月曜日に乾杯!

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月曜日に乾杯!

解説

「素敵な歌と舟はゆく」などの名匠オタール・イオセリアーニが、退屈な日常に嫌気が差した中年男性の気ままな旅を独特のユーモアでつづったコメディドラマ。

フランスの小さな村に暮らすヴァンサンは、毎朝5時に起き1時間半かけて職場の工場へ通い、単調な仕事をこなしている。家では雑用ばかり言いつけられ、趣味の絵を描く余裕もない。そんな毎日にうんざりした彼は、ある日突然仕事をさぼって旅に出る。水の都ベニスを訪れた彼は、そこで意気投合した気のいい仲間たちと飲んだり歌ったりして自由を満喫する。

映画・テレビのプロデューサーを本職とするジャック・ビドウが主人公ヴァンサンを好演。2002年・第52回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(最優秀監督賞)と国際批評家連盟賞を受賞。

2002年製作/127分/フランス・イタリア合作
原題または英題:Lundi matin
配給:ビターズ・エンド
劇場公開日:2023年2月17日

その他の公開日:2003年10月11日(日本初公開)

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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映画レビュー

3.5家出おじさんのヴェネチア漫遊メンタルヘルス。さあ、酒と舟と歌の楽園でデトックスだ。

2023年4月15日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

前作『素敵な歌と舟はゆく』では、ラストでおやっさんが出奔し、ホームレスの友と共に酒を積んだヨットで海へと旅立った。 本作では、中盤くらいにはもうオヤジは出奔し、やはり南の海――ヴェネチアを目指す。 仕事に行き詰まり、家庭に行き詰まり、多方面でにっちもさっちもいかなくなった中年男の「再生」のための逃避行。 女性が一人旅に出る映画ってそれなりにある気がするけど、オヤジがセンチメンタルジャーニーに出る映画ってどれくらいあるんだろうか(笑)。 まあ、序盤はとにかく退屈きわまりなくてですね。 ぶっちゃけ、どうしてくれようかと思いました。 作り方はいつものイオセリアーニ群像劇なんだけど、笑える描写がない。オチがない。動きがない。ただただ陰鬱で、ダウナーで、つまらない日常が描かれる。 でもここはぐっと我慢の子。 お話の組み立て上、必ずヴェネチアまでたどり着いたら、ぱああああっとトーンは明るくなり、どおおおおおっと話も動き出すはず。 前半は、主人公にとってひたすら灰色の重苦しい時間なわけだから、 観ているこちらにとっても同様にそうであるのは道理。 いまはタメ。タメの時間。だから、こっちもぐっと踏ん張ってタメに耐える。 我慢した甲斐はあった。 中盤以降、しり上がりに映画は楽しくなり、 最後には、思いがけないくらい、晴れがましい気分で 映画館を出ることができた。 同じ家族。同じ街。同じ隣人。同じ車。 でも、見え方がちがう。人生の充実度がちかう。 リフレッシュって、本当に大切なんだな、と。 いざとなったら、すべてをなげうって逃げてしまうのも、あるいは手なんだな、と。 現実世界では、きっとそんなことはないし、 主人公と同じことをやったら、二度と行き場所がなくなっておしまいかもしれない。 でも、フィクションとして、たしかに男の「再生」に立ち会えた実感がある。 都合のいい話であったとしても、これはこれでいい。 ラノベやなろう小説よりは、ずいぶんと高尚だけど、 これも一種の「異世界転生」。 あるいは「逃げるは恥だが役に立つ」。 出だしの重苦しくまとわりつくリアリズムが、 「ヴェネチア」という「非日常の奇跡」を経て霧散し、 いつのまにか牧歌調の御伽噺のような空気を身にまとう。 気が付くと、いわゆる「ノンシャラン」な世界に様変わり。 すなわち、男性の再生に合わせるように、 映画(物語)のジャンル感までが塗り替えられてしまう。 いい映画じゃないか。 ― ― ― ― 映画としては、前作『素敵な歌と舟はゆく』でサブテーマ扱いだった「中高年男子の日常からの離脱と再生」を、今回はメインテーマにして撮ったといった感じだ。 若者たちの恋模様や子どもたちの創作活動などは、今度はサブのほうに押しやられている。 早朝に起きて、工場に長時間かけて出社し、帰って来るだけの退屈な日々のルーティーンと、子どもや妻からは邪険に扱われる家庭での生活。 ある日唐突に彼は会社をサボり、父親を訪ね、軍資金を手に入れて、ヴェネチアを目指す。 陽光ふりそそぐ、舟と歌と酒と宴に満ちた愉快な街。 