影から支える優しく、前作では保育園やゴミ捨て場では耐えられないという理由で出演できなかったボー・ピープ→どっかの革命家のようにあっちこっち動き回るなど顔も性格もワイルドに改変される頼れる
アクション担当、リーダーシップがありウッディーの相棒バズ→内なる声に従えと言われてからずっとボタンの声を気にするボケ老人のようなことをする。
人間に動いているところを見つかってはいけない、痕跡をなるべく残さないようにするおもちゃのルールをガンガン無視していくおもちゃたち。
自我を持っていても子供たちに遊んでもらうことが最大の喜びでシリーズで一貫して相手のことを優先して動いていたウッディー→持ち主に依存しているということを強調して描かれており、最後は自分自身のやりたいこと、選択を優先するというこれまでのシリーズの根底を否定するような演出
などなど、これがトイストーリーの世界観を共有した世界線で、ボニー(かつてのアンディー)のウッディじゃないウッディ、もしくは全く別のおもちゃが主人公でこの物語を作っていて、シリーズでこれしか見たことがないならまあまあと言っていたかもしれませんが、ぼく等がずっと見てきたウッディたちの物語にしたことによって20年以上愛してきた作品を冒涜された気分になります。制作陣が昔と違うことも原因であるか。
ディズニーヴィランのギャビーギャビーもヴィランというより憎まれ役であまりパッとしない。どちらかというと拾得したバズを預けるべき場所に預けないで自分の景品にしてしまい景品を譲る気のないアクセルやセカンドアンティークショップのドラゴンがよりヴィランっぽい。
ウッディの決断は日本以外では概ね肯定されているようで、自分もそれに関しては立派な判断だと思うけど、なんかもやもやが残る。これも文化の違いというやつなのか。
3までが大好きな人には刺さりづらいかもしれない
5公開にあたり初見。感想は「解釈違い」の一言に尽きる。
決してつまらないわけではなく、「必要とされなくなったおもちゃは自分のために生きてもいい」というテーマが本シリーズの流れを汲んで見る人には受け入れづらいだろうと感じる。私もその一人だ。
まず納得がいかないのはボニーがウッディに興味を示さなくなっていること。アンディと「大切にする」と約束した3のラストからいきなりのこの冒頭なので非常に受け入れづらかった。というより悲しかった。
また、これまでとは違って人間側への影響がかなり大きく出ており、「子供たちの知らない間におもちゃたちが人知れず動いているかも」というワクワク感がなく、ただただ人間目線で「迷惑だな…」と思ってしまう。終盤のキャンピングカーを無理やり誘導する展開なんかは特にひどくて見ていられなかった。
バズが突然ポンコツになっているのも説得力がなく、ジェシーたちにいたってはほぼ出番がないのも不満である。
ボーの再登場というサプライズもあるが、子供向けのおもちゃ映画を脱却しようとしているように見えるストーリー全体への不信感が先行してそちらにばかり気を取られてしまう。
逆に、アイデンティティを喪失しかけてボニーにアンディを重ねて独りよがりなムーブをし続けるウッディにはそこまで違和感はない。彼もアンディが一人目の子供であったし、おもちゃの中でもお気に入りでリーダー格であったのだから、自分だけが子供に興味を示してもらえないという経験したことのない事態に戸惑うのは当然だとも思う。そもそも、時間の経過と共に成長してはいるが、元来ウッディとはこういうやつであるとも認識している。
フォーキーも好きだ。ボニーの想像力豊かという設定が生かされ、おもちゃだけが遊び相手ではないというのは自然な設定で、これまでのシリーズにはなかったいい着眼点だとも思う。
あとコンバット・カールが再登場したのは嬉しかった。
一番受け入れがたいのは、やはりウッディがボニーをみんなに託してボーと生きる選択をしてしまったこと。「おもちゃは子供と遊ぶためにある」というこれまでの前提を覆され、つらかった。
もちろんおもちゃたちにも自我があるのだし、目的はあくまでも人間目線のものであり、野良のおもちゃたちが外の世界で楽しく生きている様を描いているのもいいと思う。ただ、ウッディがその選択をするのにはいささか描写が足りていなかったか(私の見落としかもしれない)と感じる。直前にこれまで遊んでもらうことができなかったギャビー・ギャビーが持ち主を得る幸せを掴んでいるのも、真逆の選択をしてもいいということなのだろうが、ウッディへの「なんで?」という思いを膨らませた。
