ブルージャスミン : 映画評論・批評
2014年5月7日更新
2014年5月10日より新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマ、シネスイッチ銀座ほかにてロードショー
戯画化され、「サンセット大通り」ばりに鬼気迫るブランシェットのリアリティ
近年、ヨーロッパ各地を舞台に、いささか能天気で瀟洒なライトコメディを連作していたウッディ・アレンが久々に本国に帰還して撮った、ヘビーでビターな秀作だ。ニューヨークでの優雅なセレブ生活から一転、すべてを失ったジャスミン(ケイト・ブランシェット)が、シングルマザーの妹ジンジャー(サリー・ホーキンス)が住むサンフランシスコの安アパートに身を寄せ、再出発を図る。
生粋のニューヨーカー、ウッディ・アレンは名作「アニー・ホール」でNYを礼讃する一方で、アメリカ西海岸を徹底して揶揄していたが、本作では、NYは回想シーンのなかでジャスミンの虚飾に満ちた書き割りのような背景としてあるだけだ。そして過酷な現実のなかで、西海岸の市井の人々は誇張を交えながらも愛すべき俗物として活写されている。最大級に誇張され、戯画化されているのはジャスミンである。一文無しなのに、根拠のないプライドと過去の虚名のみを糧に生きる、この傍迷惑なヒロインは、見る者の共感を完璧に拒む。ウッディ・アレンは、ジャスミンが周囲との軋轢で精神を崩壊させてゆくさまを、あたかも昆虫を観察するような冷徹さで淡々と定点観測する。その辛辣さは、ジャスミンが野心的なエリート外交官と出会い、地の底から這いあがるように、再起を切望するエピソードで頂点に達する。
ここにおいてケイト・ブランシェットは、「サンセット大通り」のクライマックスで鬼気迫る演技を見せたグロリア・スワンソンばりの大見得を切る。こんな一見、大時代な身振りと表情が、切なくもいじましい、異様なリアリティを帯びてしまう瞬間、ケイト・ブランシェットはオスカーを手中にしたといえよう。
この映画には、ウッディ・アレンが愛してやまないチェーホフ的な、メランコリックな笑いが全篇に漂っている。それゆえだろうか、エピローグで流れてくるコナル・フォークスのピアノ・ソロによる「ブルー・ムーン」の美しい旋律が忘れがたい。
(高崎俊夫)