愛の嵐

ALLTIME BEST

劇場公開日:

解説

戦後のオーストリアを舞台に、かつてユダヤ人収容所で出会った元ナチス親衛隊員とユダヤ人女性の倒錯した愛とエロスを描いた作品。1957年、ウィーン。元ナチス親衛隊員のマックスは、現在はその素性を隠し、ホテルのフロント兼ポーターとして働きながらひっそりと暮らしていた。ある日、彼が勤めるホテルに、著名なオペラ指揮者が妻ルチアを伴って宿泊する。ルチアは、かつてマックスが強制収容所で性の愛玩物として弄んだ少女だった。ルチアにとってマックスは2度と会いたくない相手のはずだったが、2人は倒錯した快楽に溺れていく。シャーロット・ランプリングがルチアを体当たりで熱演、特にナチス将校たちの前で半裸で歌い踊る姿は強い印象を残した。マックス役に「ベニスに死す」のダーク・ボガード。イタリアの女性監督リリアーナ・カバーニがメガホンをとった。

1973年製作/118分/イタリア
原題または英題:Il portiere di notte
配給:日本ヘラルド映画
劇場公開日:1975年11月1日

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映画レビュー

3.0戦後のそのホテルで支配人をする男性が、元ナチスドイツの親衛隊員で、...

2024年11月19日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

悲しい

怖い

難しい

戦後のそのホテルで支配人をする男性が、元ナチスドイツの親衛隊員で、戦前にそのユダヤ人収容所にいたそのユダヤ人女性がそのホテルに宿泊客として来ますが、その出会いでその戦前の昔を思い出し、その元ナチス親衛隊員のドイツ人の男性達がその制服を着て、見守る中、そのユダヤ人女性役のそのシャーロットランプリングが裸でダンスを披露しますが、大島渚が監督したマックスモンアムールという映画にもそのシャーロットランプリング主演の映画がありますが、それがそのシャーロットランプリングとチンパンジーが抱き合う映画でしたが、またマスカラというタイトルのオランダの映画にもそのシャーロットランプリングが主演してましたが、それが姉弟の通じぬ愛のような結末が最期でしたが、その姉役がそのシャーロットランプリングで、その弟が刑事役で地下のゲイバーの舞台でセンターを飾るそのゲイと恋仲ですが、そのゲイの殺人事件があり、その姉の恋人がその容疑者に仕立て上げられて、暴行され傷害を負いますが、その姉のシャーロットランプリングがその刑事でゲイのその弟にその船舶上から詰め寄って、その船舶上からその弟が海に落下して、それが結末でしたが

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39stepbacK

3.50101 このポスターは衝撃的だった

2024年7月20日
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鑑賞方法:DVD/BD

1975年公開 シャーロットランプリング♥の名を世に知らしめた名作。 ちょっと華奢なんだよね。 後年じっくり見る機会が出来て そらオッサンもこんなかわいい子好きにできたら 舞い上がるでしょう。 特に戦争中なら俺の言う事聞けーモードやろうし。 しかし再会してから互いにあからさまに出来ない 過去を持つもの同士になったからの綱引きは壮絶。 やっぱり女の人の方がこうなると強いんだ。 70点

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NWFchamp1973

4.0第二次大戦終結から十数年の1957年、オーストリア・ウィーン。 ホ...

2024年7月17日
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鑑賞方法:DVD/BD
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りゃんひさ

4.0恐ろしいことを共有する濃密な絆

2024年4月27日
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鑑賞方法:DVD/BD

狂気、というものを経験したことがないから、すべては想像でしかない。狂気に落ちて「あの時私は狂っていました」と振り返るようなものではないんだろう。 恐ろしいのに素晴らしくも思う。「愛」と一言で言うには不足しているようにも、過剰にも感じる。その複雑さが興味深い。 歳を重ねてからのシャーロット・ランプリングしか観たことが無かったので、中性的なのに肉感的で、清純で高潔なのに蠱惑的でもあるルチアの存在感は素直に凄いと思った。 今は完全にお年を召されているが、内側から滲み出る迫力みたいなものはこんなに若い時からあったんだな。 不正行為の三要素、というものがある。 「動機」「機会」「正当化」の3つが揃ったとき、不正行為が発生する、という考え方だ。 「愛の嵐」で描かれる退廃的な愛の狂気は不正行為とは異なるが、良識の範疇を外れてしまう、という意味においては共通する部分があるように感じる。 マックスとルチアが出逢った時、マックスはSSの高官でルチアは収容所の少女だった。マックスにはルチアの生殺与奪権があり、ルチアには生きる権利すらなかった。 性的な欲望という動機と、立場の違いという機会をナチズムが正当化した環境で二人の関係は始まる。 この正当化はルチアにも大きく影響し、生存のための戦略が逢瀬を重ねる毎に歓びへと変わっていった事は想像に難くない。 快楽という意味だけでなく、自分は特別なのだという歓び、相手を支配できる力への歓び。 マックスはルチアのためにルチアの嫌った男の首を捧げ、ルチアはマックスを誘惑するように歌い、踊る。 戦後全く異なる立場で再会したとき、二人は互いに戦慄したはずだ。地味ながらに平穏な毎日を脅かす存在。忌まわしい過去から逃れ、何不自由ない生活を脅かす存在。 しかし、それとは全く逆の、背徳にまみれ、ただ愛しあうことに没入した日々は、抗いがたく二人を誘う。危険だとわかっていても止められない。 その感覚は私にはわからない。ただ、もし体験したら私だって踏みとどまれるとは言い切れない、そんなヤバさを感じる。 猫とシンクロするようなルチアの佇まいが、もはや人間性や理性が遥か彼方へと追いやられてしまったようでゾクリとした。 ナチスドイツの軍服を見るたび、カッコいいと思う。そして、「カッコいい」なんて思ってはいけない、と思う。 悪いとされていることに、強烈に惹かれる経験は誰にでもある。 愛した男の首を求める「サロメ」の物語が何度も上演される名作であるように。 幸いにも道外れたことのない私には、マックスとルチアの愛の終焉を、安全な手すりの内側から固唾を飲んで見届けることしか出来ない。

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つとみ