小早川家の秋

劇場公開日:

解説

他社進出三本目として小津安二郎がメガホンをとるホームドラマ。脚本は「秋日和」につづいて野田高梧と小津安二郎のコンビが執筆。撮影は「女ばかりの夜」の中井朝一。宝塚映画創立十周年記念作品でもある。昭和36年度芸術祭参加作品。

1961年製作/103分/G/日本
原題または英題:The End of Summer/Early Autumn
配給:東宝
劇場公開日:1961年10月29日

あらすじ

秋子は小早川家の長男に嫁いだが、一人の男の子を残して夫に死なれてからは御堂筋の画廊に勤めている。代々、造り酒屋で手広い商売をしてきた小早川家も、万兵衛が六十五になり今は娘の文子のつれあい久夫に仕事が渡り、万兵衛は末娘の紀子と秋子をかたづけるのに頭をつかっていた。文子たち夫婦も、店の番頭信吉、六太郎も、この頃、万兵衛の妙に落着かない様子に不審を抱いていた。或る日、六太郎は掛取りを口実に万兵衛の後をつけた。万兵衛は、素人旅館「佐々木」に入っていった。女道楽ばかりしてきた万兵衛で、競輪の帰り十九年振りにバッタリ逢った焼け棒杭がつねだった。つねは百合子と二人で暮らしていて、百合子は万兵衛をお父ちゃんとよんでいる。秋子には、万兵衛の義弟に当る弥之助の世話で磯村との話が進んでいた。磯村は一生懸命であるが、秋子の気持はどうもふんぎりがつかない。一方、紀子もお見合いをしたもののこれも仲々決めようとしない。紀子は、札幌に行った大学助教授寺本に秘かな愛情を寄せていた。亡妻の法事の日、嵐山で一晩楽しく過ごした小早川家一族は、万兵衛の病気で大騒ぎとなった。心臓が痛いというのである。が、翌朝になって万兵衛は、ケロリとして起き上り皆を驚かした。万兵衛はその日にまた佐々木の家に行った。万兵衛はつねと一緒に競輪を楽しみ、その晩佐々木の家で心臓の発作を起して息を引き取った。お骨ひろいに一家は集った。久夫はいよいよ合併が近いことを洩らした。小早川家の商売も、大資本の波におしまくられ企業整理のキッカケが、万兵衛という柱が亡くなって一遍にやって来たのだ。文子は「小早川の家が何とかもったのも、お父ちゃんのお蔭やったんや」とつくづく思った。紀子は札幌に行く決心をした。秋子も心から賛成したが、自分は再婚しないで今のままでいようと思った。火葬場の煙は一族の者にそれぞれの思いをしのばせながら秋めいた空に消えていくのだった。

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映画レビュー

4.0【落魄すれど、人情ある小早川家の人達の姿を描く中で、人間の生の儚さと、自由意思で生きる女性の逞しさを描いた作品。小津安二郎監督と原節子さんとの最後の作品でもある。】

2025年4月10日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

知的

幸せ

■代々造り酒屋の小早川家も大資本の波に押され、当主の久夫(小林桂樹)も頭が痛い。それに加え、亡き長男の嫁・秋子(原節子)の再婚話や末娘・紀子(司葉子)の結婚話と悩みは尽きない。
 その一方、義父・万兵衛(中村鴈治郎)は久夫に当主の座を譲ってからは自由気ままな毎日を過ごしていて、京都の愛人の家に行ったりしている。

◆感想<Caution!あまり内容に触れていません。)

・今作は、一応原節子さんが主役という事になっているが、出演シーンは少ない。これは勝手な憶測だが、小津監督と組んだ前作「秋日和」以降、当時のライトの強烈さで白内障が悪化した事で、半年以上休養してから今作に臨んだからではないかと思う。

・更には、役柄が「秋日和」と同様に未亡人であり、名前も秋子と同じである。何となくだが、原さんの表情が冴えない気がするのだが、調べたらこの頃から原さんは、邦画への失望を口にし、引退を考えていたようなのである。
 ”最近の映画は、ギャング映画やアクション映画やオネエチャン映画が多くなって・・。映画は矢張り美しいモノを与えるモノだと思う。”と言う言葉に如実に表れている。