イオセリアーニを知らない人は、ここに出てくるヴェネチアの人々の人懐っこさや、陽気でおおらかな人柄を「いかにもラテンっぽい」ととらえるだろう。 だが、これまで何本もイオセリアーニ映画を観てきた人間なら、即座に理解するにちがいない。ここで描かれているヴェネチアの空気が、そのまま実は「ジョージアの空気」であることを。 ヴェネチアという名で偽装された「ジョージア」。 イオセリアーニは、イタリアの地に、酒と歌が支配するかりそめのジョージアを現出させ、そこで疲れ果て生活に倦んだ男を再生させようとしたのだ。 とにかく初対面の人間には酒を薦め、一気飲みで友情を分かち合い、ガンガン煙草を吸いまくる。酒宴では歌がつきもので、みんなで多重合唱(ポリフォニー)を唱和してみせる。赤の他人を自宅までまねいて、一晩の宿を提供する。男たちは常にホモソーシャルな親密さでいちゃいちゃする一方、母や娘は厳格な生活のルールを体現する。掏摸にあっても泰然としていて、二度目にあったときは「今日は無一文なんだ」と掏摸に対して申し訳ながってみせるくらいに軽犯罪に対して鷹揚……これらは、これまでのイオセリアーニ映画が手を替え品を変え描こうとしてきた「ジョージアの国民性」そのままである。 やはり彼は、何を撮っても「ジョージアの映画」を撮る監督なのだ。 『素敵な歌と舟はゆく』では、イオセリアーニとアミラン・アミナラシヴィリの二人が作り出すインティメットな空間だけが、パリで「仮想のジョージア」を成立させる「精神的な飛び地」として機能していた。 『日曜日に乾杯』では、その魔法の範囲が「ヴェネチア」全体――いや、エジプトまで含めた地中海沿岸全体にまで広がっている。 そういえば、ジョージアは黒海沿岸の国だ。ここでは「地中海」が「黒海」の地理的な位置を「肩代わり」しているわけだ。 イオセリアーニは、ヴェニス傷心旅行という『旅情』(55)以来の枠組みを借りて、自らの執着する「ジョージア原理主義」を偽装してみせる「技」を見出したのだ。 ヴェネチアを舞台にした映画は、『旅情』以外にもいろいろある。 明るい避暑地としてのヴェネチアに生の光と死の影を見出す、ヴィスコンティの『ベニスに死す』(71)。商業的な表のヴェネチアから一歩曲がった裏路地の暗黒面を、魔界迷宮都市さながら不気味に描き出した、ニコラス・ローグの『赤い影』(73)。 その意味でいうと『月曜日に乾杯!』のヴェネチアは、ヴェネチアだといいながらジョージアでもあるのだから、とりわけ個性的なヴェネチアなのだが、いちおうきちんとリアルなヴェネチアらしさも描き込まれている。 観光客向けの美しく整備された書き割りの街のような美観。その裏路地では住人たちが通常の生活を営んでいるが、その生活ぶりは優雅でも美しくもない。 ヴェネチアのもつある種の「虚構性」と「欺瞞」は、イオセリアーニ自身が演じるインチキ侯爵に象徴されている。彼は弾けないピアノを弾けるふりをして、貧乏なのを貧乏でないふりをして、すべてを虚飾のヴェールで覆い隠して「ウソの自分」を立派に演じ切っている。 彼は、生けるヴェネチアの街そのものだ。 一方で、主人公ヴァンサンと友達になって、ともにべろんべろんに飲みつぶれるカルロも、ヴェネチアの別の一面を象徴している。観光客に対して猛烈にフレンドリーで、誰にでも門戸を開いて癒してくれる。でも生活は厳しく、家庭では妻に仕切られ、休日が終わって月曜日が来ると、ヴァンサンの務め先とそっくりの工場へ働きにいく。 カルロは、ヴェネチアに住むもうひとりのヴァンサンに他ならない。 ― ― ― ― この作品で価値が高いと思うのは、ヴェネチアで遊び倒してすっきりリフレッシュした旦那が「さあ帰るか」というところで話を終わらせたりしないで、きちんと「放蕩旦那の帰還」と受け入れ、彼の日常への復帰と再生まで描いてから映画を閉じている点だ。 出奔した亭主が「新生」するだけではダメなのだ。「新生」した彼を家族が受け入れ、「新生」した気持ちのままで家庭と仕事に復帰できなければ。 本作がある種の「メンタルヘルス」映画であり、新型うつ(笑)の治療と寛解の物語だと考えるのなら、社会復帰まで描かないとハッピーエンドとはいえないわけだ。 『月曜日に乾杯!』で、地中海漫遊から帰ってきた父親が、意外にさらっと受け入れられた背景には、この父親が必ずしも「嫌われていた」わけではない――むしろ本来的には「尊敬されていた」ということもあるのだろう。 出奔前、たしかに彼は妻からは雑用を押し付けられ、子どもたちからはあからさまに邪険に追い払われていた。でも、家回りのDIYを頼まれるのはそれが彼にしかできないからだし、息子たちから邪険にされるのはパパが子供のやろうとしていることに手を出し過ぎるからだ。 むしろ、長男は父親の描いた聖ゲオルギウス(=聖ジョージ。そう、ジョージアの守護聖人だ!)