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小山明子が語る、心豊かに生きるヒント 夫・大島渚の素顔、家族についても明かす

2025年11月8日 12:00

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取材に応じた小山明子
取材に応じた小山明子

女優・小山明子の新著「90歳、凛として生きる」(毎日新聞出版刊)が、発売中だ。17年間にわたる夫・大島渚監督の介護と看取りのほか、数々の困難を乗り越えてきた90歳の小山が語る、心豊かに生きるヒントとは――。柔和な面持ちで佇む小山がこのほど、映画.comの取材に応じた。(取材・文/大塚史貴)

小山は1955年、「ママ横をむいてて」で銀幕デビュー後、松竹の看板女優として活躍し、80本以上の映画に出演してきた。夫である大島渚監督が96年に脳出血で倒れてからは介護に専念し、2013年1月15日に大島監督が旅立つのを看取ってからは、乳がん、大動脈弁狭窄症、脊椎管狭窄症、肺がん、コロナうつを発症。本書では、80代で見舞われた数々の病とどう向き合ったのかも綴られている。

大島監督の介護生活の中で、小山に強く生きるための大きなきっかけを与えたのが、カトリック司祭で死生学の第一人者、アルフォンス・デーケン氏の著書「よく生き よく笑い よき死と出会う」(新潮社刊)だったという。デーケン氏は、同著でユーモアの大切さを説き「ユーモアとは『にもかかわらず』笑うことである」と記述。つまり、“辛いときにこそ”笑うことを提唱している。予期せぬことが起きたとき、笑うことで局面を打開した……というケースは、多かれ少なかれ誰にでもありそうなものだ。

「大島がなんとか無事に『御法度』を撮り終えた後、2度目に倒れたときは十二指腸潰瘍穿孔でしたから死を覚悟しました。藤沢市民病院に4~5カ月入院したのですが、1カ月くらいは元に戻らなかった。もうダメかもしれない……と絶望していた時のことです。私は毎朝、『パパおはよう』と声をかけるのですが、ある日『おはよう』と返ってきた。そこからまた、生きるという希望が出てきました。

毎日病院にいてもすることもなかったんですが、移動図書館が毎週フロアに来てくれたんです。もう片っ端から読み漁って、その中にあったアルフォンソさんの著書が決定的に心に響きました。なかでも、『手放す心』と『にもかかわらず笑う』のふたつ。

それまで『大島は世界的な映画監督なのよ』『わたしは女優なのよ』という驕りがあった。それを手放せなかった。でも、『そんな事を言っている場合じゃないのよ! わたしは女優でもなんでもなくて、大島が生きていくためにサポートする人間なんだ』と気づいて、初めて目が覚めました。『手放す心』とは、いかなる地位や名誉、財産があろうとも、手放していちから出直す心のことなんですね。それから、生きやすくなりましたよ。町内会の行事にも参加できるようになりましたから。自分が変わらなければ、人との関係も良くならないですよね。大島が帰ってきて自宅介護が始まったわけですが、色々な本を読んだことがプラスになりました。苦しいこともいっぱいありましたが、とにかく笑顔でいようって心がけました」

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また大島監督は、小山はもちろん病院スタッフやサポートスタッフ、誰にでも丁寧に「ありがとう」と感謝を口にしていたそうだ。「ありがとう」という、たった5文字が持つパワーを思い知ったという。

「ありがとう。すごく大事な言葉ですよね。彼は、自分の障害を受け入れたんです。わたしや住み込みのお手伝いさんにも、『言わなくてもいいわよ』っていうくらい言ってくれた。周囲の人が『この人のためになんとかしよう!』と思ってしまう、魔法の言葉ですね。大島が皆さんに『ありがとう』と言ってくれたので、関係性がものすごく良くなりましたよ。なんでもないことなんだけど、ちょっとした言葉でうまくいくのよね」

