【「オッペンハイマー」評論】<赤狩り>のような時代を繰り返してはならないという意思表示
2024年3月31日 14:00
<原爆の父>と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描いた伝記映画でありながらも、「オッペンハイマー」(2023)という作品が“クリストファー・ノーランの映画”たらしめているのは、時系列を複雑にシャッフルさせることで<時間>を操作した映画でもあるからだ。加えて、登場人物の多さや会話劇を中心とした構成も、今作を「やや難解」だと評させる理由のひとつ。劇場公開前から歴史的背景に対する予習の必要性や、複数回鑑賞することの必要性が日本国内で呪文のごとく囁かれている感もあるが、重要なのは、劇中で描かれる物理学的な側面が「難解」なのではなく、複雑な時系列が入り乱れる物語そのものを「難解」と感じさせている点にある。それは、「オッペンハイマー」と同じ題材を扱ったローランド・ジョフィ監督の「シャドー・メーカーズ」(1989)が、時系列に沿って物語が進行している点にも言及できる。
これまでもクリストファー・ノーラン監督の作品は、映画館での鑑賞を意図するような演出を特徴としながら、<体感>を重視してきたという経緯があった。例えば、IMAXによる撮影や上映は、観客に<体感>を訴求させる象徴のようなもの。ノーランは「ダークナイト」(2009)における一部のショットで初めてIMAXカメラを導入し、「ダークナイト ライジング」(2012)以降は全ての作品でIMAX撮影を取り入れてきた。「オッペンハイマー」では、IMAXによる史上初のモノクロ・アナログ撮影を実践。フィルムでの撮影にこだわりながら、最高解像度の映像を観客に<体感>させ、臨場感を生み出すことに注力している。デジタル撮影や3D技術によって観客に<体感>させようと試みているジェームズ・キャメロン監督とは、映画に対する近似した哲学を持ちながらも技術的には対極の位置にある。「ダークナイト」と「アバター」(2009)が同年に公開されていることは、その姿勢の違いを裏付ける。
「オッペンハイマー」を「難解」と思わせるもうひとつの理由は、カラー映像とモノクロ映像を劇中に混在させている点。しかも、カラーを現在、モノクロを過去、といったルールによって使い分けられているのではなく、オッペンハイマーの視点で描かれた場面はカラー、オッペンハイマーの視点ではない場面ではモノクロに使い分けることで、映像手法に対するわたしたちの固定観念を揺さぶるのである。また、モノクロとカラーとを使い分けることで、「視点が変わると見え方が変わる」という<羅生門スタイル>を変化球的に実践していることも窺える。この映画は「オッペンハイマーが実際に見ていないものは、オッペンハイマーの視点で描かない」というルールを基本にしながら作られているため、演出上のルールに従えば、彼が実際には見ていない広島や長崎の惨状は劇中に映し出されないのだと解釈できる。重要なのは、「原爆投下が第二次大戦を早期に終結させた」というアメリカ史観を、「オッペンハイマー」は決して是としていない点にある。その変化は、日本で劇場未公開に終わった「シャドー・メーカーズ」の終幕と比較することで理解できるだろう。
もうひとつ重要なのは、<赤狩り>を描いた映画である点。「オッペンハイマー」の根底には、ある特定の人物が持つ背景を理由に排斥しようとする不寛容な社会傾向に対して、<赤狩り>のような愚かな時代を繰り返してはならないという強い意思表示を感じさせるのだ。水爆開発に異議を唱えたロバート・オッペンハイマーは、政治権力によって「アメリカを裏切った人物」に仕立て上げられるが、同時代のハリウッドの映画界もまた密告に怯える恐怖政治のような状況に陥っていた。<赤狩り>の時代に政治権力へ屈してしまったことで、自ら<表現の自由>を手放してしまったという反省から、ハリウッドの映画人たちは今も社会を後退させないために声を上げ続けている。己の権利だけでなく、未来の人材に対する権利も守る。そういった姿勢は、俳優や脚本家たちが行った昨年のストライキとも決して無縁ではなく、「オッペンハイマー」が映画芸術アカデミーの会員たちに支持された由縁だとも思わせるのである。
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