あしたの私のつくり方
劇場公開日:2007年4月28日
解説
「神童」など話題作への出演が相次ぐ成海璃子主演の青春ドラマ。学校でも家でも周囲に自分を合わせてしまう女子高生・寿梨は、優等生からイジメられっ子に変わってしまった小・中学校時代の同級生・日南子に、偽名で携帯メールを送り始める。“本当の自分”と“偽りの自分”との間で葛藤し成長していく思春期の少女たちの心情を、「トニー滝谷」の市川準監督がみずみずしいタッチで描き出す。共演はアイドルグループAKB48の前田敦子。
2007年製作/97分/日本
配給:日活
スタッフ・キャスト
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2023年4月10日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
ん、苦しかったね。よく頑張ったね。
そんな貴方を受け止めてくれる人に出会えてよかったね。
☆彡 ☆彡 ☆彡
「本当の私」と「本当でない私」を巡る物語。
小学校~高校生の女子の心の移り変わり、成長を綴っている。こんな風に思っている前思春期以降の人ってたくさんいるよね。
学校・友達が軸になっているが、
いじめを受けたことがある子の後日談の一つでもあり、
諍いの多い家庭の中で、頼れる(甘えられる)大人を持たずに、「本当でない私」で暮らしている子どもや、
親のメンタルケアをしているとか、親に嫌われないように息をひそめることも含めた、親の期待に応えて「本当でない私」でいることで家庭内の居場所を確保している子どもの話でもある。
寿梨と日南子の関係は時に「こんな風に展開したら良いね」っていう、ちょっと教育番組的な、夢物語的な、中学生が好きそうな展開になっているけど…。
一方で、人気者から仲間はずれへの転落とか、
その時に自分をどう支えるかとか、
クラスの中心にいるメンバーへの想いとか、
小学校の時自分より下だと思っていたクラスメートが、久しぶりに会ったらやけに輝いていて、しかも手放した自分の元の家に住んでいることを知った寿梨の想いとか、
再婚相手の”親切”な想いが、実は寿梨を奈落の底に突き落とすということとか。
実にリアルに描かれている。
その微妙な心理を演じる成海さんがうまい!!!
二十歳ぐらいの方が演じているのか、でもなんという透明感!!!と思っていたら、14,5歳だと知って更に驚き。
対して、寿梨を囲む大人の暑苦しさ。
「本当の自分」をお互いに押し付け合う親の間で、本当に苦しむのはいつも・どこでも子ども。
「ありの~ままの~」という歌が流行っていたけど、「本当の自分」て何なのか、考えたくなる。
どうせなら「私、こんなにがんばっちゃった、えへw」と言えるような頑張りをしたい・させたい。
コトリがヒナに一生懸命贈ったメールは、コトリのためでもあるけど、ヒナのためを思って考えに考えて贈ったエール。
そこには「作られた私」が綴られているけど、ヒナの為にという想いはまぎれもなく「本当の私」。
そういう想いって、たとえメールでもちゃんと相手に届くのだろう。
そんな風に、
寿梨役の成海さんが、これだけの透明感、でも確かにそこにいる存在感を醸し出していたのに対し、
両親役のW石原さん。”自己中、大人のカッコした中身は子ども”を振り撒いていて、笑った。
日南子の母の対応との違いも訓話的で見事。
そういう自分しか見えていない人とのやりとりって、向かい合って話していても、一緒に暮らしていても、なんて届かないのだろう。
そんな物語に、メールでのやり取りの画面やカット割り等が多用されていて、演出も面白かった。
ただ、物語としては、要所を要領よくまとめ上げたな、という感想がぬぐえない。教育的動画をさっと見せられた感じ。
日南子側の物語にもう少し厚みを出して欲しかったとは思うものの、日南子役の演技ではあれがギリギリか。
彼氏とのエピソードは優等生映画的・願望映画的メッセージとしては良かったが、相手役も含めて、もう少しどうにかならなかったのか。
日南子が丸首のカットソーを脱ぐときに、顔に服が当たらないようにして脱いでいたけど、ファンデーションがカットソーにつかないようにする脱ぎ方。高校生で化粧している前提?って、興ざめしてしまった。前田さんにしたらいつもの癖が出ただけなんだろうけれど。
そんなところが、惜しい。
子連れで再婚しようとしている親や、
争っている家庭(夫婦だけでなく、舅・姑との関係でも)や、
寿梨や日南子と同じように友達の中で右往左往している前思春期~思春期の子どもには
ぜひ推奨したいけど、
自分が見返すかって言ったら成海さん目当てかな。
W石原さんが痛すぎる。(もっと別の役者使ったらもうちょっとマシになったと思うけど)
成海さんには☆5つですが、
全体的のできは☆3つ。
間をとると☆4つなんだけれど、3.5。
2018年10月29日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル
