〈映画のことば〉
あなたの落語がどうして面白くないのか、私、分かったわ。
現世に思いを残したまま亡くなった人が、その「思い残し」を解消するために西田敏行さん(最近に物故されたのが残念)の好演が光った一本として別作品『椿山課長の七日間』がありました。
同作は、どちらかというと、亡くなった椿山課長が遺した思念がモチーフになっていたところ、本作は、遺された妻・サヤの視点からということで、設定が逆転している格好でしたけれども。
いずれにしても、冒頭の映画のことばのように「自分勝手だ」というサヤの批判とは裏腹に、不本意にもサヤを遺すことになったにコウタロウの思いの「温かさ」に、何とも言えない気持ちになります。
在りし日のコウタロウの言動を彷彿とするなかで、少しずつ「自分」を取り戻し、最愛の夫・ユウタロウを失っても生きていけることの自信にたどり着くまでのサヤの心の軌跡が胸に痛い作品でもありました。評論子には。
上掲の映画のことばは、サヤのその心の、いわば「着地点」をそのまま表すものとしても、本作中では重要
な意味を含んでいたと思います。
本作は、本作で劇伴を務めている村治奏一さんのコンサートが評論子の住む街で開かれることになり、そのコンサートを聴く前の「予習」として、地元のレンタル店から「緊急レンタル」してきた一本になります。
(『おかえり、母さん』や『こんな夜更けにバナナかよ』等でもいい味の演技を見せてくれていた大泉洋の出演作品としても、前々から注目していた作品でもありました。)
佳作としての評価に充分な一本だったとも思います。
(追記)
生前のコウタロウと実父との確執ということでしたけれども。
コウタロウの父(確か役名はなかった)は、典型的な「昭和のお父さん」だったのだろうと思いました。評論子は。
とくに高度成長期は長時間労働が美徳とされて、残業時間が長い人ほど、いわゆる出世コースの中心にいるとみなされたほど。
(今では当たり前のように叫ばれているワーク・ライフ・バランスなんて、どこ吹く風。残業代を稼がす、自分の時間を大切にするライフ・スタイルを貫く人は、それだけで変人扱いされたものでした。)
コウタロウの父親も、きっと仕事一途の人生で、家庭を顧みる余裕なく働きづめていたのだろうと思います。
画面から窺う限りは、叩き上げの技術者として、コウタロウが亡くなった頃には、自分の仕事で会社を立ち上げ、経営者としても成功している様子ではありましたけれども。
どんな仕事をしているのかとサヤに問われて「つまらん仕事」とだけしか答えてはいないのは、家庭を顧みていなかったことへの自責の念以外には、理由はなかったのだろうと思います。
本作のストーリーからすると、ほんの「脇筋」ではあるのですけれども。
実際にその世代を生きてきた評論子には、そんな感慨もあった一本でした。
(追記)
亡きコウタロウは、作中では、いろいろな人に乗り移ってサヤの前に現れるのですけれども。
彼が最後に乗り移ったのは、彼らの実の子・ユウスケだったというのは、評論子は、とても暗示的だったと思います。
これから、ユウスケと二人きりで暮らしていくのであろうサヤにとっては、言うまでもなく、ユウスケは、亡きコウタロウが彼女に遺した「忘れ形見」にほかならなのですから。
これからは(コウタロウによる陰の支えなく)二人で暮らしを立てていくことの暗示として、これ以上のシチュエーションはなかっただろうと、評論子は思いました。
(追記)
作中に、ときどき挿入されるささらの遠景が、一目でそれと分かるジオラマだったことを、鑑賞の途中までは残念に思っていたのですけれども。(単なる製作予算の都合かと)
しかし、架空のマチ・ささらを印象付けるには、実在のマチでロケーションをするよりも、ジオラマを活用した方が、却って味があったのかも知れません。
他のファンタジー系の作品と対比して、その点は、本作に特筆できる点だったとも思い直すことができました。
(追記)
評論子は、もちろん、どんな死に方をするか自分では分からないのですけれども。
この世に思念を残しての死に方というのは、切ないことだろうとは思います。
その点、配偶者はいない、子供は二人とも家庭を持って、それぞれに暮らしを立てているという境遇の評論子は、あしたクルマに轢かれて最期を迎えても、この世に遺す思いはなさそうです。
それは、それで、また幸せなのかとも思いました。