コラム:ニューヨークEXPRESS - 第55回
2025年12月18日更新

ニューヨークで注目されている映画とは? 現地在住のライター・細木信宏が、スタッフやキャストのインタビュー、イベント取材を通じて、日本未公開作品や良質な独立系映画を紹介していきます。
ジブリ映画と任天堂を愛した監督が“パキスタン初”の長編・手書きアニメーション映画を作るまで

(C)The Glassworker LLC
今年、私が出合ったアニメ映画の中でも、特に衝撃を受けたのが、パキスタン初の長編・手書きアニメーション映画「The Glassworker」(日本公開未定)だ。
主人公は、若きガラス職人ヴィンセント。師匠である父トマスとガラス工房で働いていたある日、バイオリンを弾く女の子アリーズと運命的な出会いを果たす。しかし、従軍する父を持つアリーズとの関係は、戦争によって徐々に引き裂かれていく。
今回は、自らアニメスタジオ「Mano Animation Studios」を立ち上げウスマン・リアス監督に単独インタビューを実施。宮﨑駿監督、高畑勲監督などのジブリ作品に影響を受けたリアス監督が“アニメへの想い”を語ってくれた。
――このプロジェクトは、ほぼ10年近くもの歳月をかけられたものだと伺いました。あなたは本作以前に実写映画を数本手がけられていますが、日本のアニメや宮﨑駿監督の影響を強く受けているそうですね。なぜ今回はアニメーション制作を決意され、それが手描きアニメーションになったのでしょうか?
私にとって、アニメの影響は幼少期から始まりました。鉛筆を持てるようになってから、ずっと絵を描き続けてきました。イラストや美術、絵画、特にスタジオジブリの映画が大好きでした。それらは、私が映画に求める全てを含んでいたからです。
私はクラシック音楽家でもあり、今作の共同作曲を担当しています。手描きの美しい背景や、ホセ・カルロス・カンポス(ミュージック・スーパーバイザー)による素晴らしい音楽が特徴です。
ジブリへの愛は、私が情熱を注ぐあらゆる要素を包括していることから生まれました。それはスタジオジブリだけでなく、ウォルト・ディズニーの初期作品、彼が製作総指揮や全面的な監修をした映画にも当てはまります。例えば、「白雪姫(1937)」での素晴らしい歌、美しい音楽、美しい手描きの背景、そして美しいキャラクターアニメーションです。さらに「ピノキオ(1940)」も、私のお気に入りの一つです。今作にも「ピノキオ(1940)」の影響が随所に見られます。工房で働くゼペットとピノキオの姿は、まさに今作のガラス工房で働くヴィンセント(息子)とトマス(父親)の関係そのものです。
私が成長期にスタジオジブリ作品を発見したのは、実はパキスタンで売られていたVHSのテープでした。そのレンタルの多くは海賊版で、正規品は売られていなかったんです。ある時、バックス・バニーのアニメ「メリー・メロディーズ」のビデオを借りたのですが、そのテレビ放送分が終わると、アニメ映画「魔女の宅急便(1989)」が途中から始まったんです。だから幼い頃は、その映画のタイトルが何か知りませんでした。スタジオジブリや監督のことも何も知らなかった。ただ映画の途中から見ていたんです。それでも思ったことは、「これは何だ?すごい!映像の美しさ、音楽の素晴らしさ」ということ。それが最終的に、私がジブリに興味を持つきっかけとなりました。
その後、欧米ではアニメ映画「もののけ姫」が公開され、ジブリの人気がますます高まっていきました。そしてもちろん「千と千尋の神隠し」が公開され、アカデミー賞も受賞しました。私は宮﨑駿と高畑勲の映画に完全に魅了されました。スタジオジブリとは何か、そのほとんどの作品を手がけた天才プロデューサーの鈴木敏夫について調べ始めたからです。そして映画に込められた誠実さこそが、いつも私の心に響くものだったのです。