のデッサンを元絵として、教会壁画の制作を請け負っているくらいで、父親の絵の才能を高く評価し、誇りに思っているらしい。 次男も、父親の絵葉書を楽しみにしていたようだし、本人もDIYで聖ゲオルギウスの扮装をして活人画(タブロー・ヴィヴァン)の写真を作ったりしていて、どうやら父親の芸術的才能を引き継いでいるらしい。 彼らは、牙を抜かれ従順な家畜と化していた父親よりも、わがままを発揮して海外を周遊し絵心を取り戻した父親のほうが、きっと好きなのだ。 奥さんも、しかり。たしかに到着した絵葉書はぜんぶ破り捨てていたというが、自分が夫を軽く扱いすぎていた、夫の自尊心を傷つけていた自覚は充分にあったに違いない。むしろ、家出するみたいな「思い切ったこと」を夫が実行に移したことに怒りながらも驚き、少しは「感心」した部分もあったのではないか。やるじゃない、この人。思ったよりワイルドなのね、みたいな。 (ちなみに、帰宅後に母親の部屋のテレビに映っているのは、旧作『歌うつぐみがおりました』のラスト近くで流れるバレエシーン。こんなところにも監督のお遊びが) 女性の描き方については、前作『素敵な歌と舟はゆく』といろいろ共通点があって面白かった。家庭内の規律を守り、時計を手に持って夫を追い立てるのは、どちらの作品でも妻の役割で(主人公の叔母さんなどは、老いた父親の「死期」まで勝手に決めつけようとしている)、家に紛れ込んだ闖入者と亭主のいつ終わるとも知れない飲み比べを強制終了させるのも妻の役割だ。 勝手に出奔した上しれっと戻ってきた「放蕩旦那の帰還」を、怒鳴りもせずに自然体で受け入れ「おかえり、遅かったわね」で済ませてしまう奥さん&お母さんの胆力も、『素敵な歌と舟はゆく』で牢屋から戻ってきた放蕩息子を、怒りもせずに抱きしめて迎えたお母さんの姿とオーバーラップする。 本来なら、こんな形で家出亭主が出戻って来て、何事もなかったかのように受け入れてくれる家庭などないのかもしれない。 その意味では、たしかに『月曜日に乾杯!』は都合のいい物語である。 ヴァンサンのパートが、女装してトイレのチップ係をやっている旧友と再会したあたりから本格的に「御伽噺」めいてくるとすれば、残された家族のパートのほうは、「息子が家を出てから大分経つ。当然、財政的にも厳しい」と切り出した老母が、庭の片隅に埋めてあった「埋蔵金」を掘り出すあたりから、急速にメルヘン味が増してくる。 せちがらいリアルに押しつぶされそうだった物語が、主人公が「行動」することで「都合のいいホラ話」の空気を身にまとい、誰もがハッピーな(ある意味嘘くさい)大団円へと最終的に導かれる。その「ジャンルチェンジ」は、観客からすれば単なる作り手サイドのインチキなのかもしれないが、さりとて、主人公が動いて見せなかったら起こり得なかった「奇跡」でもある。 だから僕は、みんなこの大団円をつべこべいわずに受け入れて、おおいに楽しめばそれでよいと思う。家出をして帰ってきたら、長男は自分の描いた絵をもとに壁画をつくり、ハングライダーまで完成させて、恋人と空中散歩としゃれこんでいる。次男は活人画の制作に夢中だ。長男が恋文を代筆していたカップルは無事結婚。喧嘩ばかりしていたトラクターの夫婦もなぜか仲睦まじい。そして、奥さんは態度が柔らかくなったばかりか、おんぼろのセダンを洗ってくれて、出がけには首にマフラーまで巻いてくれるようになる。 嫌で仕方がなかった月曜日がまたやってくる。 でも今までの月曜日とは少し違った月曜日だ。 世は事もなし。月曜日に乾杯。いやあ、ハッピーじゃないですか。 そういえば、ラスト近くで次男坊が遅刻する合唱の練習でかかっていたのは、ヴェルディ『ナブッコ』の「行けわが想いよ黄金の翼に乗って」だったか。 名高い「望郷」の歌。 それは、我が家に帰ってきたヴァンサンの心の歌であると同時に、遠く故郷ジョージアを思い続けるイオセリアーニの心の歌でもある。

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じゃい

4.0イオセリアーニに乾杯

2016年6月25日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

笑える

幸せ

寝られる

あぁもう本当に、オタール・イオセリアーニ大好きです 見たのは2作目だけど、見るたびグルジア(ジョージア)の人々への愛が止まりません。今作はフランスの田舎が舞台なのですが住民達がグルジア人にしか見えないなぁって思ってたけど監督のコメントを見て納得。フランス人はこの映画を見てフランス映画だというが、グルジア人はグルジアを描いている映画だと言う。 常に酒を飲み、老人がやたら悪くて元気。この映画全体に漂う空気がほんとうに神々しい

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madu