ヴァージン・スーサイズ

ALLTIME BEST

劇場公開日:

解説

ヘビトンボが郊外の街の上空を覆う6月。リズボン家の美しい年子の5人姉妹は、近所の少年たちの一番の興味の的だった。姉妹の厳格な母親ミセス・リズボンは、娘たちの外出を殆ど禁じ、野暮ったくて慎み深い格好を強制していた。ある日13歳の末娘セシリアが手首を切って自殺を図る。なんとか一命は取り止めるが、精神科医から彼女の外界との接触の少なさが原因と指摘されたミスター・リズボンは妻を説得し、ホームパーティを開いて男の子たちを招待する。

1999年製作/98分/アメリカ
原題または英題:The Virgin Suicides
配給:東北新社
劇場公開日:2000年4月22日

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(C)1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures. All Rights Reserved.

映画レビュー

3.5【”誰も5姉妹の少女から大人の女に変わる微妙で繊細な心情に気付かなかった。”男の子達の子供っぽさや、5人姉妹の両親の過保護過ぎる姿が惹き起こした悲劇をセンスある音楽と映像で映し出した作品。】

2024年10月18日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

知的

難しい

■美しいリズボン家の5人姉妹。
 彼女たちの厳格な母親は、この宝たちを世俗から守ろうと必死になっていた。
 そんなある日、13歳のセシリアが手首を切って自殺を図る。
 何とか一命を取り止めるが、精神科医は抑圧された生活が自殺の原因だと診断を下し、彼女は再び命を絶つ。
 そして、残り4人も・・。

◆感想

・結末の悲惨さにしては、映像の美しさ、音楽のセンスの良さが光る作品。その後のソフィア・コッポラの作風の一端が伺える。

・登場人物の中でも、14歳のラックス・リスボンを演じたキルスティン・ダンストの妖艶さは、少女ではない。 最早、一人の若き女性である。
 それに比して、彼女を落とそうとしたトリップ(ジョシュ・ハートネット)の幼稚さが目立つ。
 マア、男の子と女の子の精神的成熟度合いのスピードの違いは、医学的にも証明されているけれど。

<今作は、物語の展開の軽快さと、ラストの重さのアンバランスが不可思議な余韻を醸し出す作品である。>

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NOBU

4.0わかっていないことしかわからない

2024年9月17日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館
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kikisava

3.5ガーリームービーと言えばコレ

2024年8月14日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

パリ五輪閉会式でエールがフェニックスとplayground love演ってて懐かしくなって再鑑賞
映画館で観た'00当時はお洒落な映像と真っ暗なストーリーのチグハグさに(わっかんねー)と頭抱えつつ選曲がツボでサントラCD鬼リピしてた
今観るとキルスティン・ダンストのための作品ですね
ジョシュ・ハートネットの髪型は時代とは言え変で何で奴がモテるのか

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yuka

1.5惨憺たる出来のデビュー作

2023年9月15日
iPhoneアプリから投稿

ソフィア・コッポラは『ロスト・イン・トランスレーション』や『SOMEWHERE』が割と気に入っていたので初期作品も見ておこうと思い鑑賞。同じ監督が撮ったとは思えないほど不快だった。

とにかく映像が酷い。当時のアメリカ映画にお決まりの文法をバカ正直にそのまま流用しているだけな印象を受ける。ショットはポップネスのためだけに好き勝手切り刻まれ、並べ立てられているため、余韻が生じる余地すらない。物語のほうは明らかにある程度の余韻を必要としているにもかかわらず、だ。かといってジョン・ウォーターズが『シリアル・ママ』でやったような、当時のアメリカ映画のポップな文法を愚直に模倣することで物語の奇形性を逆説的に強調するといった策略性や批評性も感じられない。単に映像と物語の波長が合っていないだけ。

監督の父親でありアメリカ映画界の大巨匠であるフランシス・フォード・コッポラは叙事詩的な(つまり第三者視点からの「観察」に徹した)大作を数多く撮り上げている。そこではロングショット/長回しが基調を成していた。一方でソフィア・コッポラはきわめて個人的な(登場人物の内面の「生成」に徹した)どちらかといえば地味な作風を得意とする。彼女は父親の作風とその文法との単純な対比関係から、さして考えもせずにクローズアップ/モンタージュという安易な対立軸を採用しただけなのではないか、と邪推してしまう。

本作のちぐはぐさ(映像と物語の乖離)についてソフィア・コッポラ自身も自覚的であったようで、以後の作品からは本作のような軽率なアメリカ映画っぽさは消えている。その結果、父親と同じようなロングショット/長回しの文法に寄ってしまったことはある種の因果というか運命というか。

物語そのものに関していえばいつも通りのソフィア・コッポラという感じ。生死の境界線上をうつらうつらと彷徨う少女たちの姿は『ロスト~』のシャーロットや『SOMEWHERE』のジョニーに重なり合う。それゆえ映像とのミスマッチが一層腹立たしい。

死にたい理由を周囲に種明かしすることなく死んでいった少女たちを「男に消費されない女」の象徴としてウーマンリブの文脈で称揚することもできなくはないが、それにしては男たちの身勝手なエモーショナリズムに対する批判が足りない。「オレたちバカだったよな・・・」と思い出に浸る男たちを眼差すカメラはむしろ同情的でさえある。

ラストのパーティーシーンでプールに飛び込んだ青年が「俺は悩める10代なんだ!」と喚き散らしたことからもわかるように、やはり本作の主眼も『ロスト~』や『SOMEWHERE』と同じく「内面の空虚さに悩む個々人の描出」なんじゃないか。少女たちは死にたい理由を周囲に言いふらさなかったのではなく、言いふらすほどの理由がなかったのだと思う。

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