日本のインディー映画──だと思うが──に感心したのは初めてだった。とても印象に残っている。以来、しばしば監督の栗村実や主演の佐久間麻由の名前を映画を検索した。監督自身の書き下ろしになる脚本がとてもしっかりしている。ほとんどびっくりするほどの起承転結だった。
わたしも青かったころ、食べることに対して卑しさを感じたことがある。その概念が重篤なばあい、拒食や過食や、潔癖に至ることがある。顕在化しなくても、個人としてずっと抱えている人もいる。先鋭なヴィーガンに対して、青さの名残りではないか──と感じることもある。
バラエティだったかもしれないしテラハかあいのりだったかもしれない。忘れてしまったが、とある若い女性アイドルが、みんなで食べようって時に「わたし人のにぎったのは食べられないの」と言った。おにぎりか何かだったのだろう。それで周囲は「そういう人っているよね」という感じですんなり理解して、まとまった──というシーンだった。
シーンは収まりがついたわけだが、厳密に言うなら「わたし人のにぎったのは食べられないの」は作り手に失礼であろう。言うなら「おなかすいてないの」とか「ごはんは抜いてるの」とかにするべきだと思う。
唐揚げとレモンしかり、食にたいする個人的な考え方は、ときとしてそれを披露する必要がない。必要がないばかりか、集合体の協調性をみだすばあいもある。
ただ、そういう人っているよね──と、なんの抵抗もせず解せるのは、わたしたちが、食べることに対して、良きにつけ悪しきにつけ、執心してきたからだと思う。
その普遍性がこの映画にはあった。登場人物の潔癖も拒食も過食も、そこまで重篤ではないにせよ、わたしたちが何となく自分のなかにも見いだせるものだった。それらのオブセッションを乗り越えるできごとがここには描かれている。ドラスティックなほど鮮やかにまとまる。
エピソードには映画的な象徴がありヒロインには女神的な過介入の魅力があった。酢臭からは汗を連想するゆえ、酢飯をにぎった手をして「この匂いがすき」と言わしめるのは大きな人間度だ。人の癖っぽさを越えて共感できるところに乙女の所以があったと思う。