<映画のことば>
怪物と戦う者は、その過程で自分が怪物とならないように気をつけなければならない。
深淵を長く覗くとき、深淵も覗き返している。
彼のような保護観察官の仕事は、犯人・証拠を捜査することでなく、既に刑事処分の終わった性犯罪者の日常生活を把握し、その立ち直りをサポートすることにあり、そのことを通じて、究極には再犯を防ぐことにあったはずです。
(それゆえ、バベッジの身分も、司法当局・警察当局ではなく、公共安全局という行政部門に置かれていたはずです。)
そして、普通には、人は退職を間近に控えると、とかく有終の美を飾ろうとして、むしろ、慎重・保守的になるのが一般的だとは思うのですけれども。
しかし、最初の犠牲者・アビゲイルを助けることができなかったことの強烈な悔悟の念が、バベッジを怪物に変えてしまったことは、改めて評論子が指摘するまでもないことと思います。
加えて、バベッジは退職を間近に控えていて、しかも後任のアリスンへの業務の引き継ぎ期間は、僅かに18日しかなくなっていたというくらい、退職が迫っていた時期でしたから。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という、焼けるような焦燥感に耐えながら。
そして、それに加えて助けることのできなかったアビゲイルの事件についても「もっと何かができたのではないか」という、やはり焼けるような悔悟の念という「双子の苦悩」が、今回のハリエットの一件の調査について、バベッジが、ある意味「一線」を越えて、自分(自分の職務)を超えて、過度にのめり込んでゆくという、その心情は、評論子には、痛いほど伝わって来るようでした。
リチャード・ギアというベテランを配し、その彼の落ち着いた風貌と物腰とが、十二分な抑制も利かせながらの演技にもかかわらず(否、終盤のシーンを除いて、終始、抑制の利いた演技であったからこそ、なおのこと余計に?)その心情の「痛さ」か、余計に鋭く伝わったようにも思います。
上掲の映画のことばは、どんなに苛烈な状況下にあっても、自戒して「一線」は超えてはならない(超えるべきではない)ことについての箴言なのだとも思います。
ひとりの老保護観察官の痛いほどの心情を、深い洞察(抑制的な演技)で描いたという点では、佳作の評価は、少しも惜しくはないと思います。
評論子は。