アンナ・ホルツというコピストがベートーヴェンの元に送られた。勉強不足のため、コピスト(写譜師)なんて職業はこれまで聞いたこともありませんでしたが、オーケストラのメンバーそれぞれに楽譜を配らなくてはならないことを考えると絶対必要なんですね・・・しかも音楽家としての素養も備えなければならないという、難しい仕事だ。「これは転調ではなく、一時的な転調だから」とアンナ(ダイアン・クルーガー)が答えるエピソードだけで脚本の濃さに歓喜しそうになりました。どちらでも良さそうな気もするのですが、#という記号が三つも減る箇所が数小節続くことの解釈がとても重要だと思うのです。第4楽章の合唱が始まる直前ですから、とても印象に残りました。
普通なら第九交響曲の初演がクライマックスとして使われることを予想できるのですが、この映画ではベートーヴェン(エド・ハリス)と女性コピストの音楽を通した師弟愛が描かれるので、中盤でしかありません。それに冒頭では死期が迫るベートーヴェンのシーンでしたから、最後にまた登場するかと観客は期待するのに、登場しない・・・ダルセーニョしないでトゥ・コーダするかのようななエンディングです。映画全体の構成も、ソナタ形式というよりは我々には馴染みの薄い大フーガをそのままイメージしてあるような気もしました(冒頭も「弦楽四重奏のための《大フーガ》変ロ長調 作品133」からはじまる)。「調なんかない!」と言っていましたけど、その継ぎ目のない転調の繰り返しと、楽章の継ぎ目もはっきりしないこの曲がベートーヴェンの魂をそのまま受け継いでいくかのように・・・
彼のアパート住いもなかなか面白かった。ネズミは徘徊してるし、とにかく乱雑そのもの。下の住人からは水をこぼすなとどやされるし、隣人の婆さんは発表前の曲が聴けるからと楽しそうだったり。それにベートーヴェン自身も難聴のため変な形の集音器を耳にあててピアノを弾いている。天才ぶりと変態ぶりが同居してるような音楽家の姿がとても良かったです。そして、音響効果も面白いものがありました。第九の練習中に集音器に音がたまり、実際の音とモヤモヤした残響音とがミックスされ、二日酔いの朝に大音響で音楽を聞いている雰囲気にさせてくれるし・・・
『アマデウス』などもそうでしたが、終盤に感動させるところは本人が喋り、それを譜面に書き写すシーン。この映画では、途中から音符を伝えていたものが「神の声」を中心とした詩になってしまい、彼の心がそのまま映像化されるのです。第九の指揮を影で支えたダイアン・クルーガーの陶酔する演技や拍手喝采を感じることができなくなったエド・ハリスにも感動しましたけど、このラストシーンもフェルマータのように余韻を残してくれました。