ネタバレ! クリックして本文を読む
○作品全体
本作では「ファミリー」という言葉が度々登場するが、その言葉は家族という意味合いとは別の意味を持っている。表は家族的な繋がりという意味だが、裏には利害が絡んでいて、純粋な家族とは言えない。その「ファミリー」という関係性を提示するのに作品冒頭から「結婚式」を利用していて、その使い方がまず面白い。
「結婚式」はハレの日だ。ハレの日はそのイベントを通して、当事者以外も含めて登場人物の世界が変わるタイミングのはずだ。ただ、この作品ではそういった物語の推進剤としては使わず、「ファミリー」がなにか、という本作の根幹を知らしめる舞台装置として存在している。
結婚式では陰と陽の世界が明確に分かれている。画面の明度もハッキリと区別しているとおり、ヴィトーがいる執務室が陰で、野外が陽の場だ。この陰と陽は「ファミリー」が持つ二つの顔と繋がっていて、利害、損得の「ファミリー」と、和気藹々と婚姻の喜びを分かち合う「ファミリー」の意味がある。この二つの意味合いを同じ結婚式の場で、これほどまでにコントラストの強い演出をもって語る作品冒頭は、強烈なインパクトを持っていた。
ファーストカットも上手い。葬儀屋のボナセーラの独白のような語りから、徐々にカメラを引いて、手前のヴィトーを映し、その後にここが結婚式の場であることを示す。次々と情報が増えていくが、それぞれの情報は直ぐに繋がる。人が集まる場所、さらにヴィトーの機嫌が良い日となれば、ボナセーラのような関わりの薄い人物もヴィトーの力を借りようとやってくる。「結婚式」という場が「ヴィトーへ嘆願する場」になる、というわけだ。
そしてこのヴィトーを中心とした「ファミリー」の状況を表現する演出を、ゆっくりとしたトラックバックから始めるのが凄く良い。この結婚式が「ファミリーとはなにか」ということをゆっくりと開示していく感覚が、このトラックバックにすごく合う。
結婚式で表現した「ファミリー」を更に展開させるために、そのファミリーの中で生きる人物たちに主軸を置いたのが作品の序盤から中盤。この部分もヴィトーをはじめとするキャラクター達が活き活きとしていて好きなところだ。
ただ作品としてはヴィトーが撃たれ、「ファミリー」から少し離れた位置にいたマイケルにカメラが向くところが、一つのプロップポイントと言えるだろう。
マイケルは結婚式の場では若年であることもあってファミリーの端に位置している。マイケル自身も父のようにはならないと話していて、「ファミリー」から距離を置こうとしているのがわかる。ただ、ヴィトーが撃たれ、頼りになる「ファミリー」もいない病院で父親という「家族」を守れるのは子であるマイケルだけだ。病院の門前でパン屋の青年と見張りをしているときの立ち振舞いから見ても、マフィアの世界で生きていける天賦の才を「家族のつながり」から覗かせる。
ソロッツォと警部の暗殺を企むシーンでは、マイケルの策の才能が印象に残るが、カメラワークも素晴らしい。ソニーを始めとする手慣れた面子の中で、足を組んで座り、作戦について話すマイケル。ゆっくりとそのマイケルにトラックアップしていく演出は、ここからマイケルが主役になることを印象付ける。
こうしたマイケルが「ファミリー」の中心になっていく過程の描写は、ヴィトーの衰えやソニーの勇み足も対比として使っていて、説得力のあるものだった。
作品後半は「ドン・コルレオーネ」として君臨するマイケルの冷徹さがクローズアップされる。これは作品序盤で印象的だったヴィトーが「ドン・コルレオーネ」だった頃の家族的な暖かさとのコントラストが印象的だ。「結婚式」という舞台装置が「洗礼式」になったと置き換えるとわかりやすいかもしれない。家族的な暖かさのあった「結婚式」は、極めて儀式的である「洗礼式」に変わる。利害が浮かび上がるシチュエーションで言えば、ヴィトーは身内との話し合いの場であったのに対し、マイケルは火種になる身内の浄化を影で進めている。
