愛、アムールのレビュー・感想・評価
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この作品に比べたらホラー映画なんて全部ディズニー作品だし
ホラー映画じゃないのに 本当に怖いって心の底から思った作品てこれが初めてかも知れないくらい恐ろしい話です! リアル介護の怖さ これ全員絶対にいつか来る話だし 介護疲れで殺したってニュースも実際あるし 演技でこれやってるとは思えないくらい色々とエグいんですよ! しかも最初に死んでる所からスタートしてるので結果がわかった上で見るので相当キツイです! 同じ監督のファニーゲームとか自分は嫌な話だけどそこまで胸糞って感じにもなりませんでしが アムールは攻撃力が高すぎて余韻も酷いしとんでもない作品だと思いました!
観ていた時は泣かなかったんだけど
「愛、アムール」について、思い出すといつの間にか涙が滲み出してきて、どうにも言葉が滑らかに出てこない。
劇中、ジョルジュが昔観た映画の思い出を語るが、思い出の中のジョルジュのように、語ろうとすると映画を観た時よりも感動して、胸を鷲掴みにされるような感覚がある。
物語が自分の中で再構築される時、自分の心の中の大切なものの記憶が引っ張り出されるような、そんな感覚がこの映画にはある。
すべてのエピソードが無駄なく絡み合い、すべてのシーンにほどよい余白があって、映画を観た人それぞれが自由にこの映画を解釈出来る余地がある。
その一方で、映画が持っている「愛」というテーマは決して霞むことがない。
病に倒れても大好きな夫の側にいたい、と思うのは我が儘だろうか。そんな彼女の願いを聞き入れるのは、ただの意地だろうか。
どんな困難も夫婦二人、力を合わせて乗り越えてきた。新たな局面を迎えて、今までと同じように二人で乗り越えようとすることは無謀だろうか。
人生の冬に待っている、パートナーとの別れという苦痛は、愛が迎える最後の試練である。
消え行く命を感じて、アンヌはそれでもジョルジュの「可愛い人」であることを望み、それが叶わぬ事に絶望した。
自分が思っている以上に無惨に変わり果てたことは、まだ若い娘や教え子の目を通して、アンヌに突きつけられたのである。
そんな妻の心の痛みに、ジョルジュは最後まで寄り添うと決めた。妻の望みを叶える。「死にたい」という願い以外は。
病院にも入れず、看護婦を雇い、最大限の助言を受け入れつつ、生活のほとんどを妻に寄り添う姿は感動的である。
鳩についての解釈はそれぞれだと思うが、私は「天からのお迎え」だと感じた。
誰が開け放ったのかもわからない窓から舞い降りた一羽目の鳩。妻を逝かせはしない、と追い払ったように感じたのだ。
しかし二羽目の鳩を見て、ジョルジュは自らもまた最期を迎えるのだと悟ったのではないだろうか。
鳩を抱き締めるジョルジュは、彼岸の彼方に飛び立つことを受け入れるように鳩を抱き締めたのではないだろうか。
冒頭、花が一面に敷かれたベッドで眠るように目を閉じているドレス姿のアンヌが写る。
映画の終盤、サマーキャンプでの母との暗号を語るジョルジュの言葉を信じるなら、一面の花は「あなたと一緒に過ごした日々は、最高に楽しかった」というアンヌへの最後の愛のメッセージである。
音楽家の夫婦、その最期を迎えて、彼らが奏でてきた音楽が消え去ったことを示す無音のエンドロールに、寂しさと哀しさが込み上げてくる。
やっぱり、思い出すだけで涙が止まらない。
愛について描かれた名作映画は数多くあるが、いつか自分も迎えるであろうその時を、こんな風に愛に満ちたままで迎えたい。
辛いけど愛の形
とても重く見ているのも辛い。
互いに愛しているからこそ
壊れていく姿を見るのも辛いし
それを見せるのも辛かろう。
しかし互いに信じ合ってるからこそ
貴方以外には見られたくない、という気持ちも理解できるし
それにも応えようともするだろう。
でも聖人ではないのだ。
紆余曲折の末、介護に疲れたのもゼロではないだろうけど
安らかにいるその時に
本人の望み通りにしてあげようという
これも愛の形。
最後夫はどうなったのか。
鳩が象徴的である。
二人で共に出かけていた
あの頃、が胸を締め付ける。
大事な人も自分も常に今の状態ではない。
限られた時間を大切にしようと
胸に刻む作品だった。
高齢化社会ニッポンから見れば表面的で不出来な介護映画
