ジャージー・ボーイズ : 映画評論・批評
2014年9月16日更新
2014年9月27日より新宿ピカデリー、丸の内ピカデリーほかにてロードショー
イーストウッドが見せる「遊び人の達観」とトルクの大きな車
アメリカの批評家たちは、なにを考えているのか。あるいは、なにを求めていたのか。
「ジャージー・ボーイズ」を2度見て、アメリカの新聞や雑誌に載った映画評を眺めているうち、怒りがめらめらとこみあげてきた。
発明が少ない? 活気が足りない? 寝言も大概にしたまえ。君たちは、「バンド・ワゴン」や「グレン・ミラー物語」を評価せずに「シカゴ」や「NINE」を褒めそやすのか。
私は「ジャージー・ボーイズ」の味方をする。ザ・フォー・シーズンズが中学生時代の私のヒーローだったことは事実だが、ノスタルジーを抜きにしても「ジャージー・ボーイズ」はよくできている。エンジンの回転が速いわけではないものの、トルクが大きくて悪路や急坂を苦にしない車、と呼べばよいか。
背後にあるのは、「イーストウッドの底力」だ。ファンシーな装飾を、彼は好まない。サクセスに焦がれるアメリカン・ドリームにも、さして興味を持たない。むしろ彼は、大恐慌時代に生まれたブルーカラーの若者たちが野暮ったく努力し、有名になったあとでも人生の浮き沈みを味わうというプロセスを、50年代映画の平叙体を借りて描こうとしている。
だとすれば、ダーティな斜面やスキャンダラスな部分をことさらに強調しない理由も納得できる。そこに眼をつぶるのではなく、「そんなもの、あって当たり前だろ」と考えるのが彼の姿勢だ。いいかえれば、「遊び人の達観」。最後の巨匠と呼ばれようが、イーストウッドは遊び人の流儀を捨てない。拍手だ。
(芝山幹郎)