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○作品全体
主人公・清兵衛は夕方に仕事が終わったら家に帰り、家族の世話をしなければならないことから「たそがれ」と呼ばれている。
周りの人は清兵衛を嘲る言葉として使っているが、清兵衛からしたらその「たそがれ」の状況を楽しんでもいる。自身が貧しいことを承知だから、後妻も積極的に取ろうとしない。江戸時代の常識からすれば家庭のことは妻の役目であって、主人の役目ではないのだろうが、こうした部分から人とは感性のズレた人物であることが窺い知れる。
ただ、御上をはじめとする上司の命令にそれこそ命をかけねばならない世界で、その感性をまかり通すのは難しく、「たそがれ」で居たい清兵衛と時代の潮流との静かなせめぎ合いが独特な雰囲気を漂わせていた。
そんな物語に、そして清兵衛に熱を帯びさせたシーンもあった。清兵衛が朋江に結婚を申し入れるシーンだ。「たそがれ」の世界で静かに家族を見守り、なにごとにも一歩下がった場所にいた清兵衛が世界を変化させようと前に出る。映像的にも熱が上がる二つの剣戟シーンも朋江に関わるものだ。一つ目は朋江の元夫を近づかせないために、そして二つ目は藩命という強制力はあれど、朋江に結婚を申し入れる理由を手に入れたことだ。これは石高加増によって「貧乏だから娶らない」という清兵衛自身の言い訳を打ち負かす理由と言えるだろう。
藩政に関わらず静かに過ごすことを望んでいる下級役人が、藩政によって良い方、悪い方、どちらにも揺さぶられている。この世界で過ごすうえでの宿命が物語の軸にあることは確かだが、それと共に人の情緒というものも大切に描かれていた。清兵衛の「たそがれ」の姿勢がこの情緒を描く上で上手く活かされていたのだと思う。
序盤からの以登の語り口でラストはなんとなく察しがついていたけれど、朋江と結ばれるのは意外だった。
「たそがれ」の世界から一歩踏み出した清兵衛への褒美だったのだろうか。しかし、やはり、戊辰戦争という宿命の下で「たそがれ」でいられなかった清兵衛への哀愁が強く残る結末だった。
○カメラワークとか
・画面内の境界線、フレーム内フレームカットが多い。初めて余吾とあった時のシーンや朋江に告白するシーン。後者は特に良かった。2人が結ばれないことをミスリードするようなフレーム内フレーム。
・日本家屋の狭さと風通しの良さを逆手にとった奥行きで人物を見せるシーンが良かった。夜に籠を作りながら会話するシーンでは同じ部屋に3人映して、奥の部屋で寝ている母の姿をも映す。母が起きて厠に立つまでのカットをFIXで撮っていたのが印象的。カメラが動かない分、カメラ側の意図を感じさせずに「いつもの風景」を切り取っているような。それが当たり前でいて清兵衛にとっての幸せである、というのを自然体で伝えてくれる。
○その他
・余語との戦いの清兵衛、最初は藩命を受けた剣士なのに、同じ境遇ということで絆されて「たそがれ」に戻ってしまうのが面白い。この状況で竹光を持ってくるのは、清兵衛の少し人とは違う感性の演出にもなってるし、一方で余語に火をつける理由としても作用してた。「たそがれ」だから余語と話すことができた一方で、「たそがれ」の感性だから余語の逆鱗に触れる。清兵衛という登場人物の特徴が良く出たシーンだった。
・原作の『たそがれ清兵衛』が書かれたのが80年代だというが、この頃から「実は強い系キャラ」の人気があったのか、と思った。辿ればもっと昔にもありそうだ。源義経とかも小柄だけど強い、という意味で同義か?
・萱野のキャラクターが立っていた。幼いながら気立の良さ、みたいなのが仕草であったり、動き回る姿から自分の役割が伝わってくる感じ。清兵衛といる時には台所担当としての一人前に振る舞って、以登と2人きりになった時や朋江といる時には幼いお姉ちゃんになる、と言ったような。子役が上手だった、とも言える。