不屈のシンガー、ビリー・ホリデイを“生きた”アンドラ・デイ 役に没入した日々は「自分の糧となった」
2022年2月16日 19:00
「南部の木には奇妙な果実がなる。血が葉を濡らし根にしたたる。黒い体が揺れている、南部のそよ風に。ポプラの木々に下がる奇妙な果実」――そんな歌詞で始まるのは、1939年にリリースされ、100万枚以上のレコードを売り上げた大ヒット曲「奇妙な果実」。虐殺され木に吊り下げられた黒人の死体を果実に例え、黒人へのリンチに抗議する内容で、人種差別撤廃を求める人々が立ち上がった公民権運動初期の象徴的な存在となった楽曲だ。
「奇妙な果実」を歌ったのは、天才ジャズシンガーとして歴史に名を刻むビリー・ホリデイ。彼女は、公民権運動を扇動すると同曲を危険視したFBIから執拗に追われながらも、歌うことをやめなかった。彼女の壮絶な人生とFBIとの知られざる対決を、「大統領の執事の涙」「プレシャス」のリー・ダニエルズ監督が映画化した「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」が、現在公開中だ。初演技でホリデイ役に挑んだアンドラ・デイは、役に没入した日々を「自分の糧となった」と振り返った。(取材・文/編集部)
物語の舞台は40年代のアメリカ、公民権運動の黎明期。合衆国政府から反乱の芽を潰すよう命じられていた連邦麻薬取締局のアンスリンガー長官(ギャレット・ヘドランド)は、絶大な人気を誇るホリデイの「奇妙な果実」を危険視し、彼女にターゲットを絞る。おとり捜査官としてホリデイのもとに送り込まれた黒人の捜査官ジミー・フレッチャー(トレバンテ・ローズ)は、肌の色や身分の違いも越えて人々を魅了し、逆境に立つほど輝きを増すホリデイのステージパフォーマンスにひかれ、次第に彼女に心酔していく。しかしその行く手には、彼女を麻薬使用の罪で逮捕しようと画策する、FBIの陰謀が待ち受けていた。
ホリデイの愛称“レディ・デイ”から名前をもらい、BLM(ブラック・ライブズ・マタ―)運動のデモで歌われた「ライズ・アップ」で第58回グラミー賞にノミネートされたシンガー、アンドラ・デイが彼女を演じていることは、どこか運命的なものを感じさせる。「ビリーのおかげで自分自身の音を持つことができたのです」と語るほど、ホリデイを尊敬するデイ。身体的にも精神的にも自身を追い込み、歌声すらも変え、想像を絶する深度で役と向き合った。ストイックにホリデイを“生きた”デイの熱演は、彼女に第78回ゴールデングローブ賞の最優秀主演女優賞(ドラマ部門)受賞、第93回アカデミー賞の主演女優賞ノミネートという輝かしい功績をもたらした。
「地上にひとつしかない」と称えられた、唯一無二のパワフルな歌声。凄惨な過去を胸に秘め、愛を求め続けたどこか寂しそうな眼差し。FBIの執拗な捜査や、ドラッグやアルコールによって痛めつけられていく身体。デイはまさに全身で、ホリデイの美しい生き様、情熱的かつタフでありながらも、脆く傷つきやすくもあった複雑な内面を表現している。なかでもホリデイを憑依させているかのように、静かな怒りをにじませながら、真っ直ぐに前を見据え「奇妙な果実」を歌うステージシーンには、鳥肌が立つ。デイは、「これは美しい曲ではありません。きれいな歌でもない。痛々しくて醜い歌なんです。座って楽しむのではなく、聞いて吸収してほしい、この言葉を聞いて理解してほしいという願いが込められているんです」と語る。
ミュージシャンが音楽を通して意見を述べることはなかった当時、ホリデイは当局からの圧力にも負けず、恐れることなく歌い続けた。その不屈の精神が宿る歌声が、強い覚悟がにじむ眼差しが、本作で描かれる差別をいまだ過去のものと切り捨てることはできない、BLM運動に揺れる世界の現状を照らし出している。
最初はそのような理由で、オーディションを受けることに躊躇していたのは本当です。いざ役づくりを始めると、さまざまな困難がありました。20キロ痩せたり、普段はしないお酒やタバコを始めたり。また、私は彼女のように悪い言葉は使いませんし、周囲の人々との接し方も違うので、自分自身を作り変えなければならなかったんです。ですが、ビリー・ホリデイになるということは、本当に喜ばしいことでした。彼女には、私が愛する要素がたくさんあったのです。
私には信仰心があるので、神がこの役を通して、人生の新しい季節に、私を押し出してくれたのだと思っています。役を演じたことで残った、もともとの私自身にはなかった要素もあり、いまはそういう部分は現れないようにしていますが(笑)、全てが信じられないほど素晴らしい経験でした。彼女が私の人生に現れたことで、また私自身が別の人間になったことで、大いに成長できたと思います。
