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◯作品全体
清掃員の男がサーフボードを見つけ、サーフィンに目覚め、やがて海で死ぬ。耳が聞こえなかったり、同じく耳の聞こえない彼女がいたり、サーフィン仲間ができたりもするが、物語といえる部分はものすごくシンプルで、なにかにのめり込む情熱と、情熱が生み出す生活の豊かさにスポットライトが当たっている。
映される画面も物語と同様にシンプルで、海と人物、そして人物が歩く道で構成される。北野映画は歩くシーンが多いという共通点があり、本作でもそれは同様だ。ただ、他の作品と少し違うのは、歩く姿からなにかに対する前向きな情熱が感じ取れることだ。茂が海へと向かって歩く横位置のカットは度々、長い時間を使って映されるが、そこからはサーフィンへの情熱を手に入れた茂の静かな高揚感が湧き出ていた。序盤は無表情の茂の思考を感じ取ることが難しいが、サーフィンへ向かうとき、サーフィンをするときの茂の没入感は、海へ向かう茂の姿からハッキリと感じ取れた。
同じように無表情のことが多い貴子の茂へ想いはバスのシーンを中心に語られる。急に走り出す貴子の姿だけで茂への情熱を表現するシンプルな演出。ありきたりなセリフで二人の関係性を語るよりも、寄り添いながら歩く二人の後ろ姿を映す方が断然良い。
プロップやモチーフを豊富に使った表現技法や凝ったレイアウトで物語を語る作品ももちろん好きだが、毎日の豊かさをシンプルに、静かに語る作品もやはり良い。情報量の多い毎日を生きていると多彩であることが幸せのように勘違いしてしまうけれど、自分が見つけた情熱を注ぎたいと思えるものに対して、シンプルに向き合えること自体が幸せなのだと気づかせてくれた。それを象徴するような「サーフボードを持って海へと歩く茂」は、序盤では少し退屈なカットに感じたけれど、作品後半では一番魅力的なカットとして映った。
◯カメラワークとか
・厳密に区切られていたわけではないと思うけど、横位置で歩く姿を映すカットはサーフィンへの情熱を切り取るときに使われていて、手前や奥に歩く姿を映すカットは茂と貴子の関係性を映すときに使われていたような気がした。横位置カットは茂がサーフボードを持っているときにほぼ必ずと言って良いくらい使われていたし、後半にサーフィンをやり始める二人組を映すカットでも横位置だった。手前や奥に歩くカットはバスから降りた貴子が走っていくカットや二人が合流して歩くカット。あとは機嫌を損ねて家に籠っていた貴子が出てくるカット、そしてラストのサーフボードを海へと持っていく貴子のカット。茂にとって二つの情熱の方向性があった、というような意味付けだろうか。
◯その他
・終盤まではシンプルな生活の豊かさにスポットライトが当たっていてすごく好きなんだけど、ラストは蛇足に感じた。茂が死んでしまうのも終盤の大オチを強引に作った感がいなめない。茂の物語のように見えて、茂に依存している貴子を成長させる物語なんだっていう見方もできるかもしれないけど、茂と貴子の関係性に変化がないから唐突に見えてしまう。
回想シーンは更に最悪。静かな空気感が茂と貴子の関係性を特別にしていたのに、はしゃぐ貴子とかあまりにも普遍的すぎて意味がない。意味がないどころかせっかく作品内で一貫してきた二人だけの独特な空気感をぶち壊してる。見始めたときには「特殊」に感じて違和感のあった関係性が、作品を通して「特別」なんだと受け止められたところで、別にそうではないと作品側から突き放されるような悲しさ。