アイドル映画の皮をかぶった文芸作品のような、そんな印象が残る。明日が来るのが怖いと思っていた寿梨。ランドセルを背負う小学生の役も違和感がない成海璃子。卒業式には日南子が「あなたがいなくなったから無視されるのが私になった。今の私は偽物」と告白される。ちょっとした強がりに見えるところが巧い。
高校生になり、日南子が転校していったという噂を聞き、正体を明かさずにメールする寿梨。本当の日南子を取り戻してほしいと思うが、文芸部に入ったこともあり、自作の小説を書くようになった。“かなこ”だから“ヒナ”。寿梨の助言通りに行動して、クラスの人気者になっていくのだった・・・
2013年3月12日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
いじめにあって転校していった同級生を励ますつもりで、メールで物語を送り続ける14才くらいの女の子の物語。
この作品の奇妙なところは、登場人物に個性が感じられないことです。逆に言うと、個性などあってはならない子どもたちの世界を描いたからこそ、個性など存在するべきでない、と言いたげな珍しい作品なのです。
だから、物語の進行はナレーションが中心とした心理描写が多いのですが、その場合、映画を見ている者はナレーションがうるさく感じがちになるのに、そうはならない、そこがこの作品の面白いところであり、衝撃的なところでした。
この作品に登場する女の子たちは、常に自分でない誰かになっている、または誰かに頼って生きています。そうしなければ、学校でいじめにあい、家族がうまくいかない。「私はかすがいになる」や「自分を隠す」など、映画の前半は子どもとは思えないセリフがいくつも出てくるので、見ている者は衝撃をおぼえるのです。
ところが主人公が、以前にいじめられていた同級生に自分を隠して物語のメールを打ち続けるあたりから、映画の物語もそのメールの物語同様の面白さに溢れてきます。このあたりのストーリーテリングのうまさは、さすがに監督市川準ならではと唸らされました。繊細に少女たちの行動、そして表情をさりげなくとらえていくカメラの動きが本当に素晴らしい。
後半、物語のメールを送る側、受け取る側のお互いの少女が他人を演じるのではなく、自分でありつづけたいと思うようになります。しかし、スクリーンの外側から見ている、私たち大人たちはそうしようとする女の子たちに不安をおぼえてきます。それは、大人になるにつれて、自分とは何かに迷うことを我々は知っているから。
監督はあからさまに、そんなメッセージを演出の中に残しません。しかし、観客はそれをゆるやかに感じるのです。映画は静かに終わるのですが、登場した少女たちの物語はこれから、というところが、切なくなってきました。
この作品は、少女たちの世界を描いて見せながら、実は現代社会の歪みの中で暮らす、没個性な一般人そのものまでもとらえている点でも、とても興味深いものがあります。大人がこの少女たちの世界を、怖いと言っているようでは駄目、と言いたげな市川監督のニヤリとした顔が目に浮かんできそうになりました。
2010年9月9日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
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学校は子供達の修羅場=戦場なのかもしれない。
誰かがジョーカーを引いてくれる事を、皆息をひそめて待っている。
引いてしまったら次の誰かが標的になるまで、ひたすら耐えぬくしか
生きる術はない。
家では不仲の両親のカスガイを努め、学校では目立たぬよう
クラスメートに溶け込む事に全神経を集中させている「寿梨」には、
成熟しかけの少女のか細い体つきと硬質な美しさと確かな演技力で
すでに大女優の風格さえ感じさせる成海璃子
小学校では明るい優等生で人気者だったが、ジョーカーを引いてしまい
「いじめられている私は嘘の私」と鎧のような殻に逃げ込んだ「日南子」
を演じるのは、あどけなく控え目な表情の中に意思の強さがかいま見える
AKBの前田敦子
演技の巧拙が少し気にはなったが、15~16才という若さで、すでに
二人共したたかな存在感とオーラを持っている。
仮面の中に本来の自分を隠しているという意識が、双生児のように
似通っている寿梨と日南子。
彼女達は学校ではすれ違いながら、携帯(メール)で繋がり始め、
最後に直接TV電話で話す場面では、それまで寿梨の操り人形のように
振舞っていた日南子が殻を脱ぎ捨て、彼女自分の言葉を寿梨にぶつけていく。
そして寿梨もまた仮面の中に閉じ籠っていた心を開き、素直に泣く事ができた。
あしたからまた生き抜くために仮面をかぶる事もあるだろう。
だが、ありのままの自分を見せられる友を得た事で、二人共少しずつ
本当の自分を育てていく事ができるようになるだろう。
痛々しさと愛おしさを感じる映画だった。