尾野真千子が自覚する、24年ぶりに訪れた内面の変化
2021年5月19日 19:00
コロナ禍の2020年代を象徴かつ代表する作品が完成した。石井裕也監督がこの状況下で撮ることに強くこだわった新作「茜色に焼かれる」。その中心で、行き場のない怒りに対して振り上げた拳の落としどころが分からず当惑し、必死にもがく尾野真千子の姿があった。「萌の朱雀」で女優デビューを果たしてから24年、尾野が筆者に明かす、内面に訪れたという変化がいかなるものであったのかに迫る。(取材・文/大塚史貴、写真/根田拓也)
NHK連続テレビ小説「カーネーション」で演じた主人公の小原糸子が尾野の知名度を全国区にしたことは紛れもない事実だが、骨の髄まで映画女優であるということを尾野自身が常に意識して過ごしてきたことは、出演映画のアーカイブ(短編やオムニバス作品も含む)が50本以上を誇ることが物語っている。
そのスタートは、誰よりも華やかなシンデレラストーリーだった。奈良・吉野で暮らしていた尾野が中学校の下駄箱を掃除中、河瀬直美監督に見初められ、第50回カンヌ国際映画祭のカメラ・ドール(新人監督賞)を受賞することになる「萌の朱雀」の主演に大抜擢されたのだから。その10年後、同じ河瀬監督作「殯の森」は第60回カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得。だが、それ以降の女優生活に焦点を当てると、20代の代表作と呼べる作品があったわけではない。
だからこそ、今年の11月で40歳を迎える尾野にとって、30代を振り返ったときにまず思い浮かべるのが「カーネーション」への出演であったとしても、誰も疑問の余地を挟まないだろう。
「やっぱり30代は朝ドラかな。あのときは、良くも悪くも私が変わったときですね。出演が決まったとき、もちろん嬉しかったんやけど、すごく怖くもあった。自分がどう変わってしまうんやろって。それまでのヒロインを見ていると、どんどん変わっていくのがわかる。私はそこ(朝ドラ)を目指したけど、いざとなったら怖くなって、お母さんに『わたし変わってしまうかもしれへん。朝ドラ、やってええんやんなあ?』って泣きながら電話したのを覚えてます。そうしたら『ええんちゃうか? あんた、それやりたいから東京行ったんやろ? じゃあ頑張り! 変わるのは嫌やけど』みたいに言ってくれて。まあ案の定、変わったし。でも、悪い方向にばかりじゃなかったから」
あの年、東日本大震災という未曾有の災害に見舞われ、日本中が意気消沈していた。そんなとき、毎朝テレビをつけると、関西弁をまくしたて奮闘する尾野が全国に元気を届けていたと感じる人は少なくなかっただろう。「カーネーション」でも子育てをする母親を演じているが、尾野が母親役に初挑戦したのは10年5月に公開された主演映画「トロッコ」にさかのぼる。夫に先立たれ、ふたりの息子をどう育てていくか途方に暮れているという難役で、役どころとして「茜色に焼かれる」と類似する箇所が見受けられる。当時、筆者が尾野に話を聞いた際、子役と接してみて「役に対するアプローチが劇的に変わることはなかった」「子どもを持つことが怖くなった」と明かしている。
「そうそう、経験が浅い頃の方が、子どもとのコミュニケーションはよく取っていたかも。以前は気を遣っていたけど、最近は話しかけてきてくれたらもちろん話すけど、基本的には放っておいてる。お芝居でそういう形を作るから、コミュニケーションを取り過ぎるのも芝居の邪魔になっているような気がしていて。子役の本当のお母さんが私に対して家で刷り込ませてきてくれるし、あまり下手な動きをせずに、そこにいるだけ。今回も余計なことはしなかったと思います」
その“今回”というのが、石井監督と初めてタッグを組んだ今作を指す。19年4月に高齢者の運転する乗用車が暴走し計11人を死傷させた「東池袋自動車暴走死傷事故」がフックとなっている。尾野扮する37歳の主人公・田中良子は、7年前に理不尽な交通事故で夫を失って以来、中学生になる息子をひとりで大切に育ててきた。加害者側から支払われるはずの賠償金は、「謝罪の言葉が一言もなかったから」を理由に受け取りを拒否。コロナ禍で経営していた小さなカフェは破綻し、施設には脳梗塞で体が不自由になった義父がいるため、家計は火の車。スーパーの仕事だけではどうにもならず、風俗で稼ぐほか生きる術がない。
そう、これは現在の日本で誰にでも起こり得ること、そのうえで渦巻く綺麗ごとで括れない様々な感情をすべて飲み込んだ石井監督の思いを、尾野が代弁者として全身を駆使して体現しているのだ。もう八方塞がりで希望など持てる状態ではない良子だが、最愛の息子がいればこそ、決して諦めない。結婚前は芝居をしていたという設定で、本音を語らず感情が動きそうなときは「まあ頑張りましょう」で済ませてしまう。
観る者は、この「まあ頑張りましょう」に違和感を抱かざるを得ない。頑張っても解決の糸口が見えないのだから。尾野も複数のインタビュー取材で必ず聞かれたそうで、「そこに驚くんやね。10人が10人、皆さんが『頑張りましょう』に疑問を抱いている。どういう感情なんですか? って」と笑う。