3が成長したリアタイ世代へ向けた映画であった以上、4も同様に時を進めて当時の世代に受け入れられやすいウッディとボーのラブロマンス路線へ持っていこうとしたのだと思うが、そこへ着地させるのに不適当なテーマを据えたせいで全体的に描写不足(あるいは余計)で散らかった印象を受ける。
総じて、「ウッディ×ボーのカップリングが好きなトイ・ストーリーファンによる解釈違いの二次創作」が私の本作への評価となる。
「誰かに必要とされること」だけが、自分の価値ではない
最後、ウッディがボニーのもとへ帰らず、ボーと一緒に残るとは思わなかった。
「えっ、帰らないの?」という驚きがまずあった。ボーと一緒にいたい、という気持ちももちろんあるんだろうけど、それだけではなく、ウッディ自身が「自分の思うままに生きる」という選択をしたように感じた。
ボーが示したのは、持ち主がいなくても自由に生きられるという生き方。そこでウッディは、誰かに必要とされることだけを自分の役割にしなくてもいいと知ったのかもしれない。
そして、その後に迷い子のおもちゃを助けている姿が描かれる。
最初から「迷い子を助けることが自分の使命だ」と決めていたというより、自由になったウッディが、自分は何をしたいのかを見つけたように見えた。
「誰かに必要とされること」から解放されたからこそ、自分が何をしたいのかを選べるようになった。
おもちゃも人も、与えられた役割だけが生き方ではないのかもしれない。
ただ、ボーと一緒にいたかっただけなのか、それとも新しい生き方を見つけたのか。その境界が恋愛も含めて曖昧なのも面白かった。
これまでのシリーズを全部ちゃんと覚えているわけではないけれど、それでも最後のウッディの選択には、「自分の価値を誰かに必要とされることだけに置かなくてもいい」というテーマを感じた。
つまらない訳ではないが駄作
〇良かった点
・フォーキーの設定
今作唯一と言っても良いくらい。今まで出てきたキャラはそれぞれ信念や考えはあるものの、自分自身に対して価値を見出していた。しかし、今作のフォーキーは自分の価値を見出しておらず、オモチャではなくゴミとして過ごそうとする。大人からすればゴミだが、それでも子供が遊べばオモチャになるという考えは非常に画期的だと感じた。
〇不満な点
・バズの様子がおかしい
個人的なバズというキャラの解釈を述べる。「ウッディーにとっては頼れる相棒であり、他のおもちゃにとっては頼れるリーダー。どんなに危険でも仲間を決して見捨てず、自分の信念に従って行動する。」これが個人的なバズというキャラの解釈。そういった姿は今作では全く描かれていない。スイッチの声に従うただの意味不明なキャラに成り果ててる。しかも、ギャビーギャビーに囚われたフォーキーをあっさり見捨てた。それだけでなく、救いに行こうとするウッディーを諦めるように説得さえした。これは完全におかしい。今までどんな事があってもバズは諦めなかった。だから前作の焼却炉のシーンは圧倒的な感動を生み出せた。その感動が台無しになる愚か過ぎるキャラ改変だと感じた。ギャビーギャビーは、シドやロッツオみたく囚われたらガチでヤベぇことしてくるキャラじゃないのに何故あんなに簡単に諦めたのかが本当に謎。
・結末が行方不明
今作で描かれる「外の世界で自立したオモチャ」というのがよく分からない。私の国語力が足りないと言われたら黙るしかないのだが、今までは子供でも分かりやすいテーマだったのに何故こんな複雑怪奇にしたのかは理解が出来ない。
・フォーキーの設定が完全に死んでる。
前述した通り、私はフォーキーのキャラ設定をかなり高く評価してる。ただ、出番があまりにも少なく設定が活かせてない。殆どギャビーギャビーの話相手で終わってしまってる。だとしたら、わざわざゴミから作ったオモチャにする必要はなかったのでは。もし、フォーキーを出すなら同様にゴミから作ったオモチャを大量に出して、「オモチャとゴミとの違いは」的なテーマの方が良かったのでは。というかそっちの方が見たかった。
総合ジャッジするとかなりの駄作よりだと思う。1本の単体映画として見れば、面白いと思える。駄作と感じる理由は明らかで今までのシリーズとは毛色が違いすぎること。確かにシリーズものなので、マンネリを防ぐために毛色を変えた作品も必要ではあり、それを評価する人もいる。ただ、個人的には毛色を変えすぎて今まで築いてきたキャラクター像や世界観からは大きく外れてしまったように感じる。なのでかなりの駄作とジャッジしてしまった。
いつもの良作なトイストーリーでした
ピクサー期待作、難解だが......