・驚くのは、まだ40歳の原さんが台詞とは言え、”もう、お婆ちゃんだから・・。”と二度言い、その度に司葉子演じる末娘・紀子から窘められている。
 美しさに陰りは無いのに、時代なのだろうか。
 女優さんは、30代後半をどう乗り越えるかというのが課題であると現代でも言われているが(マア、失礼な話ではある。)当時は時代的にもっとそういう志向が強かったのだろうなあ、と少し寂しく感じた作品である。

<そして、今作から数年後、原節子さんは映画界を引退する。そして、隠遁生活に入り世間には殆ど姿を現さなくなったのは、周知の事実である。
 けれども、それはこの稀代の大女優さんの見事な幕引きではないかな、と私は思うのである。何しろこの方の主演作の本数は、現代の女優さんの数十倍はあるのだから。
 そして、亡き後もその名は燦然と人々の心の中に残っているのであるのだから。>

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NOBU

5.060年 日米安保条約真っ只中なり。

2025年3月28日
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マサシ

4.0京都の造り酒屋

2025年2月6日
PCから投稿

ウィキペディアの概要を要約すると映画のポイントは、関西が舞台、松竹の小津安二郎が唯一東宝でつくった映画であること、濃厚な死生観の三つだと思います。

京都の造り酒屋小早川家。経営は斜陽にあります。その大旦那である万兵衛(中村鴈治郎)と義姉を含む三姉妹(原節子・新珠三千代・司葉子)を中心とする話です。小早川の読みには濁点がつきません。東宝が小津を招聘し、いつもの小津組ではない役者をつかうことで変化を引き出そうとしており、冒頭から小津安二郎らしくない俳優と言える森繁久彌が出てきます。確かに小津映画の中にいる森繁久彌に強烈な呉越をおぼえました。

冒頭のシーンはカウンターのあるバーで、加東大介が森繁久彌に原節子を引き会わそうとしています。原節子は後家で、森繁久彌も寡男、双方連れ子をもっています。
森繁久彌は一計を案じ、たまたまバーで会ったようなふりをして、もし原節子が気に入ったら鼻をさすってサインすると言いました。そこへ着物姿の淑やかな原節子がやってきてふたりは「やあどうも」みたいな猿芝居をし、大いに気に入った森繁久彌は大げさに鼻をさすって「大オーケーや大オーケー」とすっかりのぼせますが、森繁久彌と原節子なんて想像できない夫婦ですし、その後も二人の話は進展せず、本編にも絡まない枝話で、いわばこれはコミカルに盛った映画の「つかみ」と言えるでしょう。
原節子が席を外したとき、森繁久彌と加東大介が、バーナーのような火加減のライターでたばこに火をつけるシーンがありますが、そこは本気で笑いました。

本編は東京物語(1953)に浮草(1959)を足したような話です。原節子は長男の未亡人なので東京物語と同じ立脚点です。万兵衛の妹役の杉村春子が死に対してさばさばしているところも東京物語と同じでした。万兵衛は浮草のように老いらくの恋をやって娘らをやきもきさせますが「ああもうこれで終いか、もう終いか」と言い残して頓死します。死生観と言いましたが、生のほうはまったくない話でした。