そもそも今作へのオファーがなければ、仕事をしばらく休むことも考えたという。「コロナがどんなやつか分からへんやんか。死にたくない……、1年くらい休みたいなと思っていたら、石井さんから話があってね。それがまた企画書が面白くて……。でもやっぱり休みたい。石井さんは石井さんで『いま撮りたい』と。やっぱり自分はこんな時期でも動かなきゃダメなんだ、何があってもいいと思えるような作品にしようという覚悟に切り替わって、そこから現場に対する向き合い方がより一層真剣になった。もし今ここで死んでしまったとしても、私の姿はこの作品に残る。この作品を、自信をもってお届けできる。そういう気持ちになったんです」
揺れる尾野の気持ちをそこまで転換させた石井監督のことを聞いてみた。尾野を取材して12年ほどになるが、共演者や監督について積極的に話すタイプではない。それでも、石井監督についてであれば面白い考察が聞けるのではないかと思い至り、話題を振ってみると出てくる、出てくる……。
「これがね、どう伝えていいのか分かんないんですよ。とにかく、変態。私が好きなタイプの変態なの。変態にいいも悪いもないやん(笑)。でも私、『この人のこと好きやな』って思った。芝居に対しての向き合い方、監督としての居方、何もかもが熱い。それが私にとってはすごく魅力的で、『面白いなあ、この人』が『変態』という文字に変わる。芝居を見ているときの眼差しとか、『なんでそんな顔で見るの?』って顔で見てくるわけ。そこにはきっと言いたいことがたくさんあるけど、全部を言わずに野放しにするドSぶりとか、私が好きな要素がめちゃめちゃ詰まっている。変態やし、失礼やけど、映画人としてはすごくいい。そして、変態には変態が集まる。カメラマンはじめ、皆さんどこか変わっていて、だからこそいいんやっていうことが実感できる現場やった」
尾野に激賞された石井監督だが、製作に至った経緯を「人が存在することの最大にして直接の根拠である『母』が、とてつもなくギラギラ輝いている姿を見たいと思いました。我が子への溢れんばかりの愛を抱えて、圧倒的に力強く笑う母の姿。それは今ここに自分が存在していることを肯定し、勇気づけてくれるのではないかと思いました」と説明している。観る者は必然的に母親に思いを馳せるであろうし、筆者も然り。良子には断固として譲れない母親としての哲学があり、型破りと括り切れない母親像は窮屈な現代にあって痛快ですらある。では、尾野の母親はどのような人物なのだろうか。
「父の後ろを三歩下がって歩くような人やから、今回の私の役とは重ならないかな。うちのお母さんは、また違う戦い方をしていた。父と子どもたちのことを第一に、自分のやりたいことなんて一切やっていなかった。自分のためにお金を使ったのを見たことないし、同窓会にすら行っていなかったんじゃないかな。今回の役をやるにあたって、エッセンスは少なくともあるかもしれない。でもそれは、私にとって母といえば、うちの母しかいないから。母というより、どちらかというと姉(尾野は4人姉妹の末っ子)の方が強かったかなあ。うちの姉も、あんな大変な思いをしているわけではないと思うけどね」
20代後半から現在に至るまで、尾野が一貫して「映画女優」であることを望んだことは前述の通りだが、その視線はいつだって嘘がない。30代は「カーネーション」への出演だけでなく、結婚も離婚もあった。
「いま、楽しいですよ。好きにやらせてもらっているし、どんどん気持ちが楽になってきている。でも、自分の知らないところで意味もなく持ち上げられているのが怖い。実際の自分はまだまだ下の方にいるのにね。40歳に向けて、もうちょっとみんなと同じ目線になれるようにしなきゃ。それにしても、30代は本当に早かったなあ。楽しいことをたくさんやらせてもらったから。40代はどんな楽しいことができるかな。ただ、この作品で気持ちに変化があったのは間違いない。そんなふうに思えるのは、『萌の朱雀』以来かもしれへん。うん、周囲の私を見る目が変わったり、世の中の見方が変わったりという変化はあったけど、私の中でここまで明らかに変化したのは『萌の朱雀』以来やね」
その内面の変化がいかなるものか、これから出演する作品で徐々に明らかになっていくのだろう。この変化を実感した尾野には、何か今までと違う光景が見えているのだろうか。
「なーんにも見えてへん。見えるわけないやん。明日どうなるかも分からんのに。だから夢は映画女優って言い続けているんやろうね。やっぱり映画って、いいよなあって思う。両親には『ちょっとはテレビも出てくれ』って言われるけど、いつも『あんたら、何も分かってへんなあ』って返してる(笑)。先は見えん。でも、見えへんから楽しい。さて、どんな記事、書いてきはんのやろねえ。楽しみやわあ」
若き日の田中裕子のような、艶やかな笑みを浮かべながら筆者のICレコーダーをいじる尾野。映画女優であることをこよなく愛し、文字通り命がけで臨んだわけだが、「まあ頑張りましょう」の先に待ち構える、尾野のフルスロットルを超えた瞬間を目撃してほしい。
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執筆者紹介
大塚史貴 (おおつか・ふみたか)
映画.com副編集長。1976年生まれ、神奈川県出身。出版社やハリウッドのエンタメ業界紙の日本版「Variety Japan」を経て、2009年から映画.com編集部に所属。規模の大小を問わず、数多くの邦画作品の撮影現場を取材し、日本映画プロフェッショナル大賞選考委員を務める。
Twitter:@com56362672
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