木下惠介
浜松市出身。本名は正吉。惠介は通名だったが還暦時に改名。食料品店を経営する裕福な家庭の八人兄弟の四男。ほぼ全ての木下作品の音楽に携わる忠司は弟。脚本家の楠田芳子は妹。
高校卒業後に写真館勤務、写真専門学校を経て、松竹蒲田撮影所の現像助手となった後、程なく撮影部に入り島津保次郎の助手となる。1940年、軍隊に招集され中国で左眼と左脚を負傷、治療のため除隊し帰国。
43年「花咲く港」で監督デビュー。年間の最優秀新人監督に贈られる山中貞雄賞を黒澤明と分け合う。翌44年「陸軍」への批判をきっかけに松竹に辞表を提出し帰郷。その後松竹に呼び戻され日本初のカラー作品「カルメン故郷に帰る」(51)や、「二十四の瞳」(54)、「喜びも悲しみも幾歳月」(57)、「笛吹川」(60)、「永遠の人」(61)、「香華」(64)などの話題作を手がけた。
64年に意見の対立から松竹を退社し木下惠介プロダクションを設立。67年からTBSにて「木下恵介アワー」が開始され「おやじ太鼓」「3人家族」「二人の世界」といったドラマを制作、TV界でも成功を収めた。76年「スリランカの愛と別れ」で監督に本格復帰し、後年は社会問題を扱った作品を発表した。
即興演出を好んだため優秀なスタッフも多く「木下学校」は、小林正樹、川頭義郎、松山善三、勅使河原宏、吉田喜重、山田太一らを輩出。また「スター作りの名手」と呼ばれ佐田啓二、三国連太郎、田村高廣、田村正和、近藤正臣らのデビューを支えた。喜劇、怪談、犯罪もの、女性映画と多彩で、時制の組み替え、オールロケ、長回し、自然光撮影、歌舞伎風のセット、移動撮影、ジャンプカット、モブシーンなど、常に新しい試みや技術に挑んだ。
生涯独身を通したが、逝去した兄の子など少なくとも男女3人の養子がある。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、文化功労者などを授与。享年86歳。13年には生誕100周年を記念して、原恵一監督による伝記映画「はじまりのみち」が公開された。