私の少女

劇場公開日:

私の少女

解説

「クラウド アトラス」「空気人形」などで国際的に活躍する女優ペ・ドゥナが、2年ぶりに母国・韓国の映画に出演し、「アジョシ」「冬の小鳥」で演技派子役として注目されたキム・セロンと共演を果たした主演作。とある港町の派出所へ左遷された、ソウルのエリート警察官ヨンナムは、母親が蒸発して父親と義理の祖母に虐待されている少女ドヒと出会う。ドヒを救おうと奔走するヨンナムだったが、自身のある過去が明らかにされ、窮地に陥ってしまう。そんなヨンナムを救おうと、ドヒはある決断をする。2014年・第67回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品され、日本でも同年の第15回東京フィルメックスのコンペティション部門で上映された(映画祭上映時タイトル「扉の少女」)。監督は本作が長編デビューとなるチョン・ジュリ。

2014年製作/119分/韓国
原題:A Girl at My Door
配給:CJ Entertainment Japan
劇場公開日:2015年5月1日

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映画レビュー

4.0【今作は、孤独なエリート女性警視が、ある理由によりソウルから左遷された村で出会った虐待されていた少女を決然と守る物語である。】

2023年10月30日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

知的

幸せ

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NOBU

4.5なかなか深い話

2023年8月25日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

怖い

萌える

おなじ監督と主演で映画が公開されるのでとりあえず鑑賞。

10年前の韓国映画ということで、ちょっと荒い部分もありますが、ストーリーはとても深い。
オープニングのあのシーンの違和感が後半に改修されて納得。
ひと展開ふた展開とシンプルな話から、どんどん深くなっていく展開も良かった。
同棲愛とか小児愛とか虐待とかちょっと深い話でした。
日本の映画やドラマでは撮れないシーンなどもあり、表現の自由を感じました。

「あしたの少女」は、、、この映画のタイトルを無理やり引き継いだようなタイトルですが、、、どうでしょう。

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だるまん

4.0なんで観ていなかったのだろう…

2023年6月6日
iPhoneアプリから投稿

ちょっといろいろ整理してからじゃないと
言葉にできないモノがある

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JYARI

4.0暗雲と驟雨に囲まれた未来

2023年5月17日
iPhoneアプリから投稿

虐待を受ける少女と性的マイノリティの女性警察署所長という取り合わせから、幾重にも重なる弱者性を動力に現代社会の差別性を穿つ告発系か、あるいは社会から透明化された者たちのささやかな交感と立ち直りを描いたエンパワーメント系の映画を我々はなんとなく予期する。しかし物語はそういった安易な着地をみることなく、最後まで疑念と懊悩の靄の中を曳航し続ける。

まずもって我々(そしてイ所長)は虐待を受ける少女ドヒのあからさまにセンシュアルな描かれ方に困惑する。暴力を振るわれ、数多の傷跡が残る身体が痛ましいドヒだが、その一方でどこか危うい官能性を醸出してもいる。イ所長に向かってテレビのモノマネを披露するシーンではタンクトップの隙間からあられもなく脇が露出するし、K-POPアイドルのダンスに合わせてくねらせる腰つきもどこか思わせぶりだ。彼女の「被虐者」あるいは「幼い子供」という無垢性は徐々に剥落し、それによって我々は彼女を守るべき大義名分を見失っていく。元パートナーとのやり取りについてドヒに口出しされたイ所長が思わず彼女の頬を叩いてしまうシーンがあったが、そのときドヒが浮かべた表情には、苦痛とも恍惚ともとれる妖艶なニュアンスが滲んでいた。さて、こいつは本当にただの「暴力に怯える無垢な少女」といえるのか?

不安定なのはイ所長も同様だ。男性だらけの官憲職において、左遷先とはいえ所長の地位に就いていることから、彼女が相当なエリートであることが窺える。しかしそもそもなぜ彼女は左遷されたのか?夜な夜なスーパーマーケットに赴き大量のチャミスルを買う理由は?ドヒに対して本当に何の性的感情もないと言い張れるのか?日常の節々に表れるこうしたできごとや行動を踏まえると、彼女が「自立した強い女」というステレオタイプから外れた不安定な一個人であることが判明してくる。

当然ながらあらゆる人間には固有の機微がある。男だろうが女だろうが大人だろうが子供だろうが異性愛者だろうが同性愛者だろうが関係ない。そしてそれは時としてグロテスクな形を取ることもある。

そうした機微を避け、社会の一般法則から外れた人々を過度に正しい存在として描くこと、そしてそのフィクショナルな「正しさ」を根拠に彼らを守ろうとすることは、結果的には何も見ていない、何もしていないことと同義だと私は思う。それはどこまでも社会の一般法則の内側に向けてのポーズでしかない。

一方で本作は、社会法則から逸脱した人々を「弱者の無垢性」という社会が構築した神話によって救済するという傲慢さを慎重に避けている。しかも巧妙なことに、序盤のうちはあたかもそういう神話を立ち上げるような素振りをみせる。田んぼの畦道を駆けていく白いワンピース姿のドヒはまるで岩井俊二に出てくる少女のようだし、村内に蟠る旧態依然とした風土を改めようと奔走するイ所長の態度は折り目正しく「ポリコレ」的だ。しかし物語が進むにつれ神話は徐々に解体されていき、最後は個人と個人の深い関わり合いの中でのみ理解されうる超社会的決断へと辿り着く。

とはいえイ所長とドヒの未来は暗雲と驟雨に囲繞されている。二人を乗せた乗用車には絶え間なく雨が打ちつける。それはこの世界における個人と社会の位置関係のアレゴリーであるかのようだ。社会から個人への逃避は一時的には成功するかもしれないが、それはそうと社会はある種の自然法則として世界全体を覆い尽くしている。そこから逃れ出ることは容易ではない。雨風をしのぐ屋根もいつかは朽ち果て、吹き飛ばされる。要するに逃げ続けるしかないのだ。命尽きるまで、永遠に。

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