ビリーと私は全く違うんです。私は反動的なリアクションをとらないように心がけてきたので、彼女のようにすぐに怒り、自制心を失うことはないんです。彼女はとても賢く、周囲にも気を配る人でしたが、いざというときは、クラブでも警察署でも構わず、激怒していました。不正を目撃したり、間違いを正そうとしたりした場合ですね。映画を撮る前は、私はそうした状況になっても忍耐強く対応していたのですが、 ビリーを演じたことで、撮影後は少し忍耐力が弱まってしまいました(笑)。
リーと私は、「ビリー・ホリデイとは何者なのか」「いまの世代にとって、彼女はどうあるべきなのか」と、常に話し合っていました。しかし最終的には、彼女自身の物語を語るしかない。彼女はとても素晴らしい人だから、誰であろうとその物語を知れば、彼女を好きになるという結論に達したんです。ですから私たちはコミュニケーションを重ね、膨大なリサーチを行いました。手に入る限りの全ての本を読みあさり、彼女の音楽に没入しました。
私は長い間、彼女の大ファンだったのですが、この機会に全ての本を読み、彼女と接した人々の彼女への見方を知りました。ヨハン・ハリという素晴らしい方とも対談して、本作のベースとなっている彼の著書「麻薬と人間 100年の物語」(原題:Chasing the Scream)のお話を聞いたのですが、彼の彼女に対する愛がひしひしと伝わってきましたね。演技指導をしてくれたターシャ・スミス、訛りの指導をしてくれたトム・ジョーンズにも支えてもらい、共同作業で多くの時間を役づくりに費やしました。身体的な面では、健康的ではない役を演じるために、20キロも?せなくてはいけませんでした。腹筋のある姿を、スクリーンに映すわけにはいけませんから。彼女には腹筋はないし、40年代にドラッグをやっていた女性の身体に見せなくてはなりませんでした。
ビリーを演じる前は、何かを罵倒することはありませんでしたが、彼女の人生を生きるために、人々との関わり方や自身の振る舞い方を変えなければなりませんでした。家族や知り合いとの生活のなかで、それを実践しなければならなかったのですが、徹底的に役づくりができたと思います。また、ヘロイン常習者や元常習者の話を聞き、彼らの葛藤や衝動を学びました。彼女を演じるには、そのレベルでの取り組み方がふさわしいのです。
リーと私で話し合い、撮影で歌うことに決めました。彼は「あなたがビリーと同じように歌うのを聞きたいんだ」と言っていました。そこで私たちは、撮影前のレコーディングも、撮影時の歌唱も、両方やることにしたんです。
私は歌い手として、観客の前でパフォーマンスをするときには、スタジオでは再現できない何かが生まれると感じるんです。その場には観客とのつながりがあり、私にとってはスピリチュアルで、癒しや連帯感を得られる経験です。観客の前で歌うときは、その場の空気を変える何かが起こる。特にビリーの場合は本当にそういう現象が起こっていました。彼女が出所後に行ったカーネギーホールのコンサートが完売になり、観客が彼女の歌を聞くことを切望したのも、彼女が彼らに特別な感覚をもたらしてくれるからこそだと思います。観客はただ歌声を聞き、そこにある反骨心を感じるだけではなく、目の前でのライブパフォーマンスに触れる特別な体験や、歌い手との間で変わされる何かを得ようとしたんです。私は、同じように実際に歌い、撮影できたことに本当に感謝しています。
「消耗された」という言葉を使いたいところですが、この経験は実際のところ、私の糧になりました。自分がやるべきだと信じていることをやっているときは、例え難しく大変なことであっても、毎日が糧になっていると思うんです。それが、私にとってのビリーという役であり、この映画でした。眠らない、食べない、お酒を飲む、タバコを吸う……体にも心にも優しくないことをしていたわけですが、全ての行動が重要で意味があり、目的があると感じられたので、精神的にはとても満たされていました。
あれだけのストレスを体に与えたので、もちろん副作用もありましたが、全体的には役を通して成長したと感じています。やるべきことがたくさんあり、どれもがタフでした。ですが、それが彼女の人生だったんです。彼女が当時感じていた不安や抱いていた感情の、恐らく4分の1にも触れられていないだろうと思っていましたが、役を全うできたことは光栄でした。大変でしたが、それ以上のものを私に与えてくれました。
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