美しいことも、恐ろしいことも。――「ジョジョ・ラビット」【コラム/スクリーンに詩を見つけたら】
2022年9月7日 18:00
古今東西の映画のあちこちに、さまざまに登場する詩のことば。登場人物によってふと暗唱されたり、ラストシーンで印象的に引用されたり……。古典から現代詩まで、映画の場面に密やかに(あるいは大胆に!)息づく詩を見つけると嬉しくなってしまう詩人・大崎清夏が、詩の解説とともに、詩と映画との濃密な関係を紐解いてゆく連載です。
今回のテーマは、第92回アカデミー賞の作品賞ほか6部門にノミネートされ、脚色賞を受賞した「ジョジョ・ラビット」(タイカ・ワイティティ監督)です。
リルケについて書くのはこわい。古今東西の詩人の中でも、ライナー・マリア・リルケほどさまざまな表現者に愛されているドイツ語の詩人はいないと思うからだ。愛され、そして信頼されている。
記憶に新しいのは、ジャン=リュック・ゴダール監督作「さらば、愛の言葉よ」(2014)への「ドゥイノの悲歌」の引用だ。リルケの晩年に書かれた「悲歌」には人間のはかなさや不完全さへの嘆きが綴られ、引用された第8歌は、哲学者ハイデガーが講義に取り上げたことでも知られている。そこでは、動物の眼には「深くたたえられた開かれた世界」があること、そして「死をみる」私たち人間には動物の眼で世界を見ることができないという悲しみが歌われ、ゴダールはそんな「動物の眼」を模索するようにカットを繋いでいく。(※1)
私が映画館で「ジョジョ・ラビット」を観たのは、リルケの詩句に惹かれつつもそれを取りまく言説空間の巨大さに圧倒され、なんとなく入り込みあぐねていた頃だった。そのラストシーンのあと――その静かな、確かな歓喜を見せられたあとに――思いもよらなかったリルケの言葉がスクリーンに映しだされ、ぐっさりと胸に入って、涙が出た。
ハリウッドで作られた、子どもたちを主人公に据えた、こんなに力強くてしかもユーモラスな人間ドラマの中で、リルケが生きている! そんな驚きと感動も、確かにあった。だから、哲学者も読むなるリルケの詩句といふものを、私も読んでみむとて読むなり。こわごわと、ただ、あのときの涙の熱さを頼りに、いま私はこの文章を書いている。
タイカ・ワイティティ監督が「ジョジョ・ラビット」の映画化を決めたのは、作家クリスティン・ルーネンズによる原作「Caging Skies」を読んだユダヤ人の母親に薦められたのがきっかけだったという。この物語の主人公は、大戦末期にヒトラーユーゲントに所属し、ナチ思想に盲目的に染まった男の子(原作ではジョジョではなく、ヨハネスと呼ばれる)だ。ちなみに原作は「もし嘘から出た芽が、風に吹かれて辿り着いた場所で育ち、それが荒れはてた崖の上に根づいてしまったらどうなるだろう?」という印象的な寓話から始まる。
映画では音楽が雄弁に語る。少年合唱団らしい声が歌うドイツ語のマーチ(軍歌?)で始まり、デビッド・ボウイの「ヒーローズ」で締めくくられる、そのエンディングの「ヒーローズ」が流れるなか、詩「切望の果てまで行きなさい(Go to the Limits of of Your Longing)」は声には乗せられず、文字のみが映るかたちで、厳かに引用される。その引用は原作にはない、映画だけの演出だ。
ライナー・マリア・リルケ
そして私たちとともに静かに夜を歩く。
切望の果てまで行きなさい。
私を体現しなさい。
私が入るための大きな陰をつくりなさい。
ただ進みつづけなさい。どんな感情も最終地点ではない。
君自身に、私を見失わせないようにしなさい。
君はそれをその真剣さによって知るだろう。
この詩が収められているのは20歳のリルケが著した「時祷詩集」。タイトルも含めて、一見かなり敬虔なキリスト教信者の書いた詩のようにも読めるけれど、実際にはリルケは「神」という概念を芸術的な視点から捉え、ある特定の宗教が指し示す「神」とは別の、自分自身を根拠づける新しい「神」を詩のなかに創造しようとしていたと言われている。(※2)
映画には、ジョジョ(ローマン・グリフィン・デイビス)の母親が匿うユダヤ人の女の子エルサ(トーマシン・マッケンジー)が、恋人のネイサンについて語るシーンがある。リルケの詩を引用してエルサに愛を告白し、反ナチ運動に身を投じたネイサンは不在(のちに、それはエルサの嘘で、彼は結核で亡くなっていたことがわかる)。ジョジョは図書館でリルケの詩集を借り、エルサにネイサンからと偽った手紙を書く。それが、好きな人に自分のことを好きになってほしいという感情であることに、ジョジョはまだ気づかない。何しろ、世界で最も強いものは、愛よりもミサイルや筋肉だと思いこんでいるのだ。
ジョジョが、心の友達だったヒトラーに――その嘘で塗り固められた理想像に――別れを告げなければならなくなるとき、彼は「自分の眼でものごとを見て、自分の頭で考える」厳しさに直面する。それはまた同時に、子どもしか持ちえない「何も知らないがゆえに見ることのできる世界」を見る眼をうしなうときだ。ジョジョの、ユダヤ人の生活に関する、偏見と畏れと憧れの混ざった空想は、他愛のない微笑ましいものだったけれど、それでもやはり、棄てられなくてはならないものだった。ユダヤ人は、怪物でも人魚でもないのだから。
きっと、世界が何もかも変わり果ててしまうようにみえるときにも、リルケの声は、哲学者や芸術家だけでなく、育ち盛りの女の子や男の子をも励まして、新しい冒険へと促すだろう。「すべてが君に起こるようにしなさい、美しいことも恐ろしいことも。/ただ進みつづけなさい」と。きっと、だからこそ読み継がれ、愛され、信頼されているのだろう。
※1 手塚富雄訳「ドゥイノの悲歌」(岩波文庫)
富士川英郎訳「リルケ詩集」(新潮文庫)
串田純一「ハイデガーと生き物の問題」(法政大学出版局)
Caging Skies by Christine Leunens, John Murray
Go to the Limits of Your Longing by Rainer Maria Rilke, On Being
https://onbeing.org/poetry/go-to-the-limits-of-your-longing/
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