駄作とされている一作。個人的にはそこまでひどいと思わなかったが、前作でも感じた「風呂敷を広げすぎてテーマが複雑化しており分かりづらい」というのは今回もあった。また、最終的にウッディかみんなと離れてしまったのも解釈違いだった。5では合流しているがどう説明するのだろうか?
評判が悪いのはうなずけるけど…
ピクサー製作「トイストーリー4」を観た。トイストーリー5を観た後に、評判悪い作品だよなぁ。思いながら観た。
結果、まぁ皆様の批判したい気持ちはわかる。たぶんトイストーリーを愛している人こそ、反発が強いのだろう。個人的にはトイストーリーは面白くてよくできているなぁと思っているのだが、愛してはいないかな。
その俺からするとあのラストシーンは、あれはあれで、くらいな感じ。ただトイストーリー5が評判が良かったことと、トイストーリーすべての作品を、これから続くであろうトイストーリー6以降もひっくるめて考えた場合、4のような別れのシーンがあっても良いのではないかなと思う。
作品全体として、ちょっとネガティブな展開になったことはあったかもしれないけど、トータルで良かったじゃん。ってね。毎回毎回ハッピーハッピーでは、ちょっとつまらないのでは?なんて思いました。
ただ!トイストーリー4のおもちゃたちは動きすぎ。「人間が見ている前では動いてはいけない」というルールを破っているのでは?なんて思った。
ウッディが老害すぎる
タイトルの通り、ウッディが老害、すなわち自分の価値観を貫きすぎて共感できなかった。1の時にバズを追い出してひどい目に遭ってから、2,3と何を学んできたのだろうか。そのかわりギャビーギャビーには共感できるところもあり、「いいヴィラン」だったと感じた。
本作の賛否両論は、テーマを扱い切れなかった脚本故か
【イントロダクション】
アンディとの別れを経て、ボニーのオモチャになったウッディ達。ある日、ボニーは新しく通う事になった幼稚園で、手作りのオモチャ・フォーキーを作り出す。
監督には、長年ピクサーでストーリーボードアーティストを務め、『インサイド・ヘッド』(2015)で脚本にも参加した長編初監督のジョシュ・クーリー。脚本には、同シリーズ第2作以来の長編カムバック(間に短編作品『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』(2013)有り)となる『ウォーリー』(2008)、『ファインディング・ドリー』(2016)のアンドリュー・スタントン。その他脚本に、ステファニー・フォルサム。
【ストーリー】
9年前の豪雨の夜。路肩に取り残されてしまったラジコンカーRCを救出すべく、ウッディとアンディの妹・モリーのオモチャとなっていたボー・ピープが協力して救出作業にあたる。何とかRCの救出には成功するものの、直後にボーは自身の電気スタンドと付属の羊人形・ビリー&ゴート&グラフと共に一家の知人男性に譲られてしまう。ボーと恋仲だったウッディは別れを悲しむが、ボーは自らの運命を受け入れて去って行く。
時は現在に戻り、ウッディやバズ達がボニーの元へ渡ってきて1年。バズやジェシーは相変わらずボニーの遊び相手となっていたが、ウッディは遊ぶ頻度が減少し、次第にクローゼットの中に仕舞われるようになってしまう。それでも、ウッディはボニーの為にと、彼女が通う事になった幼稚園にコッソリ同行する。内気なボニーは中々幼稚園に馴染めず、それを見兼ねたウッディは工作の時間にゴミ箱から先割れスプーンやモール、工作道具をボニーの机に投げ渡す。ボニーはそこで、新しいオモチャのフォーキーを作り出す。ボニーはフォーキーを作った事で明るくなり、彼は1番のお気に入りとなった。しかし、元々ゴミから生み出されたフォーキーは、中々自身をオモチャとして認識出来ず、隙があるとすぐさまゴミ箱に入りたがり、ウッディは手を焼かされる。
ある日、ボニーの一家はキャンピングカーで移動遊園地にドライブ旅行に出掛ける事となり、ウッディやフォーキー達オモチャも同行するが、移動中のフォーキーが車外に飛び出してしまい、彼を連れ戻すべくウッディもバズ達と別行動をする事になる。
夜通しフォーキーと行動を共にする中で、ウッディはフォーキーアンディとの思い出話を聞かせ、彼はようやく自身がボニーにとってどれほど大切な存在かを理解し始める。遊園地に辿り着き、あと少しでボニーの所に辿り着けるまでになった時、ウッディは偶然通りかかったアンティークショップ「セカンド・チャンス・アンティーク」でボーの電気スタンドを見つけ、彼女と再会出来るのではないかと店内に入る。
