この映画は見ないで、原作を読んでください。
山田玲司氏著作『絶望に効く薬』で知った原作(ありがとうございます)。
原作は、主人公ウィル(この映画では英治)が”あの空”にいる妹ウィニー(この映画では絵里奈)にあてて書いた手紙の形で綴られる児童文学。
(原作原題の直訳『ウィニーは翼を持っている』)
一緒に行ったはずなのに、妹は光にあふれた”あの空”にとどまって、笑っていることを兄は知っている。
兄だけが、”この地”に戻り、これからの”生”を生きる。そこには、いろいろな”問題”があり、そして兄が感じる心を妹に打ち明け、相談する。でも、妹への手紙だから、時に弱音も吐くけれど、どこか前向きで…。そんな日々の移り変わりが、切なく、面白く、言葉にされていない気持ちに胸つまされ、そして…という物語。
読後、心に灯がともったような気分にさせてくれた作品が映画化されると知って、喜び勇んで映画館で鑑賞した。
なんだ、これ?原作の持ち味を殺している。なんでここまで空々しい作品になってしまったんだ。
怒りを通り越して唖然として仕舞った。
原作は、悲しみ・寂しさ・臨死体験の残像、それを周りに理解してもらえない辛さ。それでも生きていかなければならない中で、親をはじめとするいろいろな人の無神経さに傷つけられた心が、少しずつ再生されていくと同時に家族も再生されていく様子を、主人公の少年の目線で綴った名作。
だのに、映画の視点はどこを向いている?息子?父親?中途半端。
モノローグ形式の文学を映画化するのは、とても難しいと知っている。
(直接表現されていない登場人物の心情や動きを、映画スタッフで作り上げなければならないから)
思い入れのある原作の映画化だから、評価が厳しめだとは思う。
それでも、この映画はひどい。
あの家の造りも、原作にもあったツリーハウスなども登場させて、日本舞台では違和感を感じるが、それなりに原作を尊重した作りと、百歩譲って良しとしよう。インテリアやエクステリアのしつらえが、テーマパークかと間違えるような作りも、原作尊重をした姿勢と仕方ないと諦めよう(原作も、日本版の挿絵もあんなテーマパークではないけれど)。
でも、人物設定が、あまりにもありえないので興ざめ。
一番ひいたのは、カウンセラー。あんな近づき方したら、どんな子どもも心を開かないよ。心の再生って笑顔にすればいいってもんじゃない。リサーチしたのかなあ?聞き上手なのは当たり前。それが商売道具の一つだもの。言葉で説明するんじゃなくて、寄り添う姿で表現してほしかった。
そして家族が家族していない。夫婦が夫婦していない。事故の前から親が親ではない。他人同士の共同生活。遊んで豪華な食事をするだけじゃ家族にはなれないんだよ。守るためには躾けなきゃいけないんだよ。おむつ替えとか、汚れ仕事も後から後から際限なく発生するんだよ。
インテリア・エクステリアのしつらえだけでなく、家族関係に生活臭がない。
作品中、重要なエピソードとなるオルフェウスも、日本ではどうなの?唐突に見えた。USAやヨーロッパなら、教養としての位置づけがあって原作ではすんなりと読めたが、日本舞台の映画では違和感ありあり。
と、脚本・演出がグダグダ。
舞台を移しかえるにあたってもっと練っていただきたかった。だた、なぞるだけじゃなくて、物語の本質はどこなのか、変えられるのは?変えられないのは?筋からシーンを選ぶのではなく、主題からシーンを厳選してほしかった。
いや、原作を尊重・なぞっているように見えて、この映画は原作をかなり改悪している。
元々少年目線の話を、家族を俯瞰してみる脚本にしている。それは映画化するにあたってよく使われる手法だ。それ自体は悪くない。
そこに安易に臨死体験・あの空(あの世)の英治のイメージと、在りし日の妹の残像を織り交ぜる。そんなイリュージョンを組み入れるならば、現実をしっかりと描かなければ、映画が絵空事になってしまう。だのにこの映画は、ディズニーランドのような家や、トレンディードラマの役者、上っ面だけのセリフ等、現実的・生活感がまったくないからプロモーションビデオのようだ。
かつ、ウィルが書いた手紙で使われていたような説明調のセリフ(手紙の受取人・ウィニーが理解できるように説明するための文章)を会話の台詞としてそのまま入れるので、会話が他人行儀で、家族が家族していないし、子どもが子どもしていない。
映像表現として成立させるんじゃなく、たんになぞっているだけ。
ウィル≒英治の気持ちを、本当に理解しようとしたのだろうか。理解したつもりになっているだけにしかみえない。だから、登場人物に命が宿らない。
改悪しているのは、目線だけではない。
原作は、自分が死んだらどうなるのか、生きるとはという命題にも応えている、心の再生物語だ。”あの”トンネルを駆け抜ける勇気を持ち”あの空”でのびのびと駆け回っている妹と、駆け抜けられずに引き返してしまって、現世にいる自分(ウィル)との対比が繰り返し出てくる。
だが、映画は、少年のその葛藤はスルーしてしまって、安易な家族の再生物語にしてしまった。
だったらもっと真正面からリアルな家族を描くべきなのに、家族そのものの現実味がない。
何もかも中途半端・上っ面だけ。
加えて、竹野内氏、水野さんの演技がリアリティをもたない。演技を一生懸命にやっていることはわかるんだけれど、その佇まいやセリフに、子どもたちを育ててきた歴史が見えない。苦しんでいるさまが空回りしてしまっている。
子どもが生まれて子どもと共同生活していたけれど、心が親になり切れなくて、この出来事を経て”父”に”母”になる過程を映画で描き出したかったんなら、せめてラストには”親”の顔になっていて欲しかったが、それもなかった。
かえって子役の方が活き活きと演技していた。
かつ、父・母の設定が安易。
原作は兄の目線の物語。だから、兄の視点のオブラートがかかっている。ある誤解から、父は〇〇と思っているという見方。
だが、本来の人は、ある人が「こう見える」という面だけではないはずなのに、この映画では、兄視点から見た両親の姿しか表現しない。
最近よくある、「ある誤解」を知ってから見ると、兄視点以外の解釈もできるような演出をしていない。
だから、人物造詣が薄っぺらになってしまっている。
この映画のスタッフはこの映画で何をとりたかったのだろう。
ただ、トレンディードラマの役者を使っておしゃれに撮りたかっただけなのだろうか?
生と死に向き合う気合を持って作っていただきたかった。
作品自体は原作を冒とくしているようにも思えて本当は☆マイナスにしたいが、子役に免じて☆1つです。