作品を観た後、ハネケ監督のインタビューを読み、次の点が印象に残った。 「病気であるとか、死であるとか、そういうものを描いた作品ではなく、これは愛について語られた映画なのです。すでに見た多くの人たちから、観た後は何か慰められた気持ちになって映画館を出ることができた、という言葉を多く聞きました」 ここに言う「愛」は、非キリスト教圏の日本では「夫婦関係」と理解するほうがいいだろう。 本作では、妻が疾病と手術の失敗により、急速に衰弱して人間としての機能を喪失していく。これに伴い夫婦関係が相互交流と互恵から、依存と介護に移行する過程を丹念に追いかけるのが映画の中心である。その意味では本作を「介護映画」と呼んでもいいはずだ。 高齢化社会の日本は世界に冠たる介護先進国であり、すでに半世紀前に『恍惚の人』が社会に衝撃を与えて以来、介護と家族をめぐる映画には事欠かない。もちろんニュースにも介護で離職した人の話や、施設に預けようにも施設がない、施設に入所させる費用がない、自宅介護の挙句離婚した、糞尿に塗れながら介護した、最近では老々介護で共倒れになった…等々という悲惨な話は枚挙に暇がないのである。 そうした先進国ニッポンの視点からは、ハネケの作品は「愛」の名の下に、介護の身体的、精神的、経済的、衛生的にいちばんきつい部分を見ないふりした、表面的で不出来な介護映画にしか見えない。 「観た後は何か慰められた気持ちになって映画館を出ることができた」だって? そりゃあ、痴呆状態の奥さんを縛り付けたり、奥さんが身体や廊下や壁にべったり塗り付けた糞やまき散らしたオシッコを拭き取ったり…という「愛」の最終的な姿を、この作品が描いていないからでしょうよ。
認知症の妻の介護をする夫。 いわゆる老々介護を扱っている。 「感動...
認知症の妻の介護をする夫。
いわゆる老々介護を扱っている。
「感動作」ということだが、私には感動するようなポイントはなかった。
ただ、目を背けてはいけない問題ではあると思う。
介護に頑張り過ぎて、疲れて妻を殺害してしまうという最悪の展開。
ただ、最後のシーンでは妻は普通に生きていたが、あれは何だったのか。
「典型」ではなく「人間」の提示
202303 555 ----- 書籍『ミヒャエル・ハネケの映画術』より、一部 デビュー以来、幸せな瞬間を映すことを拒んできたわけではありません。ですが、私の印象ではメインストリームの映画があまりにそれを濫用してきたために、駄作に堕することなくそれらを撮影することが難しいように思われたのです。駄作にならずにポジティブな物事を映す力は、人が手にしている芸術的な力に比例して増大するのだと思います。今日、私がかつてよりも少しばかり軽率に振舞っているのはそのせいかもしれません。私の初期作品であるオーストリア三部作は典型の提示でした。『愛、アムール』の登場人物たちは、典型というよりは人間なのです。それは、『コード・アンノウン』以降の私の映画の変化であるように思われます。この映画にも、『隠された記憶』と同様に、すでに優しさの瞬間があったのではないでしょうか。 連続した固定ショットのモンタージュからなる二つのシークエンス―無人のアパルトマンと絵画―は、それぞれ、脚本執筆の段階から、音楽でフェルマータ(中断、ないしは、ある音や和音、休止の延長を指示する音楽用語)と呼ばれるものが欲しいと感じた時に入れています。辛いシークエンスの後で、画面に少しばかり息抜きを入れるためです。 無人のアパルトマンの連続ショットは、リヴァの入院の直後です。それは、ある瞬間からある瞬間へと、いかにしてすべてが消えてしまうことが起こり得るのかということを示しています。夜の場面なので、不安感が増しています。 絵画の連続ショットは、トランティニャンがリヴァに平手打ちするシークエンスの直後です。彼がリヴァに水を飲ませようとするのに、彼女は死にたいのでコップの中身を吐き出してしまいます。私にとっては、ここが作品中で最も暴力的なシークエンスであり、作品の大きなテーマを問うています。愛する人の苦しみにどう対処するのか。密室から出ることなくそれを表現するのに、無人か、もしくは、世界から遠く離れた二人の人物が書き込まれている広大な風景画のアイデアを思いつきました。私はどんな風景画にしたいかの完全なイメージを持っていて、最初、美術監督のジャン=ヴァンサン・ピュゾが見せてくれたスカンジナヴィア地方の絵画の写真は完璧にイメージ通りでした。しかしそれらの絵画は別々の美術館に所蔵されており、撮影のために持ち出すのは不可能だったので、最終的には別の絵画を選びましたが、スカンジナヴィア地方のものの方が良かったと今でも思っています。 妻を殺す前に彼女に語るサマーキャンプの思い出は、私が体験したことがらです。台所で彼が彼女に語る映画の話も同様です。しかし、それはものを書くとき、人がいつもすることです。