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戸籍の無い男の一代記であるとともに、その男とコーン吹きの友情の物語。
それを、この世の物とは思えない音楽で綴る。
音楽に酔いしれる上映時間は至福の気分に浸れます。
でも、でも、でも…。
私には、1900が、
飼育されてしまって、野生に戻れなくなった動物のように見えて…。
『ショーシャンクの空』のブルックスを思い出させられて…。
大家族の中で大切に養育されたものの、家族以外との接触がなく、社会化する機会を逸して、引きこもりになっている子どもと重なって…。
万能感に浸った少年が、現実を前に、足がすくんで動けなくなった姿に見えて…。
本来の保護者からは捨てられた1900。
でも、養い親ダニーは愛情深く、周りの船員からもかわいがられて育つ1900。
船長でさえも、下船させることや、当局に届けさせることなく、船で育つ。後1年で20世紀が始まる頃、今よりも戸籍の観念が緩く、彼らにとっては当然のことであったのだろうか。
27歳になっても、悪戯小僧。前思春期・ギャングエイジのような1900。
嵐の夜のピアノ演奏は、見ている分にはとても魅かれるシーンだが、現実的に、あんなに装飾が見事なガラスを割るのは、現実的ではない(壁や周りの家具にぶつかるであろうことは、大人なら予測がつくことだ)。
船からの悪戯電話。彼の境遇を考えれば、涙を誘う場面だが、やってよいことと、いけないことの判断がついていない。
女性の寝室に忍び込んで、寝ている女性の許可なくキス。今なら性犯罪で訴えられる。
すべて、賠償金付きの懲戒免職になってもおかしくない事案だ。
だが、映画の中では、その音楽の才能もあって、「我らが至宝」と称えられる。
1900のピアノを聞くためだけに乗船する客が多かったから、経営陣は1900の悪戯に目を瞑っていたのか?
戸籍の無い不遇な”子”として、甘やかされていたのか?
今の時代より、コンプライアンスが緩い時代だったのか?
映画は、完全に”寓話”として、1900の特異性を、それを称える人々・エピソードを、耳心地のよい音楽と共に紡ぎだす。
そして、彼の才能を大金に変えようとする人々。
単に、彼の素晴らしい音楽を多くの人に届けたいという思いからきているのだが、誘う言葉は「大金持ちになれる」。アメリカンドリームの夢を抱き、食い詰めた人々が、USAに移民に出る不景気の中では、当然の思いであろうが。
そんな欲に見向きもしない1900。
モートンとの対決も、初めは音楽で”対決”という意味が解らず、ただただ、モートンの演奏に感動するだけ。煽られて、最後は打ち負かすような演奏はするものの。
監督は世俗にまみれない純粋さを描きたかったのか?
金持ちの客にも、移民する人々にも、そして演奏シーンはなかったが、たぶん病院船の中でも、そこに音楽を愛でる人々がいれば、演奏していた1900。
「海の声」それを聞けば、自分が何をすべきかが判るという。
音楽を奏でることは息をするようなもので、その上で自分探しをしていた1900。自我の目覚め。
そんな葛藤と、1900が出した生き様を描きたかったのか。
ロス氏の演技が、そんなサヴァン症候群?と思いたくなるような、夢想した表情、いたずらっ子な表情、それでいて、思いつめた時の思慮深い様、達観した時の表情と様々な様子を見せて、魅了してくれる。
そんな1900を大切に思い、ごく一般的な幸せを願うコーン吹きの眼差しが温かい気持ちにさせてくれる。
コーン吹きの温かい眼差し、至極の音楽に酔い、素晴らしい映画を観た気になるのだが、
今一つ、映画のストーリーには乗れなかった。
足止めしてしまう1900の気持ちは判る。
でも、同じような人が側にいたら、何らかの手立てを講じられるだろうと思ってしまうのだ。
今も、親の結婚事情とその主義による無国籍児が日本にもいる。
様々な事情で、今の場所に囚われて、踏み出せない人々がいる。
最終的に、どこでどのように生きるかは、その人自身が決めるものだが、一人で悩んで一人で決めるものではないだろうと思うのだ。
養い親は、1900が8歳の時に亡くなってしまったから仕方がないとして(彼が生きていたら、1900を自立できるように育てていたはずだ)。
船員たちは、可愛がりはするものの、誰も1900の成長に責任を持たない。
コーン吹きは、なんとか1900を船の外に連れ出そうとするものの、一人で行かせてしまう。30歳の男としては、一人でできるだろうと、27歳の男との自立度を図りかねるのは仕方がないとして、実際は、援助が必要だった。だって、1900の中身は自立前の10代の少年なのだから。
そんな自立に失敗した男が自分ができることとして選択した生き様に思えてしまうから、この映画に素直に感動できない。
でも、監督はそんなことを描こうとしたのではなく、もっと芸術よりの純粋性を描きたかったのではないかとも思う。
なので乗れない。私にとっては、音楽を楽しむ映画かな。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
”芸術”という点では、
誰に、何を届けようとするのかということもテーマなのかとも思う。
ダンスホール、今ならライブハウス?1900は「2,000人」と言っていたから、コンサートホール規模までか。
オーディエンスの反応を見ながら(感じながら)、奏でられる音楽。
1900が奏でるのはそういう音楽。
だが、マス相手になれば、そうもいかない。
コロナ禍で、無観客ライブ配信もあったが、誰に、何を届けていいのか、わからなくなる。方向性が見えなくなる。
1900はそれはできないという。
この映画も、短いファイン・ライン版と、45分も長いイタリア完全版がある。
この監督の有名映画『ニュー・シネマ・パラダイス』に至っては、インターナショナル版と、映画の趣が変わってしまう3時間完全オリジナル版がある。
映画もマス相手。オーディエンスの反応を見ながら、演技や演出を変えることはできない。
その辺のジレンマが、1900に投影されているのか。
他の監督のように、第三者の編集者や制作の手が入ったもので、良しとせずに、ご自身が納得するものと、世俗受けするものを作っている監督だから、ついそんな妄想を抱いてしまった。
イタリア完全版未見。いろいろな評を拝読すると、音楽シーンが丁寧に描かれていて、ファイン・ライン版で不明な点が了解できるという。また、印象ががらりと変わるのだろうか?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
≪以下、ネタバレあり≫
レコード?
病院船にあったピアノに隠されていたという。
1900ほどの演奏者が、自身がひくピアノに、通常無い物が入っていたら気が付かないのか。
ピアノはちゃんと調律していないと、音が変わると聞いている。何か入っていたら、響きが違ってくるから、1900は気が付くのではないか。
気が付いたけれど、コーン吹きの思いを想って、自身の青春の思い出として、そのままにしていたのだろうか?
コーン吹きとの再会。
あれ?この状況で、タキシード?汚れていない…。1900もやつれていない?髪・髭ぼうぼうでもない…。
病院船で生き延びていたとはいえ、病院船が廃止されてから、どう過ごしていたのか。爆破のために、主なものはすでに運び出されているというのに。鼠のように、床に転がっていたものを食べて生き延びたのか?水道管が壊れ、流れ出た水で、洗顔し、洋服を洗っていたのか。ものすごい数のタキシードを持っていたのか???
一瞬、幽霊が現れたのかと思った。それならば、華やかな頃の格好は了解できる。
地縛霊だから船を降りられないのでは?
レコードとコーン吹きにつられて姿を現したのでは。
なんてことも考えてしまう。