店内を見て回っていると、ボイスボックスの故障によりおしゃべり人形としての役割を果たせず、それが原因で1度も子供に愛された事のない女の子の人形、ギャビー・ギャビーが現れ、ウッディのボイスボックスを狙って手下の腹話術人形・ベンソン達と共に襲い掛かってくる。襲撃から逃げる中、ウッディはショップ店主の孫娘・ハーモニーに拾われて店外に連れ出されてしまい、フォーキーはギャビー一派に囚われてしまう。
一方、キャンピングカーに残ったバズ達は、中々戻って来ないウッディとフォーキーを心配していた。バズは自らの心の声に従い、車外へと飛び出す。しかし、誤って人間に拾われてしまい、遊園地の射的「スター・アドベンチャー」の景品として貼り付けられてしまう。バズはそこで、子供に貰われる事を望むアヒルとウサギのぬいぐるみ・ダッキー&バニーと出会い、ボニーを持ち主にする事を条件に彼らの協力を得て脱出する。
ハーモニーに連れられて砂場に来たウッディは、迷子のオモチャとして生きていたボーと再会し、隙を突いて逃げ出す。ボーは知人男性に引き取られた後、彼の手からも離れて「セカンド・チャンス・アンティーク」に辿り着いたのだが、ショーケースの中で新たな持ち主を待ち続ける日々に退屈し、外の世界へと飛び出したのだ。
ウッディはフォーキーを救う為ボー達に協力を仰ぎ、別行動していたバズ達とも合流する。一向は更にスタントマン人形、デューク・カブーンらも加え、フォーキー救出作戦に乗り出す。
【感想】
前作「3」では行方が分からなかったボーのその後の顛末が描かれ、ウッディは彼女との再会を経て新たな旅立ちを決意する事になる。
本作でのウッディは、言わば「子育てを終え、セカンドライフの過ごし方を迫られた中年男性」のメタファーである。しかし、彼はあくまで「オモチャ」であって、人間の父親ではないのだ。この「オモチャ」である事と「子育てを終えた中年男性のセカンドライフの選択」とを重ね合わせて描いてしまっている点こそが、本作を賛否両論足らしめている最大の要因なのではないかと思う。
私は、ウッディはアンディ一家における父性の象徴であったと感じている。ウッディ達オモチャこそが、アンディの1番の理解者であり、彼の成長を支え、見守ってきたと思うからだ。しかし、そんなアンディは立派な大人となり、ウッディ達と別れる事が彼の自立の証明であった。しかし、ウッディはオモチャとしての性から、新たな持ち主であるボニーに対しても、過剰な責任感を抱き、干渉せずにはいられない。だが、アンディ一家には予算の都合で父親が描かれず、結果的にウッディに父性の側面も見て取れるようになっていたのに対し、ボニーはちゃんと両親の姿が描かれているのだ。
つまり、ウッディの父性はボニー一家にとっては不必要なものであり、更にオモチャとしての「1番のお気に入り」というアイデンティティも、フォーキーという新たな仲間の登場で完全に席を譲る事になってしまう。アンディにとっての1番のお気に入りだった自分が、ボニーにとっての1番のお気に入りとは限らないのだ。
だからこそ、ウッディは自身の在り方について、新たな選択を迫られる。そして、彼はかつての恋人ボニーと共に、迷子のオモチャとして未知なる世界へと飛び出す事になったのだ。
私は、ウッディのこの選択自体は否定しない。いや、「3」のその後を描くならば、このテーマはまさに宿命だったとすら考える。問題は、その描き方がスマートではなかった点だろう。「3」であれだけウッディに親しみを抱いていたボニーが、本作冒頭ではアッサリと興味を失っており、その様子には唐突感がある。子供らしい「飽き」の残酷さとしてはリアルなのだが、ずっとウッディの視点で物語を追ってきた観客にとって、物語としてこのウッディの扱いはあんまりだと感じるからだ。
ラストの別れも、彼と共に歩んできたオモチャ達まで、アッサリと彼との別れを受け入れてしまうのは都合が良過ぎるように感じた。これは、キャンピングカーをジャックして合流するという手段の強引さが起因して、十分な別れのシークエンスを描ける舞台が用意出来なかったからだろう。