私たちは個人的に起きた出来事やいつかどこかで考えたことを再び取り上げます。さもないと、月並みな決まり文句に堕してしまいます。しかし、私個人の人生に由来することを、自分の映画で明らかにする必要は一切感じません。本作で物語った話は私の両親の話ではありません。たとえ、私の母親が何度も自殺を試みたのが事実であったとしてもです。 若きピアニストのアレクサンドルの態度は、今日、若さの盛りにある人々が老いを見せられた時に感じる気詰まりを表しています。彼らは老人たちとどうやって暮らせばいいのかわからないのです。習慣がないのです。かつての若者たちは老人たちの隣にいて、彼らの抱える問題を理解していました。今日、老人の数は増えていますが、彼らは片隅で暮らしています。 ジョルジュは必ずしも死んでいません。彼は単に出ていっただけかもしれない。なぜなら、冒頭のシーンで、玄関の扉は目張りされていませんでした。 私が好むのは、日々の生活の非常に具体的な細部が人間存在の真実に近づかせてくれることです。例えば、作品の冒頭では、映画の観客がコンサートホールの聴衆たちの中にいるアンヌとジョルジュを発見するようにしました。彼らは群集の中にいる二人の人物なのです。なぜなら、彼らの物語は誰にでも訪れることがあるからです。 ----- Score収録曲 1 即興曲 変ト長調 作品90-3 D899-3 (映画より) / アレクサンドル・タロー 2 即興曲 ハ短調 作品90-1 D899-1 (映画より) / アレクサンドル・タロー 3 バガテル ト短調 作品126-2 (映画より) / アレクサンドル・タロー 4 コラール前奏曲:主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる BWV639 (映画より) / アレクサンドル・タロー 5 楽興の時 第3番 ヘ短調 作品94-3 D780-3 (追加曲) / アレクサンドル・タロー 6 バガテル イ長調 作品33-4 (追加曲) / アレクサンドル・タロー 7 バガテル ハ長調 作品 33-2 (追加曲) / アレクサンドル・タロー 8 映画からのダイアログ抜粋 シーン1 (アレクサンドル・タロー、エマニュエル・リヴァ、ジャン=ルイ・トランティニャンの対話) (ボーナス) 9 映画からのダイアログ抜粋 シーン2 (ジャン=ルイ・トランティニャン、エマニュエル・リヴァの対話) (ボーナス)
生活音
10年ぶりに鑑賞。陰鬱で重苦しい映画だと思って見たが、不思議とあまり暗くさせられず、10年前とはまるで違った感想を持った。 10年前に見た時は、この旦那さんが介護ストレスでどんどんヤバくなっていって、最終的に「耐えきれずに」シャットダウンしてしまったように捉えたのだが、今回鑑賞した感想としてはこの「外界から見ればヤバくなっていっている」姿に強力な整合性が持たされていて、彼が発狂したわけではないとハッキリ描かれているように見えた。 これは見る人や年齢や経験値によって捉え方だいぶ変わるのかも知れないが、今回の私の感想は、旦那さんが最後まで愛を貫いた物語だというもの。そしてここで語られる愛は、根本的に2人の間にのみ存在するものであって、外側からの見え方とは大きくギャップするものだということ。 そういった温かな印象を作った要因を考えると、まず配色が思い当たった。 家の中の色がとかく常に美しくて、光の射し方にかなりこだわりを感じた。あれのおかげがあって陰鬱な気持ちが和らいだ。 また、ラスト近くでキッチンから生活音が聞こえてくるシーンがあまりに感動的だった。こういう「幻を見ちゃう」みたいな演出は本来かなり嫌いなのだが、この演出はあまりに見事だった。 序盤で奥さんが出しっぱなしの水を止めたのをきっかけに、生活音はどんどん無くなっていき、それを演出するためかBGMまでまるで無いシーンが長く続く。たまに聞こえるのは自分達の心情を理解しない娘さんの怒鳴り声。そこで引っ張りに引っ張った分、ラスト近くで幻聴した生活音が凄まじく美しい音に聞こえる。こんなに地味で美しいスペクタクルがあるだろうか。
リアル介護ホラー
オチが最初で それに向かって進んでいくので 嫌ーな気持ちで延々と見るハメになって 障害演技がリアル過ぎてガチのやつを見てる気分にさせられます 下手なホラー映画ではこの 作品にはIミリ足りとも勝てて無いくらいヤバいです 見終わった後しばらくよくないほうの余韻も残るし ハネケ作品らしいといえば それまでだけど 普通にとんでもない内容で見たく無い部分を見せつけて来るんで 覚悟して見ないと次の日の仕事に影響出ます!