小山を取材するに際し、過去の取材ノートを引っ張り出して発言を確認してみると、2019年に「島ぜんぶでおーきな祭 第11回沖縄国際映画祭」で大島監督作「夏の妹」が上映されるのに合わせて、現地入りしている。同作のロケで初めて沖縄へ行ったそうで、「当時はパスポートが必要で、(通貨は)ドルの時代でした」と懐かしんでいる。そして、「大島と一緒に旅行をしたことなんて、ほとんどなかったんですが、亡くなる前に『沖縄の海で魚を釣りたい、泳ぎたい』という彼の希望で、沖縄を旅行したんです」と語っていた。

大島組について話題を振ってみると、「『儀式』(71)、『少年』(69)、『絞死刑』(68)とか、意味がよく分からないまま演じていることもありましたよ。『絞死刑』なんて、どうしてあのお姉さんが出て来るのかさっぱり分からなかったし(笑)。でも、大島がこうやれって言っているから仕方ないかなと。私も彼の全てを理解していたわけではありません」とほほ笑む。

「でもね、映画を作る楽しさを教えてもらったのは大島作品でした。経済的にも厳しかったですよ。俳優部もスタッフも、みんな一律同額で仕事をしていましたから。それでも、ひとつ同じ釜の飯を皆で食べて、スタッフと一緒に映画を作るのは楽しかった。松竹時代は大事にされて、チヤホヤされていましたから。大島組では、いちスタッフとしても仕事をしなければ映画が撮れないんです。映画作りの本当の楽しさは、独立プロとしてやってみて初めて理解できたことでしたね」

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世間一般の持つ大島監督のイメージは、テレビなどで見る過激な発言を想起させるが、普段はどのような素顔を家族に見せていたのだろうか。

「家ではとても優しい人で、子どもたちに大きな声で怒鳴ったことなんて一度もなかったですから。大島は世間ではきついことを言ったりする人でしたが、家では本当に穏やかでしたよ。しかし、どうして激論になっちゃうんでしょうね(笑)」

同著には、長男・大島武氏、次男・大島新氏とその家族についての話題もふんだんに盛り込まれている。大島新氏といえば、監督をしたドキュメンタリー映画「香川1区」(21)が名誉棄損、業務妨害であるとし、自民党の平井卓也衆議院議員から訴えられ、8月5日から口頭弁論が始まっている。本件は家族間でどのような対話がなされているのか、聞いてみた。

「新には『裁判になって大変だわね』って言ったのよ。わたしも訴えるのであれば、あの映画が出来上がった段階で言うべきよ、今ごろ名誉棄損って言われてもって感じています。だから、彼は『被告 大島新』という映画を撮るそうです。転んでもたたでは起きないっていう、その心意気がいいわよね。それにしても、なんであれば裁判になるのか未だに分からないわ」

ウィットに富んだ語り口から繰り出される小気味の良い言葉からは、とても90歳とは思えない躍動感さえ感じさせる。無粋ながら、大島監督が存命であれば、何と言っただろうか……。

「自分も『愛のコリーダ』で裁判になっていますから、何も言えないんじゃないですか(笑)。親子二代にわたって、ですね。『愛のコリーダ』の時は、“罰金50万円”って新聞に出ていたので、『パパ、もう50万払って終わりにしましょうよ』と言ったんですが、『断固戦う』と。おかげで50万どころか裁判で何百万円もかかりましたよ。

子どもたちは多感な時期でしたから、学校で『おまえの親父はエロ監督だ』とか言われて辛い思いをさせてしまいましたけどね。我が家は仕事の都合で夜に顔を合わさないこともありましたから、子どもたちからメッセージが書斎に置いてあったりするんですね。無罪になったときは、『パパ、当然のことながら無罪おめでとうございます』ってメモがありましたから、子どもながらに心配していたんでしょうね」

執筆者紹介

大塚史貴 (おおつか・ふみたか)

X(Twitter)

映画.com副編集長。1976年生まれ、神奈川県出身。出版社やハリウッドのエンタメ業界紙の日本版「Variety Japan」を経て、2009年から映画.com編集部に所属。規模の大小を問わず、数多くの邦画作品の撮影現場を取材し、日本映画プロフェッショナル大賞選考委員を務める。

Twitter:@com56362672


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