麦秋

劇場公開日:

解説

製作は「自由学校(1951 渋谷実)」「虎の牙」に次ぐ山本武。脚本は「宗方姉妹」と同じく野田高梧と小津安二郎との共同執筆。監督は「宗方姉妹」に次ぐ小津安二郎作品。撮影は常に小津作品を担当する厚田雄春。出演者は、「西城家の饗宴」の菅井一郎、「自由学校(1951 渋谷実)」(松竹)の笠智衆、淡島千景、杉村春子、高橋豊子、「白痴」の原節子、東山千栄子、「天明太郎」の佐野周二、「あゝ青春」の三宅邦子、「恋文裁判」の二本柳寛、「初恋トンコ娘」の井川邦子などである。

1951年製作/124分/日本
配給:松竹
劇場公開日:1951年10月3日

あらすじ

間宮周吉は北鎌倉に住む老植物学者である。息子康一は医者で東京の某病院に通勤、娘紀子は丸ノ内の貿易会社の専務佐竹宗太郎の秘書である。佐竹の行きつけの築地の料亭「田むら」の娘アヤは紀子と学校時代からの親友で二人共未婚であるが、安田高子と高梨マリの級友二人はすでに結婚していて、四人が顔を合せると、未婚組と既婚組とに対立する。折から間宮家へは周吉の長兄茂吉が大和の本家より上京して来たが、紀子の結婚談が出る。同時に佐竹も自分の先輩の真鍋という男との縁談をすすめる。間宮家では、周吉夫婦をはじめ康一たちも佐竹からの話に乗り気になり、紀子も幾分その気になっているが、古くから間宮家の出入りである矢部たみの息子で、康一と同じ病院に勤めている謙吉が、急に秋田の病院へ転勤するときまったとき、謙吉こそ自分の結婚すべき相手だったことに気がつく。謙吉には亡き妻との間に光子という三才の遺児があり、恒産もないので、間宮家では四十歳ではあるが、初婚で、善通寺の名家の出である真鍋との結婚を希望するが、紀子のたっての希望を通してやることにする。紀子は秋田へ去り、周吉夫妻も大和の本家へ引きあげて行く。その大和はちょうどさわやかな麦秋であった。

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映画レビュー

4.0登場人物を饒舌に語る「映さない」演出。

2024年6月22日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD
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すっかん

3.5家族のサイクル

2025年2月6日
PCから投稿

紀子(原節子)は兄幸一(笠智衆)が世話した良縁を蹴って秋田へ赴任する医師との結婚を独断で決めてしまう。──というだけの話だが、昔の結婚観や世代間対立と家族の思いが絡み合って、しみじみとやるせない家族風景を描き出す。ちなみに原節子が紀子という役名で出ている紀子三部作の二個目。(晩春・麦秋・東京物語)

じぶんはレビューを書くために食指があまりうごかない映画を謂わばムリして見ることがある。見たくないとまではいかないがあまり見る気がしない映画をレビューのために見る。ばかなことだと思われるだろうしばかなことだとじぶんでも思うが、映画を見てレビューを書くと多少気分がよくなるので謂わば趣味の範疇といえる。

きょうびVODには様々なコンテンツが百花繚乱と咲き乱れ、ネットフリックスにいいのがなかったらアマゾンプライムやディズニープラスを巡ってみることもできる。そこには刺激や奇想や色気や戦慄などのコンテンツが山とある。なにを好き好んで一人娘の結婚に気を揉む大時代の家族風景を見なければならないだろう。小津安二郎に限ったことではないが、昔の映画を見る人、あるいは見ておかなければならないような気がしてとくに見たいわけではない映画を見る人は結構なおたくだと思う。

かんがみてマンガ・アニメなどの愛好家はおたくと称してそれを自負する人々が文化を形成しているが、独りで誰も見ていない映画を見ているような映画おたくと比べると、マンガ・アニメおたくは「同じような嗜好をもった人」や「好きに対して無邪気な人」の総称であって、とあるキャラクターについて知っている事象でつながることが可能な世界観があるのだが、映画のばあい、あなた/わたしがとある晩に人知れず見た映画が世界や他者となんの関係があるのか、という話である。まして公開中の人気映画やネトフリランキング内映画ならいざしらず、独りで何十年も昔の映画を見て誰にあてるともなく感想を書く──いったいこの非生産的行為はなんなのか、という話である。

そんなわけで現代、小津安二郎の映画を見るには「よし小津安二郎の映画を見るぞ」と決心する必要がある。そして結局そこにある時代性に苦戦する。言いたいことは解りすぎるほど解るが、現代人の感覚が、小津安二郎の世界に同化・併走することができないことに気づく。

一人娘を嫁にやるのが寂しいのは普遍的な親の感覚にちがいないが今と昔では家族の有り様がちがう。家父長制がなく結婚には経路があり自由と不自由が混在する未来があり、そして孤独だ。
パートナーや友人がほしいと思って孤独と言っているのではない。独りのままがいいし孤独死に不服はない。むしろ孤独死させてください。そういう孤独ではなく、ここで言う「孤独」とは──

I Think We're Alone Now(孤独なふりした世界で、2018)で身長132㎝のピーターディンクレイジはエルファニングの「世界の終わりに孤独を感じたか」の問いにこう答える。
「俺が──」
「俺が孤独を感じたのは、この街に1600人の人間がいたときだ。ひどく孤独だったよ」

孤独とは人がまわりにいるから。そしてまわりの人々があなた/わたしをやんわりと拒絶しているから。あなた/わたしが他者をやんわりと拒絶しているように。
無人島で独りで生きていたらむしろ気が楽なのに億の人間達に囲まれていてその人間達が一様に鬱蒼としているから孤独なのだ。