ただ、愛だけ
映画として特筆すべき点は、冒頭からいきなり悲惨な結末が明かされること。 その上で、そこに至るまでの夫婦の介護生活が2時間たっぷりと、極めて精密に描かれていく。 その介護生活は、長年連れ添った夫婦の愛の深さを十分に感じさせてくれるもので、観ていて心が温かくなる。 フランスのベテラン俳優である二人の演技が、実にリアルで素晴らしい。
それだけに、「なぜ、一体どんな形で、いつ、冒頭で明かされた悲劇的な結末へとつながってしまうのか…」という気持ちを持ちながら老夫婦の介護生活を観ていくことになる。 そして最後、ついにその瞬間が来るのだが、夫婦の愛情関係はもう十分にわかっているので、夫の短絡を責める気持ちには、もちろんならない。 なんというか、諦念のような気持ちに心を留めさせられるのだ。
終始重たい静けさを湛えたこの映画は、タイトルに「愛」が付いているように、夫婦の愛情を描いた作品だ。 老いと死という人生の影の面を背景に、愛という陽の面を写実的に浮かび上がらせた、フランスならではの、深い愛の哲学を語った映画と言っていいだろう。
私は、3年経った今でも、あれやこれやと母の死に対して後悔と懺悔を繰り返している。 身内の死にまとわりつく罪悪感は、誰でもそうかもしれない。 でも、せっかくこの映画を観たのだから、善悪に苦しみ孤独に喘ぐばかりではなく、もっと愛の喜びに目を向けて生きた方がいいのかもしれない、と思った。
深い愛情を有難う。 永遠の幸せを願っています。
現実を直視出来ない私がいる
確かに役者さんは素晴らしい。 そして「愛」の形を描いたものかもしれないが、あまりにもリアル過ぎて…。 途中で降りてしまった…。
つらく、痛々しい
介護の話、そして結末は…と、文章にしてしまうと数語で終わる。それをただ丁寧に、静かに描き続ける。場面のカットの仕方が独特で、ストーリーとは直接関わりのないシーンを一呼吸、二呼吸、長回しで撮っている。それが独特の雰囲気を醸し出し、観る者に考える余地を与える。結末はつらく、痛々しい。これを観て感動するか、絶望するか、人生への向き合い方が問われる。
愛は当事者しか分からない
非常に淡々と話が進みます。舞台は変わらず、音楽も無し。 舞台が変わらないと演劇っぽく見えるモンですが、 この話は寧ろ目の前の現実を見ている様なリアリティ。 それ故か、見ている最中の感動は少なくイライラする。 しかし見終わった後、このタイトルが「愛」であると再認識すると、 この結末に妙に納得してしまう。 社会通念上赦されないことであっても、この二人には「愛」であると。 「二人の愛を確認すると安心するの」 ラスト、何だか清々しい表情をしていた娘は、 二人の「愛」を確信したのであろう。 この主演の老夫婦二人は、ホントの夫婦のような存在感で、 この二人無しでは成り立たなかったであろう。 特に妻の、徐々に病状悪化していく様はとてもリアル。 女性で妙齢なのに、見事に演じきっている。 見た後にいろいろ考えさせられ、そして滅入る映画。 でも見てる最中は、ちょっと眠気と闘わないといけないかも…。 特に鳩を追ってるシーンは、あの尺要らない。
【ミヒャエル・ハネケ監督作品の中でもストレートに人間性肯定をベースに描いた秀作】
- ミヒャエル・ハネケ監督作品なのに、終始優しい視点で老夫婦の関係性を描いており、後半はホロっとさせられる。- ・ハネケ組、常連のイザベル・ユペールも至極真っ当な役で出演しており、パルム・ドールを連続受賞したのは周知の事実。 ・心に響く良い映画であった。 <が、この監督はこういう作品であれば(当時の)パルム・ドール審査員に響くだろうと思っている確信犯であるとも思った作品。 個人的には「ファニーゲーム」を継承する不穏、不条理路線で行っていただきたいなあ。> <2014年2月6日 劇場にて鑑賞>
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