目を引く映画の特徴は暑くない夏であることです。ほとんどのシーンで、ほとんどの出演者が、扇子または団扇で「暑い暑い」と言いながら、じぶんか人をあおいでいます。しかし画から暑さは伝わってきません。登場人物のひたいにも汗滴はありませんし、だれの着衣にも汗染みはありません。
また人物の性根が純粋すぎます。ほかの小津映画にも言えますが、登場人物が全員まったくひねくれておらず、不可解な考え方というものが存在しません。同僚(宝田明)のお別れ会では清純そのものに歌を歌って壮行し、秋子(原節子)と紀子(司葉子)はまるで何も知らない少女のように結婚観について語り合い、父親が亡くなったら悲しくて涙を流します。一般に、世の中には、小津安二郎の映画に出てくるような単純な人間はいません。いや、いないこともないでしょうが、世の中には単純に見える事象はあまりありません。
さらに他の小津映画同様、人々は作為的に揃えたり並ばせたり動きを合わせたり配置を考慮された絵の中にいます。テーブルにはコカコーラやバヤリースオレンジのリターナブル瓶が林立しています。現実と比べてそれらを不自然だとするならこれほど不自然な絵もありません。
加えて他の小津映画同様、映画内で登場人物たちはこぞって小津が指導する能面演技を繰り広げているわけです。

しかし現実との違いがあるからといって小津安二郎の映画はリアルではない──とはならないわけです。映画のリアリティとは単純に現実的であることとイコールではありません。このことは大概の日本の映画監督が知らないことです。

映画小早川家の秋の核心をついているのは万兵衛の義弟役の加東大介が言う台詞です。葬儀でぼつりと言いました。

『人間というものは死ぬ間際までなかなか悟れんもんらしいですなあ。兄さんのようにしたい放題した人でもなあ。太閤さんでも死ぬときには「なにわのことはゆめのまたゆめ」って言いはったんですもんなあ』

題名の小早川家の秋は、小早川家の死という意味だと言えるでしょう。それを関西人の気質で語っています。謂わば東京物語の関西編です。英題はThe End of Summerで、話の本質をつかんだ英題だと思います。畢竟、秀吉の辞世の句はこの映画の副題のようにしっくりくるのです。

ただし映画はラスト10分以上が葬送シーンですが個人的には大仰に感じました。カラスや墓石によって死が強調され、コミカルなはじまりから落差がありすぎだと思いました。

また原節子が痛々しいのです。かつてじぶんは晩春のレビューにこう書いています。

『よく思うのだが外国人にsunny smileと評される原節子の笑顔は、個人的な見地だが、とても無理笑いであると、かんじる。
こんだけ無理な笑いもないだろう──ってくらいな無理笑いなひとだと思う。
なんか見ていて痛々しいのである。このひとが笑っているだけで、哀しくなる。
原節子が引退した理由は、演技をすこしも楽しんでおらず──ただわたしは家族をサポートするために、ながなが我慢して銀幕のスターをやってきたんだ──もうやめさしてください。というものだったそうだ。
1960年代に40代なかばでやめ、そこから半世紀経った2015年に95歳で亡くなるまでインタビューも写真も拒否し世界から永久に背をむけつづけた。
そして、そんな隠遁生活をおくるであろうっていう気配は、晩春にも麦秋にも東京物語にもある。なにしろ笑っているだけで痛々しいんだから、無理強いしている気がするんだから。』

個人的にこの映画でもっとも目を引いたのは若い藤木悠です。昭和世代ならよく見た俳優ではないでしょうか。この頃はすこし新井浩文に似ていました。

imdb7.7、RottenTomatoes100%と86%。

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津次郎

貫禄と風格

2024年8月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 松竹の大看板とも言える小津安二郎監督を東宝が招いて制作した作品です。と言っても、特に大きな出来事は起きず、娘が嫁に行くの行かないのというお馴染みの家庭劇はいつもの小津物語です。でも、本作は非常に強い印象が残りました。監督も老境に入ったせいか(本作の2年後に亡くなる)、お馴染みのローアングルの映像に凄く安定感があり観ているだけで心地よいのです。新珠三千代さんの脂の乗り切った貫禄、鴈治郎さんのちょっとした所作にも表れる上方歌舞伎俳優の粋さ。

 そして、小津作品ではいつも物語にさざ波を立て、僕の御贔屓の杉村春子さんは本作でもどこか規格外れの魅力。などなど、オールスターキャストが決して出しゃばらず味わいを放ちます。東宝が監督を松竹から招いた力の入れ様が窺える作品でした。

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La Strada

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