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〇作品全体
物語の展開が、そのまま映画プロデューサーの役割を表現するような作品だった。
映画プロデューサーの役割が「シナリオライターの憎まれ役」という特殊なポジションであることが主人公・グリフィンを通して分かる。プロデューサー側からすれば毎月100件以上のライターの売り込みをさばかなければいけない事情があるが、ライター側からすれば自分の熱意を25語だけで語らなければならず、それが伝わらなければ切って捨てられてしまう。熱意をぶつける機会すらくれず、連絡もよこさないプロデューサーだと一方的に切り捨てられたような恰好だ。そんな力関係が、まずケヘインの殺害シーンで表現される。一方的にグリフィンに感情をぶつけ、そしてグリフィンの反撃によって息絶えるケヘインは、前述したプロデューサーとライターの関係性そのままだ。どれだけ熱量を伝えても返ってくる反応は少なく、ビジネスの上で推し量られてしまう。そしてその熱量が目障りであればドブ水に頭を叩きつけられるように切って捨てられる。物語のカギを握るショッキングなシーンだが、力関係から見れば当然の結末のように見えてしまう。「プロデューサーがライターを殺す」が比喩表現としても、実際の物語上での出来事としても存在しているわけだ。
ラストのハッピーエンドも、映画プロデューサーという役割が悪い意味で影響力のあることを表現する。グリフィンが作中でハッピーエンドを望むことを何度も口にするが、これは単なる好みではなくて「ハッピーエンドに捻じ曲げる力を持っている」ということの誇示だ。本作ラストのハッピーエンドはグリフィンにとって物凄く都合が良い。気に食わないライターを殺し、警察からは金の力でかいくぐって運良く逮捕されずに済み、ライターの女と幸せに暮らす。さらに自分の地位は守られ、もはや不審な手紙を送ってくるライターには余裕をもった返しをする。その「できすぎた気持ち悪いハッピーエンド」は、作中で制作が進む「強引にハッピーエンドに捻じ曲げられた作品」と重なって映る。どちらもプロデューサーの力を駆使して出来上がったハッピーエンドであり、そこには殺されたライターの真実も、物語を書いたライターの真意も存在しない。あるのは自己の利益を追求する欲望だけで、そのずるがしこさが鼻につく。
しかし、本作を見た後味はすごくすっきりとしたものだった。それは多分、グリフィンという登場人物の「プロデューサーとしてのブレなさ」が作品の中心を貫いているからだと思う。映画業界の中心に立つプロデューサーの存在を堂々と醜く描いた本作には、醜さだけでなく映像作品としての面白さも詰まっていた。
〇カメラワークとか
・8分ほどあった冒頭の長回し。映画関係者が忙しそうにせわしなく動き回る姿が印象的だが、グリフィンは優雅に車から降りて、そのあとは部屋からほとんど動かない。この誰が世界の中心として存在しているのかを知らしめるようなオープンニングだった。
〇その他
・アルトマン作品の主人公は傲慢なんだけれど、その傲慢さを派手に見せないところが好きだ。『MASH』のホークアイも終始好き勝手やってるけど、感情を派手に表に出さないからクールに見える。『ロンググッドバイ』は傲慢とは少し違うけど、自分の進みたい方向性を一貫して持っていて、それでいて強く主張しないのがかっこいい。本作のグリフィンも相当好き勝手やってるけど、「映画プロデューサーで居続けること」という軸をブレない範囲で維持し続けているのがかっこいい。やっていることは最低なんだけど。