そんな現代的孤独下で生きている人はまず麦秋の序盤の家族生活の温かいリズムに鼻白むだろう。
序盤は世代間対立が表面化せず、朝子どもが顔洗ってきなさいといわれたけれど洗ってこなかったり、鉄道ゲージを買ってほしいとねだったり、おばあちゃんの肩叩きをしたり、あるいは紀子の通勤風景や兄幸一(笠智衆)の忙しい様子や、大人達が夜ケーキを食べていて子どもがおしっこに起きてくるとケーキを隠したりとか、友人役の宮口精二と碁をうつ様子など、総じて牧歌的でユーモアのあるシーンが積み重ねられる。

のんきな人々だと感じるだろう。しかしかれらはのんきなわけではない。むしろわたしよりはるかに実直で人生と将来についてまじめに考えている。
今の人が昔の人に比べて賢くなったわけでもない。スマホをもっているから、いろいろなことを知っているわけでもない。
それでもやはり時代性を痛感するだろう。わたしたちの現代社会はもう完全にちがうフェーズにある、と思ってしまうだろう。
だから客観的に見てどうかということになる。客観的に見てしまうならぜんぶ解る。不同意なところはひとつもない。ぜんぶそのとおりだと思う。

『小津自身は、本作において「ストーリーそのものより、もっと深い《輪廻》というか《無常》というか、そういうものを描きたいと思った」と発言しており、小津とともに脚本を担当した野田高梧は「彼女(紀子)を中心にして家族全体の動きを書きたかった。あの老夫婦もかつては若く生きていた。(中略)今に子供たちにもこんな時代がめぐって来るだろう。そういう人生輪廻みたいなものが漫然とでも感じられればいいと思った」と語っている。』
(ウィキペディア「麦秋」より)

麦秋はまさに小津安二郎が言ったとおりの世界になっている。だが、混濁した現代はもはや小津安二郎の描く家族が規矩準縄たりえる世界ではない。
となると、どういうことがおこるかというと、麦秋が語る輪廻や無情よりも、過ぎ去った1951年の日本にノスタルジーを感じる。ということがおこる。
小津安二郎の映画に限らず、昔の映画の感想はその内容如何ではなく「いい時代だった」というような過去への追慕によって形成されるきらいがないわけではない。
ところが「いい時代だった」とは過去を知らない者や過去にいい時をすごした者や過去に羽振りのよかった者が予定調和や年長者マウントを取るために言う構文であって、過去がいい時代だったのか、今がわるい時代なのかそんなことはだれにも解らない。
過ぎ去った時間の容赦のなさを感じながら、小津映画の中の家族や友人などの社会的つながりと、じぶんのそれを比較してみると情けなくて哀しくなる。

『公開後、キネマ旬報ベストテン第1位など数々の賞を受けるとともに、『晩春』に続いて起用された原と小津との結婚説が芸能ニュースを賑わせた。』
(ウィキペディア「麦秋」より)

しかし映画人の実生活は孤独ではなかったのかと考えたとき、名監督も大女優もカメラのこっち側とあっち側で対峙しながら、どちらも一生涯独身を貫いた。小津安二郎も原節子も映画内ではさんざん結婚の啓発活動をしておきながら独りのほうがよかったわけである。

英題Early Summer、imdb8.1、RottenTomatoes100%と92%。

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津次郎

5.0逆に今の映画やドラマが余白を廃して説明過多になり過ぎているのでしょうね。

2025年1月5日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

泣ける

幸せ

早稲田松竹さんにて『小津安二郎監督特集 紀子三部作 ~NORIKO TORILOGY~』(25年1月4日~10日)と題した特集上映開催中。
本日は『晩春』(1949)、『麥秋』(1951)、『東京物語』(1953)のそれぞれ4Kデジタル修復版を英語字幕付きで鑑賞。
英語字幕付きのためか外国の方や若い方の来館者も多く、70年以上前の作品にも関わらず150席の館内はほぼ満席でしたね。

『麥秋』(1951)
『晩春』(1949)に続く紀子(演:原節子氏)三部作の2本目。
前作で父娘を演じた笠智衆氏と原節子氏が本作品では兄妹の設定、さらに父親・周吉を演じた菅井一郎氏は当時44歳で笠智衆氏とは3歳しか離れておらず、笠氏もいつも以上に若作りしておりますが、最初の数十分は正確な家族構成の把握に苦心しましたね。
本作でもベースは適齢期(当時25歳)を過ぎた紀子(28歳)の結婚話ですが、前作の父娘から家族とその周辺まで人間模様を広げた構成。舞台も北鎌倉で変わらず。

本作で特筆すべきは良家の良縁に恵まれるよう望む家族や周囲の期待とは裏腹に最後は決して裕福ではない戦死した次男の友人で幼馴染の謙吉(演・二本柳寛氏)と結ばれるのですが、紀子と謙吉の間に恋愛模様、過程のシーンが一切存在しないところ。謙吉の母(演・杉村春子氏)がダメもとで何気なく「息子と結婚してくれ」と語ったところで快諾するだけ。

監督曰く観客に余白を残して各自でイメージして欲しいとのことですが、あくまでも紀子とその家族だけにフォーカスあてる意図であれば、大胆ですが尺を考えると悪くない判断ですね。逆に今の映画やドラマが余白を廃して説明過多になり過ぎているのでしょうね。
個人的には紀子が『どんなに良家のご子息でも40歳にもなって独身なんて信用できないわ』というセリフは70年前とはいえグサリと来ましたね。

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矢萩久登

4.0コミカルな演出の中での、東山さんの表情。 胸を突かれる。

2024年11月17日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

笑える

知的

幸せ

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とみいじょん