桜桃とタンポポ
『ヴィヨンの妻』を観終えた時、私は大谷譲治という男について考えていた。
タイトルにもなっているフランソワ・ヴィヨン。
中世フランスの詩人であり、窃盗や放浪を繰り返したならず者詩人。
酒、女、金への欲望を書き、自らの醜さを隠さず、それでも生きる人間を描いた人物だという。
太宰治は、そのヴィヨンに自分を重ねた。
だが、作品の中の大谷を見ていると、どうも違和感が残る。
確かに酒は飲む。
金も盗む。
女にも走る。
しかし、どこかサマにならない。
悪人になりきれない。
開き直れない。
常に自己嫌悪を抱えている。
ヴィヨンのように生きようとしているのに、ヴィヨンにはなれていない。
むしろ、自分にないものを追いかけ続けているように見えた。
おそらく太宰は、大谷というアバターを置いたのだろう。
そして、その妻であるサチを置いた。
自分という人間を見たかったのだと思う。
自分を理解したかったのだと思う。
そのために妻の目を借りた。
ところが、その妻はヴィヨンを知らない。
文学にも興味がない。
大谷の小説も読まない。
だから大谷を分析しない。
ただ見ている。
ただ生活している。
それなのに、大谷がどう動くのかはよくわかる。
五千円を持って現れることも読める。
店へ来ることも読める。
人質になっても大丈夫だと思える。
理由は説明できない。
しかし行動は読める。
長年連れ添った夫婦だからだろう。
だが、それ以上は踏み込まない。
「私の知らないことは、いっぱいある」
サチはそう言う。
現代なら、その理由を知ろうとする。
分析しようとする。
理解しようとする。
しかしサチは違う。
わからないものはわからない。
そのままにしておく。
だから壊れない。
私は途中まで、サチの強さとは何なのだろうと考えていた。
そして終盤、ひとつの場面に引っかかった。
辻の事務所を去る場面である。
サチは娼婦と何度も「グッドバイ」を交わす。
そして娼婦から買ったルージュを、そっと庭へ置いていく。
その脇に咲いていたのがタンポポだった。
最初は気にも留めなかった。
しかし副題を思い出した。
『桜桃とタンポポ』。
桜桃は太宰を思わせる。
苦悩し、自分を見つめ続ける存在。
一方タンポポはどうだろう。
踏まれても咲く。
誰に見られなくても咲く。
ただ生きている。
あの場面のサチは、辻との関係を終えようとしていた。
辻への執着。
若い頃の思い出。
女としての感情。
罪悪感。
様々なものを抱えながら、それでも置いていく。
なかったことにするのではない。
忘れるのでもない。
抱えたまま前へ進む。
ルージュを置くという行為は、まるで感情そのものをそこへ置いていくようだった。
大谷は違う。
罪悪感を抱えれば酒へ向かう。
苦しみを抱えれば自分を追い詰める。
何者かになろうとする。
ヴィヨンになろうとする。
だがサチは、自分が何者かを問わない。
わからないものはわからない。
それでも生きる。
それがタンポポだったのではないか。
だから最後の言葉も違って聞こえる。
「人非人でもいいじゃない。生きていさえすればいいのよ」
これは夫を理解した人の言葉ではない。
最後まで理解できなかった人の言葉だ。
しかし理解できなかったからこそ、
「それでもいい」
と言えたのかもしれない。
太宰は、自分を解剖したかった。
大谷という自分を置き、
妻の目で見ようとした。
しかしサチは解剖しなかった。
分析もしなかった。
説明もしなかった。
最後まで、
「私の知らないことはいっぱいある」
と言い続けた。
だから太宰は最後まで自分が何者なのかわからなかった。
ヴィヨンを追いかけてもわからない。
小説を書いてもわからない。
妻の目を借りてもわからない。
何も解決しなかった。
だが、ひとつだけ残ったものがある。
それは答えではない。
理解でもない。
タンポポのように生きるということだった。
人は何者かになれなくてもいい。
人非人でもいい。
わからないままでもいい。
ただ、生きていればいい。
『ヴィヨンの妻』は、そんな物語だったように思う。