二人の「ドン」、それぞれが求める「ドン」の姿、そしてそのコントラスト。そうしたものが「家族」という面でも、「ファミリー」という面でも魅力的に描かれていて、見終えたあとには感嘆のため息が出た。
ラストカットはケイを追い出して執務室で「ドン」として振る舞うマイケル。閉ざされたドアの外には「家族」が、ドアの中には「ファミリー」がいる。マイケルが示した「ファミリーとはなにか」を巧みに演出したラストからは、マイケルの魅力と恐ろしさが最大限に引き出されていた。
「家族」と「ファミリー」を引き離したマイケルにはどういった結末が待っているのだろうか。
○カメラワークとか
・病院の前のシーンはカッティングがすごく良い。恐怖でブルブルと震えるパン屋の手を映したあとに、まったく震えていないマイケルの手を映す。そしてここで映されるマイケルの表情。マイケル自身も怯えていない自分に驚く…といった表情だ。ヴィトーを別の病室へ移して、ヒットマンらしき人物をやり過ごす…というような行動は無我夢中で、ここでようやく自分を客観視する感覚。その作り方が上手い。
・ラストカットはフレーム内フレーム。さっきまで恋人の距離感だったのが、遠ざかってしまったような演出。これもすごく自然に見せていて上手だった。
・手前奥のレイアウトは物語の要所で使われていた。上述したファーストカット、ラストカット。ヴィトーが死ぬカットも手前に孫がいて、奥にヴィトーがいる。マイケルがソロッツォらを撃ったあと、店を出て行くカットも手前にマイケル、奥にソロッツォ。人物を手前奥に立たせ、明度で画面内にいる人物を区切る。世界が二つに分かれているのが印象的。生と死、ファミリーと家族。
ソニーが襲撃されて一人倒れているカットも、奥からファミリーがやってきて、手前でソニーが倒れている。ここは明度は変わらないが静と動、という要素で世界を区切っていて印象的だった。
・シーンの終わりを動的な芝居で終わらせているカットが多い。マイケルが銃の使い方をクレメンザから教わっているシーンでは一度会話が途切れた後にマイケルが引き金を引く(銃弾は装填されておらず)。ヴィトーが死ぬシーンではヴィトーが倒れた様子を孫が見に行って、一度静寂となったあとに孫が走り出していく。場面転換時の緩衝材のような役割だろうか。
・マイケルまわりの演出はホントかっこよくて、不要な部分の省き方が上手い。不要なものを省く、というのがそのままマイケルを表していて、キャラクターを魅せるという意味でも十分な役割だった。
典型的なのはアポロニアが殺されてしまったあとのマイケル。爆発直後は驚き腰を抜かすが、次にマイケルが登場する際には、もうアポロニアを忘れてしまったかのような立ち振舞いをしている。もしかしたらショックを受けていた時間もあったのかもしれないが、「マイケルを演出する」という意味ではそのショックの様子は不要と言い切っていいだろう。
こうしたキャラクターを魅せる演出が行き届いているのがなによりの本作の魅力だと感じる。
○その他
・トムが映画会社に乗り込むシーン頭にBGMが流れるけど、サントラに入ってなくて悲しい。このBGMどっかで聴いたことあるんだよなぁ。ドリフとか志村けんのバカ殿様とかだったような気がするんだけど。
・何回も見てるからか、シンプルに面白いからかわかんないけど、色々細かいところで印象に残る芝居とかセリフがある。家で暴れるコニーに対してカルロが「好きなだけ壊せ」っていうやつとかその後にカルロを見つけたソニーが全力で手に持ってる棒みたいなの投げるところとか、全力でブチ切れるモー・グリーンとか。
・もし脇役の外伝が見られるとするなら、間違いなくルカ・ブラージ。ヴィトーとともにどんな仕事をこなしてきたのか、女と一緒に寝ないというのはなぜなのか。生い立ち含めすごく気になる。