どの作品にも特別な何かがありました。「おもひでぽろぽろ」は高畑勲監督の最も美しい作品の一つですし、「平成狸合戦ぽんぽこ」は驚くほど荒唐無稽で心に響く映画でした。そしてもちろん、宮﨑駿監督の全作品が素晴らしいです。私はただ、あの世界の一部になりたかったんだと思います。パキスタンには手描きアニメーション産業が存在しません。今、私は活動していますが、あくまでインディペンデントな形なんです。政府公認の支援もなければ、大手スタジオの投資もありません。特に2013年に「The Glassworker」を始めた頃は、ほぼゼロに等しい状態でした。私や数人の仲間のように、ただこの仕事をしたいと情熱を燃やす者たちだけがいたんです。
私はジブリの絵コンテ集を全て持っています。だから映画がどのように作られているのか理解できました。そして私にとって、この世界の一部になりたい、アニメーションで作品を作りたいと思ったのです。実際に私が制作した2本の短編映画でも、アニメーションのように絵コンテを描きました。でもパキスタンでアニメーションを作るのはとても難しいだろうと思っていました。しかし、『The Glassworker』の構想を練り始めた時、これはアニメーション以外の媒体ではありえないと確信しました。だからこそ、すぐにでも袖をまくり上げて、子どもの頃から観て育ち、心から愛してきた全ての映画を彷彿とさせるようなアニメ作品を作ろうと決心しました。

(C)The Glassworker LLC
――スタジオジブリの影響を受けて、ご自身でアニメ制作会社「Mano Animation Studios」を立ち上げた経緯を教えてください。
アニメーションの制作過程について深い理解を持っているからです。子どもの頃から関連書籍を読み漁ってきました。関連書籍も数多く所有していますし、メイキングドキュメンタリーも全て揃えています。2015年7月にジブリを訪れた際、カフェテリアで描いた絵のポートフォリオを、宮﨑駿監督のアシスタントも務め、「三鷹の森ジブリ美術館」元館長の橋田真さんに見せたんです。彼は私の絵を全て見てこう言いました。
「君は自分のやっていることを理解している。アニメーションを理解している。君が映画のために描いたイラストやイメージボード、ストーリーボードはどれも素晴らしい。でもこの作品を日本で制作するのは勧めない。日本のアニメーション業界で働くなら、ゼロから始めることになる。レパートリーを積み上げ、経験を積まねばならない。そうして6年、7年、10年経ってようやく映画を監督できる立場になれるかもしれない。ただスタジオジブリに入ってきて、すぐに映画を監督できるわけじゃないからね」
その言葉は理解できましたし、尊敬もしました。彼は「本当にこの映画を作りたいなら、自分のスタジオを立ち上げろ」と言ったんです。それから彼はとても素敵なメッセージとメールを送ってくれて、私はそれを額に入れて飾りました。本当に素晴らしかったです。心から感謝しています。そして実際にその助言を聞いて「よし、この映画を作るには自分のスタジオを立ち上げなきゃ」と思ったんです。
それでも映画を完成させるのに10年かかりましたが、その助言には心から感謝しています。それ以外の具体的な指導はなかったので、全てを自分で模索しなければなりませんでした。パキスタンや国際的に素晴らしい人々と共にこの映画を形にできたことに心から感謝しています。膨大な労力を要し、アニメーションの技術を深く学び、人材育成の重要性を理解しました。パキスタンで共に働いた数人のアニメーション愛好家たちも、人材育成やシステム構築に貢献し、どうにかしてこの映画を完成させる方法を見出したのです。私はこの映画全体の絵コンテを全部自分で描きました。座り込んで「僕のヒーローたちがやったことをそのままやるんだ」と決めて、実際にもっと細かく描きました。チームが経験不足だったので、背景の細部まで全部、すべてのフレームに描き込んだんです。
多くのフレームを手描きしました。そうすれば照明や連続性、衣装の色合いなど全てが明確になるからです。運任せは一切しない、全てを計画して実行するだけだと思いました。キーフレームもストーリーボードも大量に描きました。確かに大変でしたが、やり遂げられて良かったです。全てを計画した理由は、それがこの映画を完成させるために自分が分かっていたことだからです。
――プロデューサーのキザー・リアズ氏とのタッグについて。あなたは彼と、どのようにして映画の構造を一から構築されたのでしょうか?