また、ウッディの内面的葛藤に留まらず、本作でのジェシーによるタイヤのパンクや、トリクシーによるカーナビ音声の偽装、バターカップによる運転ジャックという行動は、「オモチャ」としての領分を遥かに逸脱してしまっているのだ。「1」の時点であった「もしかしたら、自分の家のオモチャも…?」というリアリティは完全に失われ(ただし、私は「2」の時点でその点は失われていたと思うが)、最早オモチャ達が人間の行動を支配してしまっている。この辺りは、もっと上手いやり方があったのではないかと思わずにはいられない。例えば、更に別行動をする事になったジェシー達が、遊園地のアナウンス室に忍び込んで、ボニーの両親を呼び出すとか。
このように、本作は扱うテーマこそ正しく魅力的だったはずなのだが、その描き方が不十分であった為に、賛否両論の結果を生む事となってしまったのだと思う。
個人的には、前作から更に進化したCG表現のクオリティには「もはや実写、ウッディ達も実在の人形を撮影したかのよう」と、目を見張るものがあった。扱っているテーマ自体も悪いとは思わない。ヴィランであるギャビー・ギャビーの結末についても、これまでのシリーズにはなかった「持ち主に出会って幸せを手に入れる」というのは好感が持てる。
しかし、ストーリーとしては「3の後にやるにしては弱い」と感じざるを得なかった。単純に、物語としての盛り上がりが弱いからだろう。
ボー・ピープのキャラ性の変更については、彼女の遍歴を知れば、個人的には理解出来る。ウッディに新たな道を提示するのも、彼女でなければそれはそれで説得力に欠けただろうとも感じる。
【総評】
シリーズとして新たな道を提示してみせた本作は、今まで以上に、オモチャに「人間性」を与えた事で、必然的にオモチャとしての領分を逸脱せざるを得ない結果になり、それが賛否両論を生む原因だと推察する。
「1」〜「3」を“旧3部作”とするならば、本作「4」からは“新3部作”の幕開けなのだ。個人的に「人間性の強化」という領域に足を踏み入れた以上、私としては新3部作の結末について密かに期待している点があるのだが、それについては次回作にて言及するとしよう。
思ったより良かった
・当時の人づてに聞いた評判があんまりよくなかったので敬遠していた。この度、5が始まったので観たら結構良かった。子供と一緒にいる事だけが最大の幸せという世界観でウッディらが自分のために生きる事に幸せを見出して別れを決意するというのが今までのシリーズにはなくて良かった。とはいえラストで別れるのはやっぱり寂しくはなる。ただ5の予告を幾度と観ていていたのでそんなに寂しくはなかった。
・おもちゃ達が子供のために身を粉にして頑張る姿は観ていて泣けてくる。ギャビーギャビーが憧れていた女の子に嫌われてショックを受けていた。その後、迷子になって泣いている子供を見つけて助けるために動いたシーンが泣けた。女の子もギャビーギャビーを見つけて少し勇気が出た様子が内向きになっていた感情が外に流れて気持ちが軽くなったんだろうと思い、そういった姿に感動したし、勉強になった。
・アクロバットバイクのおもちゃの跳躍力がCMではないという事になっていたけど、とても飛んでたりしててどっち?と疑問だった。自我がある時は凄い早いって事だったのか。
・ボーピープの腕が折れててテープで固定しているのがとっても痛々しかった。けれど、家にいたころの姿とは一変した強い姿になっていたのはとても良かった。生き方っていうのはいつどこで変わるのかわからないもんなんだなぁって思った。
大傑作としか言いようがない映画。
日本では大変な賛否両論となっているが、個人的には大傑作。
とても素晴らしい映画だと思った。
「子供に遊んでもらうことこそがおもちゃの使命であり、一番の幸せ」という、
これまでずっとずっと、“他人のため”に生きてきたウッディが、
では、ウッディ自身にとっての幸せなのか?
“別の生き方”もあるのではないか?という、
ウッディの価値観を根本から揺らがせるテーマを、本作では突きつけている。
アンティークショップの店名の「セカンド・チャンス・アンティーク」の通り、
正にこの映画は、ウッディの、新たなセカンドチャンスの物語。
存在価値を見失っていた男が、新しい目的を見つけて、愛する人と、新たな旅立ちをする物語。
まさに無限の彼方、即ち無限の可能性がある世界へと旅立ったウッディ。
大きな可能性と希望があふれている、非常に前向きな映画だと思った。
アンディは、トイ・ストーリー3で、親であるウッディから親離れをした。
ウッディは、トイ・ストーリー4は、ボニーから子離れできないをした。
まさに理にかなった続編だと思った。
移動遊園地って行ってみたい
全733件中、1~20件目を表示













