1999年チェチェン。今ウクライナ。
モスクワに住んでいる人々にこそ、見てもらいたい一本。自分たちの同胞・友がどんなことになっているのか。
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私の評価は低いが、
テーマとしては、一度は観て考えるべき映画だと思う。
宣伝や予告は頭から消して鑑賞されることをお勧めする。
ハジとEU職員の心の交流を期待すると中途半端で不満が残る。NGO職員の言動がせめてもの救い。
監督は『山河遥かなり』にインスピレーションを受け、そのような映画を撮りたいと機会をうかがっていたそうな。『アーティスト』で受賞して(お金が集まりやすくなったので)、やっと撮れたそうだ(インタビュー記事から)。この映画の舞台になっているチェチェン紛争を描きたかったわけではないらしい。”紛争”の中での人々を描きたかったのだそうだ。
『プライベート・ライアン』との共通点を指摘される方もいる。
その二つに、EU職員・NGO職員を絡ませて、世界の動向も映し出す。
第二次世界大戦を生きたユダヤ人の孫である監督ご自身が、いろいろな方面に、文献・調査報告を読んだり、過去の映像作品を見たり、インタビューしたりと、リサーチして作り上げた作品。
原題『The Search 』。直訳すれば、『探索』。ハジが離れ離れになってしまった家族を”探索”しているようにも見えるが…。それだけが含意されているとは思えない。
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街角で補導されて否応なく兵士にされた普通の青年コーリャの物語と、
両親を殺された少年ハジとEU職員との絡みを中心とした被災者側の物語のニ本立てで話が進んでいき、最後に繋がる。
その展開は見事だった。そういう構成にして下さったことで、この軍事戦略が何の為、誰の為に行われているのか、やりきれなさ・虚しさ・怒りが際立ったと思う。
本当にやりきれない、救いがない。全体的に曇り空と噴煙=グレー、セピアの色調とともに、心に重しがのしかかる。
コーリャに降りかかった災難。初めは戸惑い、拒否しながらも、結局その場で生き伸びる為にはその場に同化するしかない。誰が望んだことだ?
ハジに降りかかった災難。それでも彼は自分の生きる場所を少年なりの知恵で開拓していく。この少年の表情に息を飲み、涙し、心を揺さぶられる。
EU職員キャロルは職員なりに、頑張っている。頑張っているんだけど…。
ハジがEU職員との交流で”声”を取り戻していく物語と観ると、展開が早すぎる。頭で考えた上っ面だけをなぞった物語。
そして、EU職員キャロルの無神経さにも腹が立つ。ハジが自国の音楽を聴いている時は「辛気臭い」と否定して、自分の好きなヨーロッパの文化・価値観をハジに押し付けて、その文化をハジが受け入れて”笑っている”事で、ハジの心の傷が癒えたとでも言いたそうな展開。私には、ハジが自分の生きる場所を確保するための迎合にしか見えない。EU職員の、本質のわかっていなささを皮肉ったのか?
勿論、過酷な状況下であっても、子どもは音楽を聴くし、踊るし、笑う。ハジが自分でセレクトした音楽で踊っているのだったら、どんなに感動的だったことか。
かって、アメリカに移民してきたアングロサクソン人が、ネイティブ・アメリカンに課した同化政策、日本人がアイヌの人々に課した同化政策、それと同じレベルの発想。だのに自分だけは人権を意識して動いていると思っているエゴイスト。
そして、絵の場面。ここも”感動”場面として描いているのだろうが、PTSDのことをわかっていない。へたしたら、悪化させる方法を取るなんて!
と、幾つも指摘したくなるがネタばれになるので割愛。
まず、相手の気持ち・状態や文化、大切にしているもの(文化等)を尊重する気持ちがなければ、紛争はいつまでもなくならない。だのに、ハジの価値観を尊重するのではなく、キャロル=監督の価値観を押し付けてくる。
そういう紛争を止めようとしている(つもりの)人々のその無神経さまで赤裸々に描いた作品としてなら、(かって誰も描かなかった?)佳作であろう。けど…。
『プライベート・ライアン』や『ディア・ハンター』なども引き合いに出す。さすが『アーティスト』の監督。昔の作品へのオマージュも抜かりない。音楽・芸術の力も信じていらっしゃるというのがとても伝わってくる。けど、その監督の想いが入りすぎて、作為的になってしまって、かえってキャロルの物語はしらけてしまう。他はドキュメンタリー調で、この紛争の状況、さもありなん、なんだけど。
『プライベート・ライアン』『ディア・ハンター』『山河遥かなり』は未見なので、比較はできない。が、『ホテル・ルワンダ』『パラダイス・ナウ』には及ばない。
谷川さん他御大の方々が絶賛している作品を批評するなんておこがましいけれど、ハジの心に関してはもっと大切に扱って(描いて)欲しかった。ヨーロッパ・アメリカ人にとって望ましいストーリーにするんじゃなく。
唯一の希望は、NGO職員ヘレンが、子どもの喧嘩をNGO職員に止めさせるのではなく、チェチェンの年上の女性に止めさせたこと。しかも命令するのではなく、彼女が動くのをじっと見守ったこと。そういう、ヨーロッパ・USAから助けてあげなければならない被害者認定されている彼らの力を信じる人がいるってこと。勿論、”見守り”と”無視”・”放置”は違うことが前提ではあるが。
と、キャロルにはツッコミどころ満載。理想がから回って上滑りして、無力感が募る。
だが、ヘレンの、現実を見据えた上での希望に一縷の光を見る。
そして、ハジや姉の表情・言動に、涙したり、ハラハラしたり…。とても気持ちを揺さぶられる。
かつ、コーリャの変化に、心かきむしられ、憤りを感じる。
戦争は暴力なのだと改めて認識させられる。
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今「サスティナブル」が世界的なキーワード。
このサスティナブルは、地球環境、ひいては人類存続のために「サスティナブル」なことが推奨されているはずなのだが。
なぜ、いつまでも、武力だけが、”持続可能”で、何度も何度も繰り返すのだろう。
軍事政権を破ったと思われたミャンマーでまた軍部の支配。
ロシアの暴行も、チェチェンの次にウクライナ。今回は石油や小麦等我々にも影響があるからか、チェチェンの時のように世界は静観しておらず、それなりの対策をとっているが、プーチンの暴挙は止まらない。
中国も、台湾絡みで軍事をほのめかしている。
北朝鮮の愚行もエスカレートしている。
イスラム過激派組織の首謀者を暗殺したとUSAが発表したが、次から次に首謀者が現れて、けっして組織はなくならない。
他にも、他にも…。現代だけでも数えきれない愚行の数々。歴史を遡ればとてつもない。
ヒットラーの時もそうだが、力で他者を威圧し支配しようとする者、”排除(駆逐)”する力を見せつけることで他者より優位にたったことをアピールする者。そんな馬鹿な考えを持つ者を支える組織があり、国があり、団体がある。その取り巻きは何を考えているのだろうか。洗脳されてしまった人々。なんでそういう人が生まれるのかを考えないと、本当の”サスティナブル”は生まれないのではなかろうか。
こういう映画を見る度に、「何ができるか」と口々に叫ぶ人がいる。
とりあえず、コーリャのような青年を生み出さない仕組みを作り出そうかと思った。