プロデューサーを務めたキザーと、アソシエイトプロデューサー兼アートディレクターを務めたマリアムの2人こそが、実際に映画を完成させるという難関を乗り越えるうえで、不可欠だと確信していました。なぜなら、宮﨑駿監督が一人で全てを描いているわけではないからです。スタジオジブリの映画が生まれる背景には、鈴木敏夫プロデューサーの天才的な手腕も大きく寄与しています。
だから私は、強力なプロデューサーとしての思考を持つ人物が必要だと考えました。
私自身はこれまでプロデューサー経験がなかったのですが、彼が制作に必要な要素を理解していると確信していたんです。そこで彼と、アソシエイトプロデューサーとして制作面を支え、全ての制作体制を整え、インフラを構築してくれたマリアムが加わりました。もちろん私も制作体制構築に深く関わりましたが、強力なプロデューサーとアソシエイトプロデューサーが揃えば、他の人々が前進を阻まれる多くの課題を解決できると確信していました。
それが決まると、次は才能ある人材を集めることでした。私はこの映画のために大量に絵を描きましたが、もちろん全てを描けるわけではなく、このような映画を作るには多くの才能ある人材が必要です。そこで私たちは、スタイルの理解だけでなく、このような映画制作に必要な技術的理解も兼ね備えた、適切な人材を探し始めました。繰り返しになりますが、本当に感謝しています。
私は素晴らしいアニメーション監督、素晴らしいキャラクターデザイナー、そしてスーパーバイジングアニメーターやチームリーダーたちという、驚くべきメンバーと仕事をする機会を得ました。全員がこの仕事に深い愛情を持っていました。それが雪だるま式に広がっていったのです。適切な人材を見つけ始めると、次々と新たな人材が集まってきました。チームはまだ非常に小規模でしたが、この映画制作をやり遂げられたのは、スタジオジブリが手描きアニメーションスタジオの頂点にある存在だと確信していたからです。「Mano Animation Studios」は、寄せ集めで何とかしているような状況ではありませんでした。
実は任天堂にはかなり憧れていました。というのも、私も大のゲームファンだからです。任天堂が「スーパーマリオ64」をNINTENDO 64向けに開発した手法には特に感銘を受けました。彼らは3Dゲームに飛び込んだのです。それまでの作品は全てスプライトベース(スプライトは、主にビデオゲームで用いる、画面上の小さなキャラクターを高速に合成表示するための技術的な仕組み)の2Dでした。しかし3Dに挑んだ時、チームはわずか15人。それでも宮本茂氏の指揮のもと、このゲームを作り上げる情熱に溢れていました。スタジオジブリももちろん素晴らしいですが、むしろ任天堂の方が(私たちの状況と)大きな共通点でした。
いつか私も、あのチームのような素晴らしい仲間を得られることを願っています。でもチームへのインスピレーションとして、任天堂が「スーパーマリオ64」をどう作り上げたかを見習おうと思いました。私は彼らがはるかに小さなチームだったと言いました。彼らはこれまで誰も成し遂げたことのない数多くの課題に取り組み、驚くほど素晴らしいゲームを作り上げました。私たちも彼らのようでありましょう。それが私たちのインスピレーションの源でした。

(C)The Glassworker LLC
――その後、モヤ・オシェア氏と共同脚本で、パキスタンの政治事情も反映しているストーリーを、いかに構築していったのでしょうか?
2013年~2014年頃に物語の初稿を書き上げ、それが最終稿となる道筋となりました。スタジオポノックのジェフリー・ウェクスラーとの関わりの経緯は、2015年と2016年にスタジオジブリで会い、2017年にはスタジオポノックで再会したときでした。彼はスタジオポノックの国際部門責任者で、彼は「君のストーリーは良いが、もう少し調整が必要だ」と言い、共同脚本家のモヤ・オシェアを推薦してくれたんです。モヤはデイビッド・フリードマンを通じて彼らが協力してきた人物です。デイビッド・フリードマンはスタジオジブリ作品の英語吹き替え版を数多く手掛けており、当時彼が担当した最新作は「風立ちぬ」でした。そこでデイビッドは「俺は忙しい。モヤと組んでくれ」と言ってくれたんです。
その後、モヤが参加し、実際にジェフとモヤはパキスタンを訪れ、現地の環境を体感し、私の育った環境を見学し、映画に盛り込むべき要素を理解しようとしてくれました。そしてモヤと私は約5カ月間、脚本に向き合い、磨きをかけ続けました。モヤは素晴らしいアイデアを数多く提案し、それらを物語に組み込みましたが、これは非常に共同的なプロセスでした。私たちはただ、可能な限り最高の物語を作りたかったんです。

(C)The Glassworker LLC
――9.11同時多発テロ以降、あなたは自国(パキスタン)で増大する戦争の脅威に直面してきましたが、その経験は映画製作においてどのような形で反映されたのでしょうか?
この経験は非常に興味深いものでした。特に9.11同時多発テロ以降、世界は変わり、とりわけ中東地域、そしてもちろん南アジアの私たちの地域も変わりました。日常生活には、恐怖や監視、不安がはるかに増しました。当時の私は9歳で、何が起きているのかよく理解できませんでしたが、潜在意識レベルで「何かが違う、何かがおかしい」とただ感じ取ってはいました。実際に紛争を目撃せずに済んだことを神に感謝しています。ただ、紛争は近隣地域では起きていて、それでも耳には入ってきていました。
それでも心配は消えず、学校に通う中で次第に蔓延り始めた宗教的過激主義や爆弾脅迫事件など、あらゆる出来事が重なっていきました。そんな環境で育つのは実に奇妙な体験でした。クラシック音楽を演奏し、絵を描き、アニメーションを作っていた創造的な私にはこう感じました。
「こんなにも葛藤と不安に満ちた世界で、自分の居場所はどこなんだろう?」と。
それは私が20代前半を過ぎてからようやく理解し始めた経験で、それが「The Glassworker」の物語の起源になりました。今作のキャラクターは私の性格の異なる側面だと思っています。私はクラシック音楽家ですが、同時に職人であり芸術家でもあります。ガラス職人ではありませんが、アーティストでありアニメーターであり画家です。そうした経験と創造性、芸術的表現を2人のキャラクターに注ぎ込むこと。「それが必要とされていないように感じられる世界で、あなたのために芸術を追求すること」。それは私の人生においても、非常に大きな部分を占めています。

(C)The Glassworker LLC
――最後に、本作を観客にどのように鑑賞して欲しいですか?
実は、映画愛好家の皆さんや特に職人技の側面を楽しんでくださる方々のために、今作の制作過程を捉えたドキュメンタリーを制作しました。98分という、本編と同じ長さの作品です。「The Making of the Glassworker」(https://www.youtube.com/watch?v=rxAOUJt1PaU)と題し、YouTubeに公開しました。
エピソードごとに分割したので、この10年間にわたり映画制作に注ぎ込まれた膨大な調査や作業の深みを皆さんに理解していただけるはずです。これが一つの側面です。しかし最も重要な側面、そして私が最も強く願っているのは、ただこの映画を観て楽しんでほしいということ。
映画とはそういうものだからです。映画は観客を他人の立場に立たせ、日常とは異なる世界へ連れ去るものです。美しいアニメーションであれ、より思索を促す内容であれ、いずれにせよ、映画は楽しむべきものです。観客がこの作品に足を運び、楽しんでくれれば、そしてできれば満足してくれれば、私はこれからも長くこの仕事を続けられるでしょう。
アニメーションという芸術を愛しているからこそ、ウォルト・ディズニーの素晴らしい言葉をチームや投資家に伝えてきました。少し言い換えますが、彼はこう言いました。
「我々は金儲けのために映画を作るのではない。より多くの映画を作るための資金を得るために映画を作るのだ」と。
この言葉が大好きで、これからも続けていきたいのです。私はできる限り長く映画を作り、物語を語り続けたい。パキスタンには非常に多くの才能がありますが、この種の映画を支えるインフラが不足しています。
本格的なスタジオ資金も政府資金もありません。才能は確かに存在しますが、産業を支える基盤は他国ほど整っていません。だから最も重要なのは、才能以上にパキスタンにはこうした機会を渇望する才能ある男女が数多く存在していること。結局のところ、産業が成立するためには資金が必要だということです。パキスタンの映画産業の未来がどうなるかは、私にはまだわからないからです。
筆者紹介
細木信宏(ほそき・のぶひろ)。アメリカで映画を学ぶことを決意し渡米。フィルムスクールを卒業した後、テレビ東京ニューヨーク支社の番組「モーニングサテライト」のアシスタントとして働く。だが映画への想いが諦めきれず、アメリカ国内のプレス枠で現地の人々と共に15年間取材をしながら、日本の映画サイトに記事を寄稿している。またアメリカの友人とともに、英語の映画サイト「Cinema Daily US」を立ち上げた。
Website:https://ameblo.jp/nobuhosoki/









